栗橋宿(くりはしじゅく)は、江戸時代に整備され、栄えた宿場町の一つ。現在の埼玉県久喜市栗橋区域に相当する。日光街道の江戸・日本橋から数えて7番目の宿場である。当宿と利根川対岸の中田宿は合宿の形態をとっており、両宿を合わせて一宿とする記述も有る。この地は利根川の渡河地点にあたり、日光街道から江戸への出入りを監視する関所が置かれ、江戸の北方を守る要地であった。江戸時代以前の街道(および整備される以前の日光街道)は幸手宿から北東に向かった先に、古くから旧渡良瀬川を渡る渡船場があり、房川渡し(ぼうせんのわたし)と呼ばれていた。渡河した左岸には旧栗橋村(現在の茨城県猿島郡五霞町元栗橋)があった。そこから北上して現在の古河市へ入った。慶長年間に地元の池田鴨之助、並木五郎平の出願により、現在の栗橋地区となる上河辺新田が開墾された。その後、1616年(元和2年)に日光・奥州街道筋が付け替えられ、その地に利根川渡河の宿駅として栗橋宿が成立した。利根川対岸の中田宿と栗橋宿は合宿の形態をとっていた。荷物や人夫の継ぎ立てを行う問屋の業務は半月毎の交代制であった。栗橋宿の開宿に尽力した池田鴨之介は、栗橋宿の本陣を代々務めた。栗橋宿の規模は、天保14年(1843年)の記録によると人口1,741人、本陣1、脇本陣2、旅籠25軒、家数404軒、であったという。軍事上の目的から架橋されず、通行は房川渡しがあった。また、栗橋宿側には、関所が設置された。栗橋河岸の成立は、『徳川禁令考』によると、元禄3年(1690年)に記録されている。栗橋河岸は栗橋宿の東方、利根川右岸、利根川と権現堂川との分岐部近隣にあり、日光・奥州街道(陸羽街道)と利根川が交差し、対岸に中田宿が位置していた。栗橋河岸の呼称は、明和・安永~文化年間にかけて栗橋宿河岸であったが、寛政以降栗橋河岸となった天保14年(1843年)の記録によると、水運関係は公儀渡し舟2艘、茶舟5艘、馬舟2艘があった。江戸幕府は防衛上の理由から、大河川に橋を架けず、奥州・日光街道の利根川筋に渡船場が設置された。これは、古名を引き継ぎ、房川渡と呼ばれた。そして「江戸の治安を図る爲・・・(中略)・・・設けられたのが関所がある」。正式には「房川渡中田御関所」と呼ばれ、栗橋関所が通称となった。当初は中田宿側に関所が置かれていたが、寛永元年(1624年)に対岸の栗橋宿側に移された。本関所の通過は、寛永8年の『御関所改之儀書上候覚』にて規定され、同時代の他の関所とほぼ同様であった。中山道の木曽福島関所、碓氷関所や東海道の箱根関所、北国街道の関川関所、甲州街道の小仏関所と同様に「入鉄砲に出女」を取り締まっていた。武器類の搬送は、「入り鉄砲」は老中証文により定法とされ、房川渡中田関所最古の寛文3年(1663年)の鉄砲手形は「元禄十年、享保六年迄御関所御諸記」に記されている。房川渡中田(栗橋)関所における武器類の搬送は、天保8年(1837年)の「文化三寅年同四年夘六月迄、御関所御用書抜」から鉄砲勘過規定の指示が残されている。房川渡中田関所での鉄砲搬送方法は、老中裏印証文、留守居衆断状、勘定奉行証文、老中の宿継証文、そして持ち主・家来証文による5つの方法があった。本関所の「入り女」に対する扱いは、元和2年(1616年)幕閣連署による「船渡定」にて「惣別江戸え相越もの不可改事」と規定されたことから、「江戸へ入る女性の場合は女手形を必要とせず、口上で断って通ることができた」。1869年(明治2年)、明治維新の最中に栗橋関所は幕府と共に姿を消した。なお、房川渡は東京から東北方面へ向かう交通路として明治以降も存続した。1924年(大正13年)の利根川橋完成によって、房川渡はその役割を終えた。
出典:wikipedia
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