荘公(そうこう、紀元前757年 - 紀元前701年)は、鄭の第3代君主。武公の長子で共叔段の兄。同時に周の平王の又従兄弟でもある。武公と申侯の娘の武姜との間の長子として生まれ、太子となる。武公27年(前744年)、武公が薨去したため、太子寤生(ごせい)が立って鄭君(以降は荘公と表記)となった。荘公元年(前743年)、荘公は同母弟の叔段を京(けい:邑名)に封じ、太叔とした。この時、大臣の祭仲が諫めたが、荘公は「母の所望だから」と聞き入れなかった。荘公22年(前722年)、京にいる段は母の武姜と謀って新鄭を攻撃してきた。これに対し、荘公は出兵して段を撃ち、続いて京に進攻した。すると京の民衆が段に背いたため、段は京を出て共(きょう:国名)に逃げた。荘公はこの乱に協力した母の武姜を城潁に移し、死ぬまで会うまいと誓ったが、翌年(前721年)になってたまらず会ってしまった。荘公24年(前720年)、宋において宋の穆公が薨去したため、宋の公子馮が鄭に逃れてきた。この年、鄭は周に侵入してその禾(穀物)を取った。荘公25年(前719年)、鄭が公子馮をかくまったため、衛と宋が攻撃してきた。荘公27年(前717年)、荘公は族孫にあたる周の桓王のもとに参朝したが、以前に周の禾を取ったことがあったため、礼遇されなかった。そのためその2年後(前715年)、荘公は祊邑(ほうゆう)と、魯に属していた許の田とを取り換えた。荘公37年(前707年)、荘公が周に参朝しなかったため、周の桓王は陳・蔡・虢・衛の兵を率いて鄭を撃った。これに対し荘公は、祭仲・高渠弥らとともに出兵し、連合軍を撃破した。荘公38年(前706年)、北戎が斉に侵攻したというので、荘公は太子の忽(こつ)を救援に向かわせた。これによって北戎を撃退できたので、斉の釐公は太子忽に娘を娶らせようとした。しかし太子忽は「我が国は小国で、斉とは釣り合いがとれません」と言って断った。荘公43年(前701年)、荘公が薨去し、太子忽が立って鄭君(昭公)となった。
出典:wikipedia
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