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共叔段

共叔段(きょうしゅくだん、生没年不詳)は、鄭の公子。武公の次男で荘公の弟。姓は姫、諱は段。共叔段とは『春秋左氏伝』での表記で、「共」は共の国に出奔したことを意味し、「叔」は次男を意味するので、「共叔」というのは姓氏ではない。武公と武姜の間に生まれる。母の武姜が長男の寤生(ごせい:荘公)を生んだ時は難産であったのに対し、次男の段を生んだ時は安産であったため、武姜は次男の段をかわいがった。武公27年(前744年)、武公が病気になると、武姜は段を太子に立てたいと申し出たが、武公に断られた。その後、武公が薨去したため、長男の寤生が立って鄭君(以降は荘公と表記)となった。荘公元年(前743年)、段は兄の荘公によって大邑である京(けい:邑名)に封ぜられ、太叔と号した。世間では「京城の大叔」と呼ばれ、もてはやされるようになる。しかし、一方で段は甲冑や兵器を繕い始め、母の武姜と謀って鄭を簒奪しようと企むようになった。やがて段は強盛を恃んで鄭の西境と北境の邑に対し、自分に従うよう指示した。こうして西境と北境の邑は段の統制下となり、東北境の廩延(りんえん)までも段の統制下に入った。荘公22年(前722年)、武姜の内応もあって段はついに首邑・新鄭を襲撃した。しかし、荘公によって撃ち破られ、段は敗走し、京が陥落した。5月、段は鄢(えん)に逃れたが、ここでも荘公に敗れたので、さらに共(きょう:国名)へ逃れた(このため段は共叔段と呼ばれる)。荘公25年(前719年)、段は衛の州吁(しゅうく)と手を組んで衛・宋・陳・蔡の4カ国連合とともに鄭を攻撃した。

出典:wikipedia

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