E・メイソン・ホッパー(, 1885年12月6日 - 1967年1月3日)は、アメリカ合衆国の映画監督、脚本家、俳優である。1885年(明治18年)12月6日、アメリカ合衆国のバーモント州エノスバーグに生まれる。ヴォードヴィル俳優、食品加工業、野球選手などの職に就き、メリーランド大学カレッジパーク校の学生を経て、満25歳となった1911年(明治44年)、当時シカゴにあったエッサネイ・フィルム・マニュファクチャリング・カンパニー(エッサネイ・スタジオ)に入社する。1914年(大正3年)までに同社で1巻ものの短篇映画を量産する。1915年(大正4年)から、エクィタブル・モーション・ピクチャーズ・カンパニーやジェシー・L・ラスキー・フィーチャー・プレイ・カンパニー(フェイマス・プレイヤー=ラスキン)、 アメリカン・フィルム・マニュファクチャリング・カンパニーを渡り歩き、1916年(大正5年)、ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)傘下に設立されたブルーバード映画で、ゾーイ・レイを主演に『小国民』を監督、同作は日本でも公開された。同年、フェイマス・プレイヤー=ラスキンの兄弟会社パレス・ピクチャーズに入社、同社での監督作はパラマウント映画が配給した。1917年(大正6年)には、トライアングル・フィルム・コーポレーションに移籍している。1920年(大正9年)、ゴールドウィン・ピクチャーズに移籍、エドワード・ピール・ジュニア主演ものを多く手がける。1923年(大正12年)からはコスモポリタン・プロダクションズに移籍している。1926年(大正15年)からはメトロポリタン・ピクチャーズに在籍した。1927年(昭和2年)、"The Wise Wife" 以降は、セシル・B・デミルのデミル・ピクチャーズで仕事をした。1929年(昭和4年)にはメトロ・ゴールドウィン・メイヤーに移籍している。1935年(昭和10年)、トム・キーン主演の "Hong Kong Nights" 以降は、監督としてはクレジットされていない。1936年(昭和11年)、クレジットはされていないが、ジョージ・キューカー監督の『椿姫』のモブシーンを演出、1938年(昭和13年)には、満52歳にして、クラレンス・ブラウン監督の " の助監督を務めた。1943年(昭和18年)以降は、クレジットされない端役の役者に転向している。1967年(昭和42年)1月3日、カリフォルニア州ロサンゼルス市ウッドランド・ヒルズで死去した。満81歳没。特筆以外は監督のみである。Internet Movie Databaseの記述によれば、1930年代の書物にすでに350作を監督、400作のシナリオを執筆した旨の記述があるとのこと、作品は同サイトのリストに収まりきれていない。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。