最初に"Rex Anglorum"(イングランド王)の称号を用いたのはマーシア王オファであるが、その権力は彼の後には生き延びることはなかった。9世紀にケント及びマーシアからサセックスを征服したウェセックスの王は次第にイングランド王国の他の王国に支配を及ぼすようになった。絶えることなく続くイングランド君主一覧は伝統的に829年のウェセックス王エグバートに始まる。アルフレッド大王 とその男子のエドワード長兄王は〝アングロ=サクソン国王〟の称号を用いた。アゼルスタンは927年にノーサンブリアを占領してから"Rex Anglorum"の称号を採用した。ヘンリー2世の治世の開始時(1154年)に称号が"Rex Angliae"(イングランド国王)になった。ウェールズ公国は1284年のルゥドドランの法令でイングランド王国に吸収され、1301年にエドワード1世は長男のエドワード2世にプリンス・オブ・ウェールズの称号を授けた。この時以来、エドワード3世を例外として全てのイングランド君主の長男はこの称号を帯びるようになった。1603年のエリザベス1世の死後、イングランドとスコットランドの王位はジェームズ1世のもとで一つとなった。国王の布告によってジェームズ1世は自らの称号を「グレートブリテンの王」とした。ジェームズ1世の即位以来、親を介して二重の相続人である両王国の後継者の称号を「イングランド王」ないしは「イングランド女王」とするのは、ジェームズ1世の布告に照らせば不正確である。しかし、この称号は今日に至るまでしばしば用いられる用法として存続している。1707年にイングランドはスコットランドと法律上合同を行い、グレートブリテン王国が成立した。1707年以来、イングランドは法律上は、グレートブリテン王国以降の連合王国から分離していない(ただし、スコットランドについては、連合王国の法体系上特別な扱いがなされることも多い)。ヘンリー2世以来、イングランドの支配下に置かれているアイルランド王国は1800年の連合法によって翌1801年にグレートブリテンおよびアイルランド連合王国の一部となった。この状態はアイルランド自由国成立後の1922年まで続き、その後の改名の結果、イングランドを含む連合王国の名称はグレートブリテンおよび北アイルランド連合王国となった。幾つかの資料では最初に"Rex Anglorum" の称号を用いたのは757年以来、マーシア王であったオファの774年だと言われているが、この主張は明らかに10世紀に偽造された憲章に基づいている。しかし、自らを"Of Rx A"と刻んだ幾つかのオファの貨幣から彼が"Of Rx A"の立場にあったと信じられている。このことは当時、後世に獲得したのよりも異なる意味を有していた、即ち、アングル人の王であって、必ずしもサクソン人の王ではない。連続した一覧は伝統的に802年以降のウェセックス王で同王として最初にイングランドに君主権を及ぼしたエグバートに始まる。エグバートは825年にマーシアを破ってブレトワルダになったが、829年にマーシアの支配権を失った。アルフレッド大王とその男子のエドワード長兄王は〝アングロ=サクソン人の王〟の称号を用いた。927年のアゼルスタンの征服以降は"rex Anglorum" (イングランド王)の称号が採用された。エルフウェルドが父エドワード長兄王とアゼルスタンとの間である924年の4週間に王であったことの幾つかの証拠はあるが、彼は戴冠しなかった。しかし、このことは歴史家たちに受け入れられなかった。エゼルレッド2世の統治中にイングランドはデンマーク王 の支配下に置かれた。スヴェン1世の死でエゼルレッドは亡命先から帰国して1014年 2月3日に再び王であることを宣言した。エゼルレッドの男子は、アングロ=サクソン人から王冠を奪い取ろうと画策するデーン人と対立するロンドン市民と賢人会議に選ばれた後に父の後を継承した。1016年 10月18日のアサンダンの戦いの結果、エドマンド2世は、クヌート大王がウェセックスを除く全イングランドを支配することを認めた条約に調印した。11月30日にエドマンド2世が死ぬとクヌート大王はイングランド全土を統治する唯一の王となった。ハーデクヌーズの後、1042年から1066年にかけて短いサクソン朝の復帰があった。ヘイスティングズの戦いの後にイングランドの歴史は決定的なものとなり、ウィリアム1世がイングランド王になった。1066年にフランス王の封臣でエドワード懺悔王の従妹の男子であるノルマンディー公 ギヨーム2世(ウィリアム1世)がイングランドに侵攻してウェストサクソンを征服したことでノルマン・コンクエストが確立され、自らの恒久的な政府をウィンチェスターからロンドンに新しく移転した。10月14日のヘイスティングズの戦いでハロルド2世の死が決定的になると、アングロサクソン人の賢人会議はエドガー・アシリングをハロルド2世に代わる国王に推戴したが、エドガーは侵略者に抵抗することが出来ず、戴冠することもなかった。ギョーム2世は1066年のクリスマスにイングランド王として戴冠し、今日ではウィリアム征服王、ウィリアム庶子王、ウィリアム1世として知られている。スタンフォード・ブリッジの戦いと同時に、ノルマン朝はデーンロウ、次第には一貫してイングランドの支配を主張するスカンジナヴィア半島の請求者を追い払うことに成功した、それによって自身のスカンジナヴィアの子孫達に王冠を守る一方で、後世に西ローマ帝国のイギリス海方面にあるサクソンの沿岸部として知られたが、神聖ローマ帝国のイギリス海峡方面にあるネウストリア国境地帯に変わった南側に基盤を置いた。ノルマンディーでは王権が強大に増強され、ごく僅かな独立は大目に見られた。それはノルマン朝の主題であったウェセックス支配を大きく特徴付け、幾つかの場合、まさにノルマン朝の性質の実態は、自らの公国はフランク人の性質から独立しているという歴史的決定の型を通じたサクソン朝とデーン朝の混合であった。サクソン朝にせよデーン朝にせよ掴んだ権力が他者に対抗する自らの区域という単純なものであったことからすると、屈服されたイングランドが得たものがごく少量であった。ウェストサクソンの君主のデーン人の攻撃に対する実力行使や自らの支配の集中化が不十分であったことから、イングランドはノルマン人の手で押さえ付けられていた、しかしこの結果は行政の中心(即ち、ウェストミンスター)は以前よりもデーンロウに近く、権力の集中は太守のような地方の政府の役人の手から完全に離れていた。ノルマンディーでは単にルーアンからロンドンまでのキュリア・レジスによって当局が派遣された、そして王自身と側近に近付くことは共通の人々に厳しく制限されていた。この隔絶は、しかし、自らが独立した王位を求めるという明らかにデーン人の先入観を持ったような王によって廃位された影響され易い他の君主よりも安定した統治を維持するには必要不可欠であった。フランスの様式である君主の順位(代数)を採用したのは、ウィリアム1世とその子孫による統治が唯一のものであった、しかし、渾名によって君主を区別するという初期の習慣は、最後まで途絶えることはなかった。マティルダは父のヘンリー1世によって推定相続人であると宣言され、男爵達によって認識された。しかしヘンリー1世が死ぬと、王位はマティルドの従兄にあたるスティーブン・オブ・ブロワの手に渡った。無政府時代はマティルダが正当なる支配者として君臨した1141年の数ヶ月間のことであるが、彼女は戴冠することこそはなかったものの、イングランドにおける初の女性君主とみなされる。この時、スティーブンとジョフロワ4世が互いにイングランドの政治の中に入ったことは、彼等がイングランドの民族的部類に直接の繋がりはなく、僅かにノルマン朝(ノルマン朝はイングランドとフランス間の文字通りに抽象的な橋としての役割を果たし、文化的遺産は今日のチャネル諸島で保たれている)を介した王朝的繋がりという点で注目すべきことである。スティーブンは1153年11月にウォーリングフォード条約で、マティルダの男子アンリを養子という形で自らの王位後継者とすることに同意した。ノルマン朝による統治期間よりも、プランタジネット家はアキテーヌから支配を行い、より多くのフランスにおける領土を獲得したが(アンジュー帝国)、ジョン欠地王の代にほとんどのフランス領を失う前には、同じくイングランドを自分達の主要な領土とは見なさなかった。この長きにわたる王朝は、アンジュー朝、ランカスター朝、ヨーク朝の3期に分けられる。フランスへの焦点からブリテン島全域への拡大の変更はランカスター朝とヨーク朝の用法が異なることを示し、両王朝の前方に見渡す国境先にはノーサンブリアを要求する スコットランド王(古い同盟)が存在し、敵対するプランタジネット家の分家の名に等しいということで特筆される。プランタジネット家が互いに殺し合ったことでウェールズ系のテューダー家が有利になったが、ランカスター家とポルトガル(アキテーヌ維持には不可欠だった)、それにカスティーリャも加わった結び付きは確かなものになった。これがヘンリー8世がクレーフェにおけるヨーク朝・ブルゴーニュ公国の古い同盟を選択したことから急に変わり、エリザベス1世の寵臣レスター伯ダドリーの許でのネーデルラント反乱における内紛で更に続行されたイングランドをスコットランド・レノックスの(本来はフランス・オービニー=シュル=ネールに基盤を置いていた)という来る反テューダーという背信への憤りから、このこと全てが並行して行われた。スコットランドの王朝は対象として新たに見つけたイングランドに権威を及ぼすのを維持するためにフランスに依存し、両国は前にも後にも王冠を獲得するために共に戦った。百年戦争以前のヨーク=ブルゴーニュ同盟はウィリアム3世のもとで復活し、これは第二次百年戦争と呼ばれる。プランタジネット家はイングランドの王章を制定し、これは大抵、王国を掌握ないしは要求する者やその後継者によって示されたが、全く同時期のアイルランドの表象は欠けている。王の一覧に関して蛇足を加えると、フランス王太子ルイはジョン王に対するバロン戦争の結果、1216年から1217年の短期間にイングランドの半分を支配した。しかし、ラムベス条約に調印したことで自身が正当なるイングランド王ではないことを認めた。この家系はエドワード3世の四男ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの子孫である。ヨーク家はエドワード3世の五男ヨーク公エドムンド・オブ・ラングリーの子孫である。テューダー家は14世紀のジョン・オブ・ゴーントとその長年の愛人キャサリン・スウィンフォードの庶子ジョン・ボーフォートの女系の子孫である。イングランド君主の庶系の子孫は王位請求権を持たない。しかし、ジョン・オブ・ゴーントとスウィンフォードが1396年(ジョン・ボーフォートが産まれてから25年目)に最終的に結婚したことが事態を面倒にした。この結婚の視点は、同年に教会がボーフォートはローマ教皇経由の勅書で嫡子であることを遡及して宣言した(同時に1397年の議会の決議に秘められた)。続いてジョン・オブ・ゴーントによって嫡子であることが宣言され、ヘンリー4世もボーフォートを嫡出と認識したが、王位を継承する資格のないことが宣言された。にもかかわらずボーフォート家はジョン・オブ・ゴーントの子孫であるランカスター家と親密に同盟を結んでいた。ジョン・ボーフォートの曾孫で相続人と見なされたマーガレット・ボーフォートはエドムンド・テューダーと結婚した。エドムンド・テューダーはウェールズ大公家の末裔であるオーウェン・テューダーとヘンリー5世の妃であったキャサリン・オブ・ヴァロワの男子である。エドムンド・テューダーとその兄弟は庶子ないしは秘密結婚の産物によるものであり、自分たちの幸運が正嫡の異父兄ヘンリー6世の好意によるものであることを認めていた。ランカスター家が力を失った時にテューダー家が台頭した。ヘンリー8世がローマ・カトリック教会と断絶するとイングランドの君主はイングランド国教会とアイルランド国教会の最高首長となった。エリザベス1世の称号にイングランド国教会最高首長が加えられた。エドワード6世はジェーン・グレイを自身の推定相続人とした。エドワード6世死後の4日間、ジェーンは女王と宣言した。宣言から9日後、エドワード6世の異母姉でカトリック教徒であったメアリーは十分な支持を得ることに努め、7月19日にジェーンを捕捉してロンドン塔に送った。ジェーンは16歳で処刑された。今日イギリス王室はジェーンは正統なる君主であると見なしている。フェリペ2世 とメアリー1世の結婚の取り決めのもとで、フェリペ2世はメアリー1世の称号を享受し、名声は結婚と同じ長さで続いた。議員立法を含む公的文書には両人の名前が記され、議会は夫妻の権威の名のもとで召集された。議員立法はフェリペ2世に王の称号を与え、「メアリー1世陛下の神の恩恵を受けた王国と支配領域の幸福なる行政を……助けるべし」と明記した(しかし、あらゆる場所での議決でメアリー1世が「唯一」の女王と明記されている)。にもかかわらず、フェリペ2世はメアリー1世と共同統治を行った。新しいイングランド王は英語 が出来なかったことから、全ての物事とを明記した記録はラテン語ないしはスペイン語で作成しなければならなかった貨幣にはメアリー1世とフェリペ2世の顔を示したのが刻まれ、イングランドの紋章(右側)はフェリペ2世の物に夫妻の共同統治を示す合わせ紋とした。フェリペ2世の王権に傾斜させる大逆罪の法令はイングランドとアイルランドへもたらされた。1552年にローマ教皇パウルス5世がフェリペ2世とメアリー1世を正統なるアイルランドの王及び王妃とする教皇勅書を発行した。1603年にエリザベス1世が後継者を残すことなく没したことで、スコットランド王ジェームズ6世が王位を継ぎ、これはとして知られるようになった。ジェームズ6世は曾祖母でヘンリー7世の長女であるマーガレット・テューダーを介してテューダー家の血を引いていた。1604年にジェームズ1世は、かつてのカスティーリャとアラゴンがハプスブルク家のスペインで一塊になったのと酷似した「グレート・ブリテン王」の称号を採用した。ジェームズ1世は国境を越えたアイデンティティーを促進させるために、従兄弟のレノックス公をリッチモンド公に、他方、をプリンス・オブ・ウェールズに、アルバ公をヨーク公に等と名付けるようにして、称号をスコットランド人とイングランド人に対して等しく気前良く与えた。しかし、議会、特に下院は効率良く分かれたままであった。アイルランドは別個として独立し、教会と国家が並存するというイングランドと平行した統治はスコットランドもこれに加わった時に存続したが、ジェームズ1世は自らの同胞をアルスターに紹介することでアイルランドの荘園に変え、彼等の多くはイングランドのレンスター支配に憤りを持っていた。ステュアート朝は古い同盟に基づいて長い間カペー家とヴァロワ家を支援し、このことが完全にフランス王位請求を試みるに至らなかった。ステュアート家はブルボン家から年金を受け取っており、継承したイングランド内における自身の外国の適応に対して大概悪口を言っていた。プランタジネット家の裏切りが原因なのかも知れないが、フランス革命の圧力下でステュアート朝の後継者であるハノーヴァー朝がフランス王位を放棄した時に更なる譲歩がなされた。1649年のチャールズ1世の処刑から1660年のチャールズ2世によるまでの間、イングランドには君主がいなかった。代わりに1653年に護国卿が設けられ、この期間は護国卿時代として知られている。1660年に君主制が復活したが、安定した解決は、議会が最終的に意に叶う君主として選ばれた者全てへの権利を宣言した1688年の名誉革命まで訪れなかった。一組の議員立法である連合法は、1706年7月22日に2つの国の議員を代表する委員間の交渉で同意されたを有効にするためにイングランド議会とスコットランド議会によって1706年から1707年の間に通過された。立法にはイングランド王国とスコットランド王国(かつては分離した主権国家及び立法府であったが、共通の王を戴いていた)はグレートブリテン王国として一つの王国となることが加えられたT。2つの国は100年間君主を共有してきた(「王冠の合同」:スコットランド王ジェームズ6世がエリザベス1世からイングランド王位を継承した1603年から)。しかし、王冠の合同について述べると1707年以前には実際には同じ頭の上に2つの分かれた王冠が抱かれた。1607年、1667年、1669年の3度にわたって議員立法によって2つの国の合同が試みられたが、18世紀初頭までに実行されることはなかった(意見には背後にある両国の政治的体制の思惑があった、他にも様々な理由があったが)。アルフレッド大王からジョン欠王に至るまでの全君主の基本的な称号は"Rex Anglorum" (イングランド王)。付け加えておくと、ノルマン朝以前の君主の称号を以下に記す。ノルマン朝期には基本的には"Rex Anglorum" は残り、時折"Rex Anglie"(イングランド王)が使われた。マティルダ自身の称号は"Domina Anglorum"(イングランドの女主)であった。ジョン欠地王の時代からは先のその他全ての称号は"Rex Anglie"ないしは"Regina Anglie"(イングランド女王)のため、ここに列挙することは避けておく。1604年に前年にイングランド王を継承したジェームズ1世は(今日では普通にラテン語よりも英語で表現される)に「グレートブリテン王」の称号を採用した。しかし、イングランドとスコットランドの議会は1707年のアン女王(彼女は勿論「グレートブリテン女王」であった)下での合同法までこの称号を認識していなかった
出典:wikipedia
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