抜刀隊(ばっとうたい)は、1877年(明治10年)に起きた西南戦争の田原坂の戦いの際に、警視隊の中から選抜して臨時に編成された白兵戦部隊。田原坂の戦いにおいて、西郷軍による斬り込み攻撃により、政府軍(陸軍)では死傷者が続出した。数に勝る政府軍において人員の大多数を占める鎮台の兵は、主に徴兵令によって徴兵された平民で構成されており、士族中心だった西郷軍との白兵戦に対応しにくかったとされる。こうした状況下による事態を打開すべく、主に陸軍の後方支援をしていた警視隊(警視庁警察官は薩摩士族を中心に全国の士族で構成)の川畑種長大警部、上田良貞大警部、園田安賢中警部、永谷常修中警部らが、征討参軍(実質的総司令官)山縣有朋陸軍中将に対し、植木口警視隊から剣術に秀でた者を選抜して投入することを上申した。徴兵令の主唱者である山縣にとって、彼らの力を借りることは不本意であったが、山縣はこれを許し、植木口警視隊から百十余名をもって第一次抜刀隊が編成された。陸軍参謀本部編纂課「征西戦記稿 巻八 田原阪戦記14ページ」より転載「我カ抜刀隊ハ川畑上田園田三警部各々自ラ刀ヲ揮ヒ其衆ヲ分率シ(※割注*2)賊ノ中央ノ塁ニ逼リ三面一斉ニ衝突シ縦横乱撃立トコロニ数十賊ヲ斬ル余賊塁ヲ棄テ走ル乃チ奪フテ之ニ拠ル此塁ヤ台兵十数日ノ攻撃ヲ費ス所是日一撃之ヲ陥ル抜刀隊ノ功多キニ居ル世ニ所謂抜刀隊ノ斫込実ニ本日ヲ以テ始ト為ス」※割注*2「百人ヲ四分シ上田園田ハ二警部(緒方惟典同惟一)四十巡査ヲ率テ塁ノ正面ニ向ヒ川畑ハ二警部(永谷常修内村良蔵)三十巡査ヲ以テ其背面ニ逼リ隈元警部補ハ巡査十名ヲ以テ側面ヨリシ田村警部以下廿三名ハ遊軍タリ」上田良貞三等大警部:鹿児島県士族、園田安賢二等中警部:鹿児島県士族、緒方惟典二等少警部:鹿児島県士族、緒方惟一二等少警部:福岡県士族、川畑種長一等大警部:鹿児島県士族、永谷常修二等中警部:鹿児島県士族、内村良蔵(直義)二等中警部:福岡県士族、隈元実道警部補:鹿児島県士族、田村五郎二等少警部:福島県士族後述する犬養毅による報道が有名なこともあり、抜刀隊には戊辰戦争で賊軍とされた旧会津藩士など旧幕府出身者が多く志願したといわれることが多い。一方、実際には薩摩藩郷士(外城士)出身者が主力を形成していたとする文献もある。抜刀隊と警視隊が混同あるいは同一視されていることが一因であると考えられ、例えば元会津藩家老の佐川官兵衛大警部は抜刀隊に所属していたとよく誤解されているが、佐川は豊後口第二号警視隊に所属しており、抜刀隊編成以前に戦死している。なお、佐川と同じ会津藩家老であった山川浩陸軍中佐(32歳)は、西南戦争に出征する際、「薩摩人 みよや東の丈夫が 提げ佩く太刀の利きか鈍きか」と歌っている。また、会津藩出身で当時陸軍幼年学校生徒であった柴五郎(17歳)は、西郷軍征討の詔が発せられたことを知ると、「芋征伐仰せ出されたりと聞く、めでたし、めでたし」と日記に書き、さらに西南戦争での西郷隆盛の自決と、その翌年の紀尾井坂の変による大久保利通の暗殺を合わせ、「両雄非業の最期を遂げたるを当然の帰結なりと断じて喜べり」と記している。3月14日早朝に突如襲撃を加えた抜刀隊は大きな戦果を挙げ、田原坂攻略の要となった。しかしながら勢いに乗って深入りしすぎたため、抜刀隊側も相当の損害を出している。全滅した隊も少なくなかった。旧会津藩士の隊員が、戊辰戦争で賊軍の汚名を着せられた雪辱を果たすべく「戊辰の仇、戊辰の仇」と叫びながら斬り込んでいったといわれている。これは、当時郵便報知新聞記者であった犬養毅によって報道された。『戦地直報』第二回ただしこの内容は公式記録には無く、また記者であった犬養自身も直接現場を見てはおらず伝聞情報に基づいて報道したのである。この声の主については戦闘当時抜刀隊小隊長として奮戦した元会津藩士・田村五郎二等少警部ではないか、とする説もある。ただし上記編成のとおり、田村五郎二等少警部の小隊は「遊軍」であり、抜刀隊の本隊を指揮していたのは鹿児島県士族である。抜刀隊の活躍によって、明治維新後廃れていた剣術や日本刀の価値が見直された。川路利良大警視は『撃剣再興論』を著し、警察において剣術を奨励する意向を明らかにした。1879年(明治12年)、警視庁に撃剣世話掛が設けられ、梶川義正、上田馬之助、逸見宗助が最初に採用された。その後も真貝忠篤、下江秀太郎、得能関四郎、三橋鑑一郎、坂部大作、柴田衛守など剣客が続々と採用され、これらの剣客によって警視流剣術の形が制定された。また、弥生神社で大規模な撃剣大会(警視庁武術大会)が開かれるようになり、警視庁は当時の剣客たちの最大の拠点となった。現在も警察剣道は日本剣道界の最大勢力であり、剣道特別訓練員に指定された警察官が全日本剣道選手権大会や世界剣道選手権大会で活躍している。1882年(明治15年)、東京大学教授外山正一が詩集『新体詩抄』に抜刀隊の奮戦を題材とした「抜刀隊の詩」を発表し、その詩にフランス軍楽隊からのお雇い外国人シャルル・ルルーが曲を付け、1885年(明治18年)に軍歌「抜刀隊」が発表された。さらにこの「抜刀隊」をベースとして、軍歌「扶桑歌」の旋律を組み合わせて、1886年(明治19年)に「陸軍分列行進曲」が作曲され、大日本帝国陸軍の公式行進曲として採用された。現在も陸上自衛隊と警視庁機動隊の公式行進曲として受け継がれており、陸上自衛隊は観閲式などで陸上自衛隊の音楽隊により演奏され、警視庁は視閲式などで警視庁音楽隊によって演奏されている。1894年(明治27年)に開戦した日清戦争は日本が初めて経験した本格的な対外戦争であり、日本国民から義勇兵の志願が相次いだ。警視庁においても戦争に貢献したいという意見が全庁員の間にみなぎり、当時警視総監になっていた園田安賢は、西南戦争のとき抜刀隊が編成された例に倣って、抜刀隊を編成して戦地へ派遣したい旨の建言書を、第二部長(保安部)森田茂吉を使者として内閣総理大臣伊藤博文に提出した。伊藤は自分にはよく判らないとして、陸軍参謀次長川上操六に提出するよう指示した。森田から建言書を渡された川上は、「警視庁の奴らは、今ごろこんな事を考えているのか。馬鹿な奴らだ、日本に軍制が布かれてから、もう20年以上も経っているではないか。日本の軍隊は、そんな幼稚なもんじゃない。抜刀隊なんていりやせん。帰って園田にそう言え」と激しい剣幕で突き返した。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。