ミヒャエル・バラック(Michael Ballack, 1976年9月26日 - )は、ドイツ・ゲルリッツ(旧東ドイツ)出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ・センターハーフ)。なお、ヨーロッパのサッカー選手は中卒が多いが、彼自身はギムナジウム(進学校)に在学しながらサッカーをつづけ、アビトゥーア(大学入学資格)を取得した、文武両道の人間である。1997年、ブンデスリーガ・1.FCカイザースラウテルンに入団。2年目よりレギュラーとして定着し、能力の高さを発揮する。1999年にバイヤー・レバークーゼンへ移籍するとドイツ代表にも招集された。2001-02シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグ・国内リーグ・国内カップ戦でそれぞれ準優勝に貢献した。2002年にはブンデスリーガの強豪クラブであるバイエルン・ミュンヘンに加入し、中盤の核として活躍。その活躍ぶりから同クラブのかつての名選手・フランツ・ベッケンバウアーの後継者との評価も高く、ベッケンバウアーのニックネーム「皇帝」に準え、バラックは「小皇帝 ("kleiner Kaiser") 」と呼ばれていた。2006年5月、プレミアリーグのチェルシーFCに移籍。2007年4月、ニューカッスル戦で相手選手との接触により左足首を負傷。以降、2度に渡って手術を行い、8ヶ月の戦線離脱となる。しかし、足首の負傷が完治した2007年12月以降はパフォーマンスも向上し、完全に復調。イングランドのスタイルにも適応し、チャンピオンズリーグではクラブ史上初の決勝進出への原動力となった。2009-10シーズンは32試合に出場し、チェルシーの4シーズンぶりのプレミアリーグ優勝に貢献。しかし、シーズン最終戦であるFAカップ決勝のポーツマスFC戦で、ブンデスリーガ時代から因縁があったケヴィン=プリンス・ボアテングに右足首を踏みつけられた際に靭帯を痛め、2010 FIFAワールドカップ出場が絶望となった。チェルシーでは4シーズンでリーグ戦105試合に出場した。2010年夏、契約満了によりチェルシーを退団し、2010年6月25日にブンデスリーガのバイヤー・レバークーゼンへ復帰した。2012年6月末でレバークーゼンとの契約が満了し、2012年10月には弁護士を通して現役引退が発表された。2013年6月5日ライプツィヒにて、かつての同僚や友人が集まる中で引退試合が開催された。2000年代を代表する選手の一人であり、長らくドイツ代表の中心選手であったが、国際タイトルとは無縁のまま引退することとなった。1999年4月28日のスコットランド戦で代表デビューを果たす。2002 FIFAワールドカップ準決勝の韓国戦では、イエローカードをもらうと累積警告で決勝に出場できなくなることを知りながら、味方のミスをカバーするために戦術的ファウルを犯し、イエローカードをもらう。直後にチームを決勝へと導くゴールを挙げた。欠場した決勝には敗れて準優勝に終わった。ユルゲン・クリンスマンが2004年に代表監督に就任すると東ドイツ出身の選手として初めてキャプテンに指名された。自国開催となる2006 FIFAワールドカップでは得点こそできなかったが、その構成力とキャプテンシーで自国を3位に導く活躍を見せた。EURO2008ではグループリーグのオーストリア戦で決勝点を挙げるなどチームの準優勝に貢献した。2010 FIFAワールドカップは、前述5月の負傷により欠場となった。ポーツマスMFのケヴィン=プリンス・ボアテングによるタックルによるもので、右足首靭帯断裂と診断された。2011年6月には、ドイツサッカー連盟から代表引退が発表された。しかし、バラック自身はこの発表に不満を持っており、引退試合への出場も拒否している。現代サッカー最高峰の選手の一人だが、国際タイトルには全く縁がなく、チャンピオンズリーグ、ワールドカップ、欧州選手権ともに最高成績が準優勝ということからシルバーコレクターという不名誉な通称を持つ。「シルバー四冠」を2度達成した。しかし、UEFAチャンピオンズリーグにおいては、2つのクラブで、それぞれのクラブ史上初の決勝進出へと導く大きな原動力となっている。ちなみに2001-02シーズンのブンデスリーガでは得点ランクもマルシオ・アモローゾ、マルティン・マックスの18得点に次ぐ17得点で2位だった。 個人 代表カイザースラウテルン時代バイエル・レバークーゼン時代バイエルン・ミュンヘン時代チェルシーFC時代
出典:wikipedia
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