ルート・フリット(Ridi Dil "Ruud" Gullit、1962年9月1日 - )は、オランダ・アムステルダム出身の元サッカー選手、および指導者。日本語表記ではグーリットとも。「オランダトリオ」のひとり。オランダ語のGuの発音は日本語にはないものであり、強いてカタカナ表記すれば「フ」に近いことから、キャリア中期(ACミラン在籍時)まで日本では「フリット」と書かれた。しかし、現実の発音とはかけ離れたものであり、また「フリッター」のようであまり印象も良くないことから、本人はサッカー誌のインタビューで(イタリア語、英語などでの読みに準じる)「グーリット」とするように希望した。なお、本稿では認知度の高い「フリット」を使用する。1979年、HFCハールレムでデビューを飾り、高い技術力を見せる。その活躍が認められ、1981年9月1日のスイス戦で代表デビューを飾る。1982年にはフェイエノールトへ移籍し、ヨハン・クライフとともにリーグ優勝に貢献する。その後、PSVアイントホーフェンを経て、1987年に当時の史上最高額の移籍金でイタリアセリエA・ACミランへ移籍。マルコ・ファン・バステンやフランク・ライカールトとともに「オランダトリオ」としてACミランの黄金期を支え、数々のタイトルをもたらし自身もこの年バロンドールを受賞した。また、オランダ代表としてもEURO1988では優勝に貢献。この時代はまさにフリットの全盛期であった。しかし、1989-90シーズンに膝を故障、治療とリハビリに一年間を費やす。この故障は引退時まで大きく引きずる事になる。1990年のイタリアW杯に出場。欧州王者として優勝候補の一角に挙げられていたが、チーム内は監督交代など内紛を抱え、フリット自身も膝の故障から回復したばかりで、満足なプレーをすることが出来なかった。少しずつ調子を取り戻していた決勝トーナメント1回戦で、この大会を制する西ドイツと対戦。守備の要であったライカールトの退場などもあり拮抗した展開の末、1-2で敗退した。同年12月のトヨタカップではACミランの一員として来日。ライカールトの先制点をアシストするなど往年の躍動感溢れるプレーを披露した。ミランでは1991年にアリゴ・サッキ監督が成績不振を理由に辞任した事で、1991-92シーズンからファビオ・カペッロが監督に就任した。前任のサッキはシステムや規律を重視する監督ではあったが、少なくとも前線の動きに関しては制約を受ける事は無かった。しかし、カペッロの下では、右サイドに完全に固定されて自由なプレーが出来ず、徐々にベンチを暖める機会が増え、1993年にサンプドリアにレンタル移籍する事になった。そこで、監督のスヴェン・ゴラン・エリクソンからリベロのポジションを与えられ、自由奔放な本来のスタイルが復活する。サンプドリアは1993-94シーズンをリーグ3位、コッパ・イタリア優勝と大躍進を遂げ、フリットはその立役者となる。特に古巣ACミラン戦においては全盛期に勝るとも劣らないパフォーマンスを見せる。この復活劇で翌シーズンにミランに返り咲きを果たした。しかし、復帰したミランではカペッロから再びポジションを束縛された為に不振に陥り、シーズン途中にサンプドリアに再び移籍するが前年の様な輝きを取り戻す事は出来なかった。オランダ代表では1992年のEURO1992を最後に代表から退くが、サンプドリアにおける好パフォーマンスもあり、1994年のアメリカW杯直前に代表復帰を果たす。しかし、ディック・アドフォカート監督との間で折り合いが悪く、かねてから要望し続けたクライフの代表監督就任も遂に叶わず、出場を辞退する事となった。1995年、チェルシーへ移籍した。1995-96シーズンを率いていたホドル監督がイングランド代表監督に就任することからその後任として現役のまま監督に就任する。監督1年目となった1996-97シーズンは、ジャンルカ・ヴィアリ、ジャンフランコ・ゾラ、ロベルト・ディ・マッテオなどのトップ選手を加入させ、リーグは6位ながらも27年ぶりにFAカップをチームにもたらした。また、外国人としては史上初のFAカップ優勝監督ともなった。この年を最後に現役を退き監督専任となった。しかし、翌1997-98シーズン、チームは好調であったにもかかわらず監督を解任される。その後任には同じく選手兼監督としてジャンルカ・ヴィアリが就任した。補強に多大な資金を費やしたが、チェルシーに久々にタイトルをもたらした功績は大きい。また、この時代にイタリア選手が多数プレミアシップリーグに移籍したのもチェルシーの補強がきっかけである。1998-99シーズン開幕直後にニューカッスル・ユナイテッドの監督に就任するが、13位に低迷し、1年で辞任する。この時のスローガン「セクシーフットボール」は監督としてのフリットの代名詞となる。しかし、当時のエースであったアラン・シアラーは、その後の雑誌のインタビューで、「フリットが監督の時が、自身のキャリアで最も冴えない時だった。」と答えており、セクシーフットボールが、選手に受け入れられていたとは言い難い。しばらく解説者をした後、2004-05シーズン、フェイエノールトの監督に就任。当時所属していたディルク・カイト、小野伸二らを指導したが、リーグ4位に低迷し、シーズン終了後に辞任した。2007年11月8日、メジャーリーグサッカーのロサンゼルス・ギャラクシーの監督に就任した。しかし、9ヵ月後の2008年8月に個人的理由により辞任した。2011年1月、ロシア・プレミアリーグのFCテレク・グロズヌイの監督に契約期間1年半で就任した。しかし、リーグ戦13試合で3勝しかできず、6月に解任された。2016年8月、ディック・アドフォカートがオランダ代表の第2アシスタントを突然退任したことで急遽後任候補に挙がったが、KNVBとの交渉の中で「スタッフ内に変動があった場合に再交渉できる権利」と「良いオファーがあった場合に退任できる権利」と契約に盛り込むことを要求し、アドフォカートの突然の退任の二の舞を避けたかったKNVBのテクニカル・ディレクター ハンス・ファン・ブロイケレンが認めなかったこと、さらに第1アシスタントのマルコ・ファン・バステンがすでにFIFAからのアプローチを受けて退任を決意していたが、それをファン・ブロイケレンが明かさず、ファン・バステンから直接聞いたことにフリットが激怒したためめに交渉は破断した。
出典:wikipedia
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