グリゴリー・ミハーイロヴィチ・セミョーノフ(, 1890年9月13日 - 1946年8月30日)はロシア革命当時ザバイカル・コサックの統領(アタマン)であり、極東三州の独占的利権を確立しようとする日本軍参謀本部によって、反革命勢力の軍事指揮官に擁立された。セミョーノフは東シベリアのザバイカル州クランツカでコサックの父とブリヤート人の母の間に生まれた。1908年、オレンブルクのコサック学校に入る。3年後卒業し、第一ウェルフネウディンスク連隊に配属され、外蒙国境警備の任につく。その後チタの軍学校に学び、また沿海州の国境警備等の任につき、1914年、第一次世界大戦が勃発すると、第一ネルチンスク連隊の一員として東部戦線へ出征。軍功を立てて勲章二個を得た。大尉として第三ウェルフネウディンスク連隊でペルシャ戦線に戦っている時に二月革命が起こった。臨時政府のケレンスキーへ民族部隊の設立を献策して容れられ、シベリアに戻って募兵を始めるが、十月革命の勃発を受けて反革命勢力として活動を開始する。「特別満州里支隊」という白衛軍を組織し、日本軍参謀本部から武器と資金提供を受けた。日本のシベリア出兵を機にザバイカル州に反革命地方政権を樹立する。1918年9月、イギリスに擁立されたコルチャークにより、オムスクに臨時全ロシア政府が成立すると、セミョーノフはコルチャークからザバイカルの統治権限を受けるが、両者の戦略や思想の食い違い、英仏軍と日本軍の思惑の相違があり、その反目の深刻さは軍事作戦面での共同までも妨げていた。彼の粗暴で専制的な素行の噂は、民意による政権樹立を名目とするアメリカにとって、極東から日本の勢力を排除するための口実となり、日本のシベリア出兵継続を危うくさせた。赤軍に押されてオムスク政府が崩壊する際、500トンとも言われる帝政ロシア中央銀行の金塊の一部を入手して日本の朝鮮銀行に輸送した。続いて列国のシベリア撤退に伴い日本軍の後ろ楯を失い失脚、1921年にウラジオストクを脱出した後上海、アメリカ、日本を転々としながら反ソ活動を継続する。1934年より、満州国の白系露人事務局の活動に参加する。1945年8月、大連にいたセミョーノフは赤軍に捕縛され、1946年8月モスクワで国家財産略取の罪で絞首刑が執行された。
出典:wikipedia
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