山田町(やまだちょう Yamada-Chō)は、鹿児島県鹿児島市の町名。旧谿山郡谷山郷山田村、谿山郡谷山村大字山田、鹿児島郡谷山町大字山田、谷山市山田町。郵便番号は891-0104。人口は3,584人、世帯数は1,554世帯(2009年9月末現在)。鹿児島市の中部、永田川の中流域に位置している。町域の北方には星ヶ峯、南方には中山及び中山町、西方には皇徳寺台、五ケ別府町、東方には桜ケ丘がそれぞれ接している。周辺には新興住宅地が広がっているが、町域内の多くは水田の広がる農村地帯となっている。町域の中央部を指宿スカイライン(鹿児島県道17号指宿鹿児島インター線)が南北に通っており、町域内には鹿児島IC方面のハーフインターとなっている山田ICと隣接して山田本線料金所が所在している。また、北部を鹿児島県道35号永吉入佐鹿児島線が東西に通っており、山田交差点で鹿児島県道210号小山田谷山線と交差し、県道210号は谷山方面に南方向に通っている。山田交差点から春山町の春山交差点までは県道35号と重複し、小山田町方面へ接続している。山田という地名は鎌倉期より見え、薩摩国谿山郡のうちであった。1276年(建治2年)の忠真譲状案には「たにやまのこほりのうちやまたのむらならひにきたのへふ」とあり、次男の山田宗久に当村の地頭職を譲渡されたとある。同時に宇宿郷(現在の宇宿)が三男山田直久に譲渡された。また、室町期のものであるとされる、村内の田畑を寺社に寄進していたことに関する史料が多く現存しており、村内にあった皇徳寺や、現在の鹿児島市立鹿児島玉龍中学校・高等学校付近にあった福昌寺などへの寄進があったとされる。江戸期には谿山郡谷山郷(外城)のうちの一か村で、詳細な年代は不明であるが、江戸初期頃は山田郷に属していたとされる。「三国名勝図会」や「薩摩国郷村石附帳」によるとその後伊佐智佐郷と山田郷が合併し、谷山郷となったとある。村高は「天保郷帳」では1,407石余、「旧高旧領」では1,577石余であった。村域の中央を伊集院往還が通り、沿線には戸長役場が所在していた(明治初期)。1889年(明治22年)に町村制が施行されたのに伴い、谷山郷の区域より谷山村が成立し、江戸期の山田村は谷山村の大字「山田」となった(1924年の町制施行後もそのまま)。1958年(昭和33年)には谷山町が市制施行し谷山市の町名「山田町」と改称された。1967年(昭和42年)には谷山市が鹿児島市と合併し、鹿児島市の町名となった。1978年(昭和53年)に一部が桜ケ丘に分割された。その後も山田町周辺でのニュータウンの建設が続き、1988年(昭和63年)には星ヶ峯ニュータウン(山田町と五ケ別府町の各一部)の区域に星ヶ峯一丁目から星ヶ峯五丁目が設置され、1992年(平成4年)9月11日には皇徳寺ニュータウンの区域(山田町と五ケ別府町の各一部)に皇徳寺台一丁目から皇徳寺台五丁目までが設置され、山田町の一部より皇徳寺台一丁目から皇徳寺台三丁目までの全域及び皇徳寺台四丁目の一部が分割された。1993年(平成5年)に山田町の一部を星ヶ峯一丁目に編入し、1996年(平成8年)には山田町の一部が皇徳寺台四丁目に編入され、1997年(平成9年)11月17日には山田町及び中山町の各一部が分割され、中山一丁目及び中山二丁目が設置された。2008年(平成20年)には南皇徳寺台(山田町の一部)が皇徳寺台三丁目と皇徳寺台四丁目となった。市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる。
出典:wikipedia
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