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シボレー・コルヴェア

シボレー・コルヴェア(Chevrolet Corvair)は、1960年から1969年モデルイヤーまでゼネラルモーターズ(GM)のシボレー・ディビジョンで製造された6人乗りのコンパクトカー()である。コルヴェアはエンジンを車体後部に搭載する唯一の米国製の量産車として特筆される。コルヴェアの空冷、水平対向のアルミニウム製エンジン()は1960年モデルでは出力 80 hp (60 kW) であったが、後のモデルでは 180 hp (134 kW) までになった。ポンティアック版のポラリス()が提案されたが製造はされず、その代わりにより一般的な構造のテンペストが生産された。当初コルヴェアは経済的なファミリーカーのセダンとして市場に導入されたが、1960年代半ばにバケットシートを備えた5座クーペのモンザが導入されると新しいスポーティーカーのニッチ市場を形成し、これは1964年のフォード・モーター社が生産するマスタングの登場に影響を与えた。モンザ・スパイダーと後のコルサ(Corsa) シリーズは最初にターボチャージャー付エンジンを備える米国車となった。コルヴェアの名称は「グリーンブライア」(Greenbrier)と呼ばれる乗用車仕様のコンパクトバン()にも与えられ、当初は「コルバン 95」("Corvan 95")パネルバンや2種類の2ドアピックアップトラックでも使用された。フォード・ファルコンやプリムス・ヴァリアントと同様にコルヴェアは新しいコンパクトカー・クラスに参入したうちの1台であった。これらの新型車はフォルクスワーゲン、ルノーやその他のヨーロッパから輸入される小型で燃費性能に優れた車に呼応して提供された。ファルコンやヴァリアントは各々自社の稼ぎ頭であるフルサイズ車の購買層を惹きつけようと保守的な構造であったが、コルヴェアはボルボやフォルクスワーゲンと同時にナッシュ・ランブラー()といった車の購買層を奪い取ろうとして通常とは異なる構造を持っていた。こういった購買層は大型のシボレー・ビスケイン()を購入しようとは考えなかったらしく、コルヴェアの販売がビスケインの販売の足を引っ張ることにはならず、コルヴェアの販売はシボレーにとってほとんど全く「新しい事業」と言えるものであった。シェヴィー II/ノヴァ、ポンティアック・テンペストや後のサブコンパクトカーのシボレー・ヴェガ()といった車は車体の前部に水冷の直列エンジンを搭載した通常の形式の車の小型版であった。コルヴェアの名称は元々コルベットを基にした1954年のファストバック形状のショーカーに用いられたものであり、ノマドを含めてこの時期のシボレーのショーカーはシボレー製のスポーツカーを基にしていた。コルヴェアは1950年代にシボレーのチーフ・エンジニアで支配人の立場にいたエド・コール()に支持され、増大する小型、軽量の輸入車の人気に対する米国側からの最初の回答であった。1956年に設計が始まり、最初の車は1959年遅くに1960年モデルとして工場から出荷された。2台のコルヴェアがリバーサイドのリバーサイド・インターナショナル・レースウェイで24時間の走行テストにかけられた。1台は横転したがもう1台は完走し、エンジンオイルを1クォート (0.95 L)しか消費しなかった。コルヴェアは1960年の初めに公開され、女優のシャーリー・ボンヌ()が最初のモデルを披露した。コルヴェアは最初の6年間のモデルイヤーを通じて年間販売数20万台を達成し、シボレーの車としては成功作であった。シボレーは熟慮してコルヴェアを保守的なシボレー車からの革新的な出発点として設計した。リアエンジン配置は大きな室内空間と経済性を提供し、低いシルエットと室内の平床化を実現、パワーステアリングを不要にし、エアコンの必要性を減らし(室内空間を吹き抜けるエンジンの熱が無いおかげで)、乗心地、トラクションとブレーキ・バランスを劇的に改善した。それまでと革新的に異なる設計は他のメーカー、主に輸入車の購買層をも惹きつけた。これは重要ではあるがしばしば軽視されがちなこの車の成功の要因であった。コルヴェアはその技術的な成り立ちでその他の米国車とは際立って異なっていた。コルヴェアはGMの革新的なY-ボディ(1965年以降は"Z"-ボディ) シリーズの1台であったが、フォルクスワーゲン・タイプ1やポルシェ・356のようなエンジンの設計とその配置場所のためにその他のY-ボディ車ともかけ離れていた。1948年の(51台製造された)タッカー・トーピード()もこのエンジン配置であった。コルヴェアのエンジンは排気量140 cu in (2.3 L) のアルミニウム製、空冷、水平対向型であった。最初のエンジンは80 hp (60 kW) で、最高の出力になったのは1965 - 66年モデルのターボチャージャー付180 hp (134 kW) のコルサ仕様に設定されたオプションのエンジンであった。第1世代モデルが後輪に採用した技術者のエドムンド・ルンプラー()が発明し特許を持つスイングアクスル式サスペンションは、乗心地は良かったが操縦安定性に関連した安全性への懸念が持ち上がり1965年モデルでコルベット スティングレーのものに似た完全独立懸架式に変更された。コルヴェアはデトロイト製の量産車としてはモノコック構造に先鞭をつけた代表であり、当時としてはその形式として最も成功した車で1960年モデルから1969年モデルまでに178万6,243台が生産された。コルヴェアは一体成形ボディ構造であり、ガラスとドアの形状で構造上の剛性を担っていた。コンバーチブル モデルでは鋼板製の屋根が担っていた分の剛性を補強するために車体下面に特別な補強材が溶接されていた。様々な要因で1965年以後のコルヴェアの販売は急落した。ラルフ・ネーダーの著書『どんなスピードでも自動車は危険だ』(")の「スポーティ・コルヴェア」の章で安全性の問題が槍玉に挙げられ、この中で1960 - 63年モデルのコルヴェアが劇的なケース・スタディとして採り上げられた。ネーダーはコルヴェアがスイングアクスル式後輪サスペンションによりコントロールを失い、スピン、更には横転する傾向があると主張した。1965年にこの本が出版されると、問題がどの程度のものかが知られていなかったにもかかわらずコルヴェアの販売の低下に影響を与えた。著名なGM歴史家のデーヴ・ニューウェル(Dave Newell)によるとシボレーは1966年モデル以後のコルヴェアの販売を止めようと計画していた。開発と技術変更の作業は1966年で停止され、第2世代の車に施されるそれ以降の再設計は主に連邦規制で必須の環境性能と安全性能に対応するものだけであった。ネーダーの本により不自由な状況になったがネーダーによる圧力に屈したように見られることを望まなかったため、コルヴェアの生産は後3年間続けられた。コルヴェアは、フォード・マスタング、シボレー自身のカマロやその他の「ポニーカー」()と呼ばれる車種(皮肉にもこの市場は1960年の「コルヴェア モンザ」が先駆的存在であった)といった競合車の増加に直面した。コルヴェアを生産するにはコストがかかったが販売現場で高い価格をつけることはできず、シボレーにとってコルベットのように高い収益を上げる車種ではなかった。GM、特にシボレー・デヴィジョンの支配人ジョン・デロリアン()のこの車に対する関心の低下と1967年モデル以降コルヴェアの宣伝活動が完全に無くなったことがシボレーの当初の計画を明示しており、モデルチェンジした1968年モデル、コルベット、シェベル()、シェヴィー II/ノヴァの3車種の宣伝を優先するという会社の方針がこれを反映していた。最後の年にはコルヴェアはある自動車雑誌から「亡霊」("the phantom")と言及され、シボレーの1969年モデルのコルヴェアのたった4ページのカタログは「請求分のみ」とされた。コルヴェアの崖っぷちの命脈を表していたのは、1969年モデルが導入されるとGMは政府の規制に1年先駆けて全ての車種の1969年モデルにステアリング・ロック機構を装備し、新しい四角い形状のイグニッション・キー用の挿入口をステアリングコラムに装備したが、キーのみはこの新形状に変更されたものの全GM車の中でコルヴェアのみがイグニッション・キーの挿入口がダッシュボード上に残されたままだったことであった。最後の年に僅か6,000台のみが生産されたコルヴェアは、受注状況が好調のノヴァ(同じ工場内で生産)の生産のために1968年11月から1969年5月にかけて工場内の生産ラインとは別の区域でコルヴェア専業チームにより事実上ハンドメイドで組み立てられた。1960年モデルの初期の4ドア・セダンの500と700シリーズは、ベース・モデルの500を2,000 USドル以下の競争力のある価格に維持するために快適装備のほとんど無い経済的な車として考えられていた。80 hp (60 kW) のエンジンと3速マニュアルトランスミッション(MT)又は2速のパワーグライド()オートマチックトランスミッション(AT)を備えたコルヴェアは、6気筒エンジンを搭載したフルサイズのシボレー・ビスケインに比肩する加速性能を持つように設計されていた。1960年1月に導入された2ドア・モデルには荷物の収容能力を高めるために折り畳み式後部座席が設えられ、これは前部トランクルームにスペアタイヤを搭載していたので強く要望された装備であった。車室内の暖房用に荷室の中のスペアタイヤ横に備えられた燃焼式ヒーター()が備えられていたが、これは直ぐに温風が出る反面長い冬や寒い日に燃料消費率が悪化すると考えるユーザーには不評であった。シボレーは1961年モデルで暖房機構を再設計したが、燃焼式ヒーターを選ぶ顧客のために1964年モデルの終わりまでこれを残していた。実用的なベンチシートのセダンとクーペからバケットシートを備えた内装のより豪華なモンザと呼ばれる900へとモデルが急速に増えていった。このモデルは1960年の春にショウルームにお目見えした。モンザには排気効率の良い排気管と合わせてより鋭敏なカムシャフトにより95 hp (71 kW)という出力を発生する強力なエンジンとフルシンクロメッシュ機構付の4速MTという2つのオプションが設定されていた。市場への導入が遅かったにもかかわらずモンザは1万2,000台が販売され、最も人気のあるモデルとなった。コルヴェアは1960年度の『モータートレンド』誌()のカー・オブ・ザ・イヤー賞に選ばれた。1961年モデルのモンザは重点的に宣伝され、度々「貧者のポルシェ」として言及された。2ドア・クーペに加えモンザ・シリーズは4ドア・セダンにも拡大され約14万4,000台が販売された。水平対向6気筒エンジンを荷室の「下」に押し込んだステーションワゴンのレイクウッド()が1961年に追加された。レイクウッドは車室内に58 ftと車体前部の「トランク」に10 ftの合計68 ft (1.9 m) の荷室を確保していた。1961年モデルには4速MTのオプションも追加された。コルヴェアのエンジンは初めてボアを僅かに拡大されて145 cu in となった。モンザに搭載されたベースエンジンはMTとの組み合わせではいまだに80 hp (60 kW)、オプションのATとの組み合わせでは84 hp (63 kW)、高性能エンジン版は98 hp (73 kW)であった。前部荷室を拡大するために全天候型エアコン(All Weather Air Conditioning)を装着していない車のスペアタイヤはエンジンルームに移され、燃焼式ヒーターはシリンダーヘッドから室内へ暖気を導入するダクト・システムに換えられた。燃焼式ヒーターは1964年モデルまでオプションで設定されていた。コルヴェアは工場装着のエアコンを提供した初めてのコンパクトカーであり、1961年モデルの途中からオプションに設定された。大型のコンデンサーが水平のエンジンファンの上に寝かせて配置され、大きな緑色に塗装された標準のGMフリッジデアー(Frigidaire)・エアコンディショニング・コンプレッサーの逆回転版が使用された。エヴァポレーター本体はダッシュボードの下に備えられ、吹き出し口はラジオの周りに配された。全天候型エアコンは搭載空間が干渉するためワゴン、グリーンブライア/コルヴェア95や後に導入されたターボチャジャー付のモデルには装着できなかった。シボレーは、コルヴェアの駆動系を使用しフォルクスワーゲン・タイプ2の様に運転手が前輪の上に座るキャブオーバー型の小型トラックの「コルバン95」シリーズを導入した。「グリーンブライア・スポーツワゴン」(")」は「コルバン95」パネルバンと同じボディに側面ウインドウ・オプションを付けたものを使用していたが、市場ではステーションワゴンとして販売され、内装や塗装のオプションは乗用車と類似のものが提供された。この車は米国で最初のミニバンとして語られている。「コルバン95」にはピックアップトラック版も生産され、この「ロードサイド」("Chevrolet Loadside")は、リアエンジン、キャブオーバーと荷台の中間にある窪みを除けば当時の典型的なピックアップであった。人気のあった「ランプサイド」("Chevrolet Rampside")は、その名称から連想されるようにピックアップの荷台の側面に大きな作り付けのランプドアを備えていた。ランプサイドは荷台から電話線のリールの積み降ろしがし易いことからベル・システム社()で使用された。しかし、商用車のコルヴェアの事業者向け販売は競合するフォード車よりも約100 USドル高い価格のために振るわなかった。もし25台のトラックを購入した場合、もう1台のフォードが只で付いてくる計算になった。この欠点のためにコルヴェアの商用車は廃止された。1962年にシボレーは150 hp (112 kW)のターボチャージャー・エンジンの「モンザ・スパイダー」オプションをモンザ・クーペと年の半ばにコンバーチブルに導入したことによりコルヴェアは同じ年のオールズモビル・F85()「ターボ・ジェットファイアー」("Turbo Jetfire")と共に工場装着のオプションとしてターボチャージャーを装着した最初の2台の量産モデルの1台となった。500 ステーションワゴンはモンザ・ワゴンが導入されると同時に廃止されていたが、コンバーチブルやシェビーII(同じ工場で生産された)といった新しいモデルが導入されたため全てのステーションワゴンは年の半ばに廃止された。1962年モデルでは自動隙間調節式ブレーキが新しく装着された。焼結ブレーキ・ライニングと前輪のアンチロールバー付きのヘビーデューティ仕様のサスペンション、リアアクスル・リミット・ストラップ、スプリング・レートの見直しと再適正化されたショックアブソーバーといったものがオプション装備として設定された。モンザ・スパイダーは、タコメーター、シリンダーヘッドの温度計と吸気管の圧力計を備えたマルチゲージ計器盤を持ち、高性能エンジン版にはフェンダー上に「Spyder」の文字とエンジン・フード上に「Turbo」のロゴが追加された。モンザ・クーペは最も人気のモデルとなり1962年モデルでは総生産台数29万2,531台のコルヴェア中15万1,738台がモンザ・クーペであった。1963年モデルでは燃料消費率を改善するために3.08の高いギア比が選べたが、その反面コルヴェアは内装と技術的な変更はごく僅かで大部分は前年モデルから引き継いだものであった。「ロードサイド」ピックアップはこの年を最後に廃止された。1964年モデルでは顕著な機構上や安全装備の変更が行われた一方で、ボディや提供されるモデルは前年と同じであった。1964年モデルイヤーはストロークを延ばしたために145から164 cu in (2.3 から 2.7 L) へ排気量を拡大し、ベースエンジンの出力は80から95 hp (60から70 kW) へ、高性能版は95から110 hp (70から80 kW) へ強化された。スパイダーのエンジンは排気量が拡大されたにもかかわらず150 hp (112 kW)のままであった。1964年モデルには後輪のスイングアクスル式サスペンションに改良が加えられ、横置きのリーフスプリングが追加されたことで後輪のロールを減らし、ニュートラルな操縦性を高めることに貢献し、エンジン重量による高い重心位置に対処した。以前のモデルに比べて前後輪のバネレートを柔らかくすることができた。ヘビーデューティ仕様のサスペンションはオプションから落とされたが、全てのモデルで前輪のアンチロールバーが標準装備とされた。ブレーキは後輪が放熱フィン付きドラムブレーキに改良された。残されていたピックアップトラックのランプサイドはこの年のモデルイヤーで廃止された。1965年モデルでコルヴェアには劇的なデザイン変更がされた。新しいボディスタイルはシボレー・コルベット スティングレーと1963年モデルのビュイック・リヴィエラ()の影響を受けた形状で、大人しい「コークボトル・スタイリング」()は続く15年の間GM車のデザイントレンドとなるものであり1967年モデルのシボレー・カマロを示唆するものであった。「B」ピラーが無い屋根付きモデルの本当のハードトップ乗用車はこれが初めてであった。第2世代のスタイリングは登場した時点で時代とは隔絶していると評価され、第1世代と比較して現在でも通用すると考えられている。オリジナルの後輪スイングアクスル式サスペンションは、コルベットの物に似た完全独立懸架式に換えられた。『カー・アンド・ドライバー』誌のデービッド・E・デービス・ジュニア(David E. Davis Jr.)は1964年10月号の中で1965年型コルヴェアへの熱狂的な愛好振りを示した。「そしてここでも我々は、コルヴェアが(我々の意見では)'65年モデルとして発表された全ての車の中で最も重要な新型車であり、第二次世界大戦以降にこの国に現れた中で最も美しい車であるということを公式に表明しなければならない。」、「'65年モデルのコルヴェアの写真が我々の編集部に届くと、その封筒を開いた人物は最初にその車の姿を見た喜びと驚きで大きな雄叫びをあげ、30秒の間に全スタッフの各々が自分こそが誰かにそれを最初に見せようとしたがり、それを見た人からの歓声を聞きたがって群がった。」、「実際に車を運転するまでには我々の熱狂も幾分治まっていたが、運転してみるとその熱狂がぶり返した。新しい後輪サスペンション、柔らかくなった前輪のスプリング・レート、大型化されたブレーキ、幾分増強された出力、これら全ての要素が我々を狂ったようにさせて、しぶしぶ試乗者車を他に参加しているジャーナリストの手に引き渡さなくてはならなくなるまで我も我もとテストコースに出たがり・・・'65年モデルのコルヴェアは傑出した車である。そうそう速い車とは言えないかもしれないが、我々はこの車を気に入った。」ベースの95 hp (71 kW) とオプションの 110 hp (82 kW) エンジンは1964年モデルから引き継がれた。新しいコルサ用には以前の150 hp (112 kW) スパイダー用エンジンが140 hp (104 kW) の自然吸気型エンジンに代替された。このエンジンは4連装のシングルスロート型キャブレターを装備した点が通常とは異なり、加えて大径バルブと2本出し排気管を備えていた。ターボチャージャー版の180 hp (134 kW) エンジンはコルサにオプションで設定され、標準が3速、オプション(92 USドル)で4速MTに提供された。140 hp (104 kW) エンジンはMTかパワーグライドAT付きで500とモンザにオプションで設定された。美しい1965年モデルのコルヴェアには数多くの洗練された装備が備わっていた。コルサには標準でリセット可能なトリップメーター付き140 mph (230 km/h) 目盛りの速度計、6,000 rpm 目盛りの回転計、シリンダーヘッド温度計、秒針付きのアナログ時計、吸気管の負圧/圧力計と燃料計を備えた計器盤を持っていた。大幅に改善された暖房システム、シェヴェルから流用してきた大径ブレーキ、強化されたデフの歯車、「デルコトロン・オルタネーター」(Delcotron、ジェネレーターに替えて)を装備し、シャーシの大幅な改良が図られた。AM/FMステレオラジオ、ダッシュボード内蔵の全天候対応エアコン、伸縮調整式ステアリングコラムや特製高性能サスペンション、速いギア比のステアリングボックスから成る特製シャーシ装備("Z17")ハンドリング・パッケージ等が1965年モデルの目新しいオプション装備であった。この時点でステーションワゴン、パネルバンとピックアップトラックといったボディは全て廃止され、1965年モデルは主に事業者ユーザーからの注文に支えられて1,528台が生産されたグリーンブライアの最後の年となった。1965年モデルのコルヴェアは結局23万5,528台が生産された。シボレーはコルヴェアをベースにしたバンをシェヴィー IIの駆動系を流用した前エンジン/後輪駆動のシボレー・スポーツバン/GMC・ハンディバン()に代替した。1966年モデルは本質的には1965年モデルから変更は無かったが、注目すべき唯一の変更点は他のGMの6気筒車が使用していたものよりも高い3.11:1 のギヤ比を持つ標準のサギノウ(Saginaw)製歯車を使用したより頑丈な4速シンクロメッシュMTを備えたことであった。新しい3速と4速のトランスミッションはより大きなトルクに対応しており、古い3速MTは1速にシンクロ機構が付けられ大幅に改良された。前輪サスペンションとボディ下部を覆い、横風の影響を減じるために柔軟プラスチック製エアダム(スポイラー)が車体前部の下に装着された。'66 - '69年モデルのテールライトのレンズはベゼルよりも突き出し、バックライトは内側のテールライトの中で目立たなくなった。車体前部では「ロックドア」エンブレム(トランクの施錠機構を覆っていた)が赤色から青色に変わり、幅が狭まったバーは尖った形状から先端まで曲線状につながるものとなった。「Corvair」のネームプレートはトランクリッド上から運転手側のヘッドライト・ベゼル横に移設された。ネーダーの著書の影響と最高出力が180 hp (130 kW) のコルヴェアに対して最高271 hp (202 kW) までのV8エンジンを搭載する新型マスタングとマスタングの直接の競合車となる「パンサー」(後に発売されるカマロのコードネーム)の登場の噂でコルヴェアの販売数は下降し始めた。コルヴェアに対する更なる開発の打ち切りが決定され、このモデルイヤーの生産台数は10万3,743台に減少した。1967年モデルではコルヴェア シリーズは500とモンザのハードトップ・クーペとハードトップ・セダン、モンザ・コンバーチブルが用意された。このモデルイヤーで初めて衝撃吸収式のステアリングコラムが装着された。警告灯付き2重回路式マスターシリンダー()、強化ナイロン製ブレーキホース、強化鋼製(アルミ製に替えて)ドアヒンジ、「マッシュルーム」形の計器盤スイッチとプラスチック製枠の昼夜切り替えバックミラーが全てのモデルで標準装備となった。テールライトのレンズの形状は1966年モデルと同じであったがレンズ内部にあるクロームの輪("wedding band")が厚くなり(このディテールは博識なコルヴェア「マニア」のほとんどでさえ知らない)、この変更は生産終了のモデル末期まで続いた。シボレーはコルヴェアを含む全ての車種に5万-ml (8万 km) までのエンジン保証を導入した。1967年モデルではシボレーはまだカラー版ポスターやディーラーでの「I Love My Corvair」と書かれたバンパーステッカーの配布といった能動的な宣伝活動を行っていたが、生産数と販売数は激減し続けた。1967年モデルは僅か2万7,253台が生産されただけであった。1968年モデルで4ドアのハードトップ・セダンが廃止され、500とモンザのハードトップ・クーペ、モンザ・コンバーチブルの3モデルのみが残された。今や標準装備となったエア・インジェクション・リアクター(「スモッグ・ポンプ」)の追加による熱負荷を考慮して全天候エアコンがオプションから落とされたことでメーカーオプションのカーエアコンが一般的になりつつあった時勢下での販売に悪影響を与えたかもしれない。GMマルチプレックス・ステレオシステム(GM multiplex stereo system)も新しい接続アダプターの形状が変更されたことによりコルヴェアの9ピンコネクターに接続できなくなったことで廃止された。ボディ側面のマーカーライト、屋根付きモデルのショルダーベルトといった追加の安全装備が各々の連邦規制に則り装着された。全ての宣伝活動は事実上停止され、1968年モデルの販売数は1万5,400台へ下降した。最後のモデルイヤーの1969年モデルのコルヴェアは生産開始当初から組み立てられているミシガン州のウィローラン工場()でノヴァと共に生産された。6,000台生産されたコルヴェアの内モンザ・コンバーチブルは僅か521台であった。ノヴァの受注が好調なことから1968年11月にコルヴェアの組み立てを「コルヴェア・ルーム」と呼ばれる工場内の生産ラインから外れた特別の区画で行う決定が下され、これ以降1969年5月14日までコルヴェアの生産は専業チームの手で実質的なハンドメイドで行われた。組み立てられたボディがフィッシャー・ボディ(Fisher Body)から届き、生産ラインから外れた区画で組み立てられるのを待った。幾人かのコレクターとGM幹部が最後のコルヴェア(6000番)の購入に強い関心を示していたが、GM経営陣はオリンピック・ゴールド塗色のモンザのハードトップ・クーペを売却しないことに決めた。最終艤装が施された6000番車が(ノヴァと共に)生産ラインから離れディーラーへ送られる輸送貨車に載せられる時に催された小さな式典に報道陣の代表者がGM幹部と共に出席した。しかし、この車は輸送貨車には載せられなかった。幾つかの記事ではこの車が工場の屋上まで運ばれ、テスト用に保管されている幾台かのコルヴェアと並べて駐車され、後にスクラップにされたと報じられた。この車がGMの重役の元へ行き、公表されていないという意見もある。コルヴェアの終焉に対する反応は、このような素晴らしい車が市場の中で生き延びられなかったことへの悲しみや後悔から、この車を造り続けたシボレーへの厳しい批判まで様々であった。GMの社則では部外者による工場内における写真撮影は如何なる場合も禁止されていたが、コルヴェアだけは例外でCBS・テレビが最終生産車の短編番組を撮り、レポーターのマイク・パパス(Mike Pappas)が最後の6,000番車が生産ラインから出てくる模様をウィローラン工場で報じた。シボレーが提案した1970年モデル以降のコルヴェアは、本質的には1965-69年モデルに新しい外装パネルを持った車であった。日の目を見なかったコルヴェアの全体的な外観は、1973年モデルのGM製Aボディのインターミディエート車、特に1973年モデルのポンティアック・グランダム()に酷似していた。このコルヴェアは、ガラス面積の広い屋根から先細りの車体後部まで続く曲線に溢れるボディに固定式のクォーターウインドウを持ち、それまでのコルヴェアのプロポーションを受け継いだものであった。この開発計画は1968年初めに破棄されるまでに実物大のクレイモデル作成の段階を終了するところまで進んでいた。GMでの興味深い開発に1968年モデルのカマロやそれ以降のほぼ全てのシボレー車に搭載されたターボ・ハイドラマティック()350トランスミッションがある。ターボ・ハイドラマティック400とは異なり、350はコルヴェアでも使用できる搭載方法を採用していた。1970年モデル以降のコルヴェアが製造されていたら、このトランスミッションがコルヴェアにも搭載できることが分かったであろう。工場から出てきた時点でコルヴェアは満足のいく操縦性を持った車であったが、「フロントエンジン車に慣れ親しんだ平均的な購入者は操縦性の特性の違いというものを考慮しなかった。」スイングアクスル式サスペンションにより高速のコーナリング中に後輪のキャンバー角()が大きく変化した。この操縦性は、メルセデス・ベンツやフォルクスワーゲンといった同様の後輪スイングアクスル式サスペンションを持つ輸入車の多くと極めてよく似た特性であった。初期のコルヴェアに適用されたある種のコスト削減、特にアンチロールバーが装着されていない1960 - '63年モデルのコルヴェアの操縦性に対する批判は全く根拠の無いものでもなかった。シボレーは元々1960年モデルの前輪にアンチロールバーを追加することで厳しい旋回での移動荷重()の大部分を前輪の外側のタイヤに負わせ、後輪のスリップアングル()の相当量を減らそうと考えていた。不幸なことにシボレーは、追加コスト(6 USドルと云われる)を払わずともタイヤ空気圧だけでオーバーステア傾向に対して十分に補正できると確信して量産車の前輪からアンチロールバーを外した。シボレーはオーバーステアに対処するために前輪に低く、後輪に高くという異なるタイヤ空気圧を推奨した。コルヴェアは前輪のタイヤの空気圧を非常に低く(典型的には15 - 19 psi:100 - 130 kPa)することで生来のオーバーステア傾向を回避するように設計され、これにより後輪のスイングアクスル式サスペンションがオーバーステアの挙動を示す前に前輪がアンダーステア(後輪よりも早くスリップアングルが増加する)の状態に入るようになっていた。この前輪タイヤの空気圧は、比較的幅広のタイヤ(6.50-13)と非常に軽いコルヴェアの前輪荷重に対しては十分過ぎる値であった。しかし、購入者と整備士共にこの前後輪のタイヤ空気圧の差異の必要性を知らなかったか、前輪タイヤの空気圧が低すぎると考え当時の「平均」的な値まで空気を充填してしまうことがしばしばあった。もしこのタイヤ空気圧の前後輪間の差異が保たれていないと非常に厳しい旋回状況で後輪のスリップアングルが前輪のスリップアングルを越えて高速でのオーバーステア状態を引き起こした。アンチロールバーは1962年モデルからオプションに設定され、ついには1964年モデルで標準装備となった。ジャッキング()に関しては多くが語られているが、当時使用されていたバイアスタイヤはキャンバー角の変化には鈍感で、(ラジアルタイヤとは違い)旋回中にグリップ力を著しく失うことは無かった。ネーダーはこの操縦性の問題の厳密性を間違いなく誇張していたと後に米国運輸省道路交通安全局()の調査官は述べた。コルヴェアに対するネーダーが挙げた証拠の一部にフォード社が制作したプローモーション映像があり、この中でフォード社のテストドライバーは意図的に不安定に見えるようにコルヴェアを旋回させていた。『カー・アンド・ドライバー』誌は、コルヴェアを運転するときにドライバーは走行性向の変化に対処する必要があること、特に後輪タイヤを適切な空気圧に保つ必要性があることを知らなかったことでネーダーを批判した。ネーダーが挙げた論点の中で同様の車両レイアウト(と同様のサスペンション形式)を持つポルシェ・911やフォルクスワーゲン・ビートル(かなり低出力であったが)の所有者の間で問題とされるものは一つも無かった。1964年モデルで後輪のキャンバー角の変化を制限するために横置きのリーフスプリングが左右の車輪の間に渡され、コイルスプリングを柔らかくすることと合わせてより大きな荷重を受け持てるようにリアサスペンションは大幅に改良された。1965年モデルでコルヴェアは同時期のコルベットに極めてよく似た最高の技術である完全独立懸架後輪サスペンションを備えた。再設計されたサスペンションは、どのような運転状況下でも一定のキャンバー角を提供する完全関節式ハーフアクスルを採用することによりロールセンター()をそれまでのモデルの半分の高さにまで低めた。1965年モデルのコルヴェアは『モータートレンド』誌()から「完全独立後輪サスペンションを持って路上を走る最初の米国製量産車。」と言及された(コルベットは限定生産車と考えられていた)。しかし、この変更はシボレーが元の設計の問題点を受け入れたと見る向きもあった。自動車産業における最大の皮肉かもしれないがネーダーの消費者運動により生まれた連邦の役所であるNHTSAは、1960 - 1963年モデルのコルヴェアの「名誉挽回」の報告書を出した。テキサスA&M大学により運営された1972年度の安全委員会報告書では、1960 - 1963年モデルのコルヴェアが過酷な状況下で同時期の他の車よりも制御を失う危険性が高いとは言えないと結論付けた。元GMの重役であったジョン・デロリアンは著書『晴れた日にはGMが見える』("On a Clear Day You Can See General Motors"、1979年)の中でネーダーの批判は根拠のあるものだと書いている。米国車としてはユニークなコルヴェアのエンジンは整備士にそれまでとは異なった知識を要求した。初期モデルで共通の問題はアルミニウムと鉄の混成エンジンの異なる金属の熱膨張率の違いに起因するオイル漏れであった。シボレーはこの生来の問題にコルヴェアの全生産期間を通じて取り組みかなりの成果を収めた。この問題はアルミニウム製のブロックとシリンダーヘッドに挿まれた鋳鉄製シリンダーが左右のエンジンバンクでお互いを押し合いかなり拡大していくことを含んでいた。オイル漏れの原因はプッシュロッド・チューブの先端に使われているOリングの材質に起因していた。このOリングはコルヴェアのエンジンの運転温度には耐えられないもので、数年するとOリングは硬化し脆くなりオイル漏れを誘発していた。このチューブでの漏れが起こるとオイルはシリンダーヘッドから高温の排気管の上に滴りオイル焼けの臭気を発し、車体後部の空気排出口から青白い煙をたなびかせることになった。この問題は1970年代にヴァイトン(Viton)社がプッシュロッド・チューブに密着して500度 Fの運転温度に耐えることのできるOリングを製造するまで続いたが、現在ではコルヴェアの所有者はヴァイトン製Oリングを使用してオイル漏れの問題から解放されている。プッシュロッド・チューブからの慢性的なオイル漏れはGMの選択したプッシュロッド・チューブ用シールの材質に起因し、室内へ送られる暖気も汚すことになった。エンジンルームと車室の間にある幅6-in (152 mm) 長さ16 feet (5 m) のゴム製シールが新品同様の状態に保たれていないと有害なガスが室内へ漏れ出してくるかもしれない。暖房システムを通じて室内へ入る煙とガスは、エンジンの発する熱で直接空気を温めて室内用の暖気に利用するという空冷エンジンに付き物の問題であった。排気システムのガスケットが劣化したり壊れていると一酸化炭素やその他の有害ガスが室内の流入してくる可能性があった。ガスケットはヒーターボックス用吸気管の内部にあり、エンジンの冷却用空気はヒーターのスイッチが入れられると室内の暖房用にも使用された。1960年モデルのコルヴェアはフォルクスワーゲン車がディーラー・オプションの補助ヒーターとして設定していたエーベルスペッヒャー(Eberspächer)・ヒーターに似たGMハリソン・ディヴィジョン(GM Harrison division)の燃焼式ヒーターを標準のヒーターとしてトランクの中に備えていた。この装備は1961年モデルではオプションとなり、需要が低かったため1965年モデルで廃止された。空冷エンジン付のもう1台の車であるフォルクスワーゲン・ビートルは、エンジン冷却用の空気とは隔絶した新鮮な空気を使用するより良い暖房システムを採用しており、これはコルヴェアが8つの排気との接触部を持つのに対してエンジン後部でマフラーに覆われた2つの熱交換器が一酸化炭素にさらされるだけであった。レギュレーターが過充電を許容し、元々バッテリー用の放出口が設けられていなかったため室内の空気が汚される可能性もあった。エンジンルーム内に搭載されたバッテリーは過充電になると水素を放出した。シボレーはガスをバッテリーからエンジンルームの外へ排出する特製のバッテリーカバーとホースを装着したが、これらは車が使われているうちに所有者により取り外されてしまうことが多々あった。この車室内の空気汚染の問題は、フォルクスワーゲン・ビートルやコルヴェアが市場に投入される10年も前に多くの米国の都市のタクシーに関する規制でエンジンの排気ガスで温められた暖気を暖房用に利用する空冷エンジン車をタクシー用車両として使用することを禁じたことに表れている。コルヴェアのエンジンの冷却ファンはエンジン上部にあり、ファンとジェネレーターはエンジン後部のクランクシャフトに掛けられたベルトで駆動された。問題はベルトがプーリーにより2度90度曲げられて、横に捻られることであった。1965年のラルフ・ネーダーの著書ではステアリングコラムの設計にも批判が及んでいた。当時のほとんどの車と同様にコルヴェアのステアリングコラムは強固な材質であり、正面衝突事故の場合に運転者が串刺しになる可能性があった。コルヴェアのステアリングボックスは前部クロスメンバの先に装着される一方でクロスメンバ自体はフレーム骨格の十分後ろに置かれていたが、ここは後に「クラッシャブル・ゾーン」(")と呼ばれる部位であり、激しい正面衝突でステアリングコラムとハンドルが運転者の方へ押し出される可能性があった。実際には運転者の胸部の損傷はステアリングコラムの突出によるものよりもシートベルトの非装着に起因するものがほとんどであった。しかし、正面衝突時のステアリングコラムの突出による負傷の危険性の増加は、当時の車では一般的であった衝突時に室内に飛び込んでくる潰れることの無いエンジンやトランスミッションが車体前部に無いということの代償以上のものであった。ネーダーの批判に気付いたシボレーは1965年モデルの後期になって折れ易いジョイント付きの2分割式ステアリングシャフトに変更し、コルヴェアの生産終了に向けて1967年モデルに衝撃吸収式ステアリングコラムを装着した。コルヴェアは、コルヴェア SS、モンザGT()、モンザSS、アストロ IIIや2台のピニンファリーナ製「コルヴェア・スペチアーレ」ショーカーといった数多くの革新的なコンセプトカーの母体となった。シボレー・コルヴェア モンザGT クーペはモンザSS(スパイダー)と共に1963年初めに披露興行に出展され、ニューヨーク国際オートショーで公開展示された。両者共にコルヴェアの駆動機構を基にしていたが、双方ともコルヴェアの設計を適用した未来の車の姿を見せていた。SSスパイダーはエンジン(4連装キャブレター付き)をオリジナルのままトランスアクスルの後方に置き、短い(88 in:2,235 mm)ホイールベースを実現していた。SSは非常に量産車に近い存在であったが、両車ともコンセプトカーで終わった。モンザGTはデトロイトにあるGMのヘリテージ・センターに収蔵されている。多くのスポーツカー愛好家は、エンジン出力的には有利なムスタングのような車よりもコルヴェア(特に1965年モデル以降)に興味を持った。コルベットでレース活動を行っていたドン・イェンコ()はムスタングで参入して来たキャロル・シェルビーを前に勝利を収めることができなくなっており、そこで最初1966年モデルのコルヴェアを改造してレースに出場することに決めた。標準仕様のコルヴェアはのどのカテゴリーにも該当しなかったのでイェンコは4連装キャブレターのコルサから後席を取り外して「スポーツカー」仕様にしなければならず、この改造の過程で様々な性能向上策を盛り込んだ。SCCAは量産車レース用の車両の認定には100台の生産を要求しており、イェンコは1965年の1カ月間で100台のスティンガー(Stinger)を生産した。当時SCCAが米国車に要求していた通りに全車共に白塗装であったが、ある車はスポイラー付きのグラスファイバー製エンジンリッドを備え、別の車はそれが付いていない、ある車は160、190、220や240 hp (119、142、164や179 kW) に出力を増強されたエンジンを備えるといったように個々の車ではかなりの差異があった。全ての車にはシボレーの工場で強化型サスペンション、4速MT、鋭敏なステアリングギア、ポジトラクション・デフ(positraction differential ギア比3.89の50とシボレーが3.89に落とすと3.55の50)と二重化されたブレーキのマスターシリンダー(これがシボレーによる最初の装着例、翌年から標準仕様の装備となる)が取り付けられていた。スティンガーは、レース仕様で非常に敏捷なトライアンフ・TR4が出走していた量産車Dクラスに参戦し、1966年1月の最初のレースで1秒遅れの2位に入ることができた。1966年シーズンの終了時点でジェリー・トンプソン(Jerry Thompson)は中央地区大会(the Central Division Championship)で勝利を収め、1966年度の全国で5位を獲得した。コルベットでレースに出場し、かなりの成功を収めたディック・トンプソン()は北東地区大会(the Northeast Division Championship)で勝利を収め、ジム・スペンサー(Jim Spencer)は中央地区大会でディノ・ミラーニ(Dino Milani)と共に1位と2位を獲得した。翌年にシボレーはコルサ・シリーズを廃止しモンザ・シリーズには当初標準仕様で4連装キャブレター付きモデルを用意しなかったが、結局はこのエンジンをギヤ比3.89のデフと共に特別高性能オプションとして設定した。モンザの計器盤には回転計とシリンダーヘッド温度計が付いていなかったがこれは別途備えられた。他方でSCCAは車両の色に関する規則を緩和し、赤か青の塗装も認められた。1967年モデルのスティンガーは僅か14台しか生産されなかったと信じられているが、米国西海岸でスティンガーを販売していたダナ・シボレー(Dana Chevrolet)がスティンガー仕様の類似の車を別に3台発注した。この車はイェンコの許可を貰ってカリフォルニア州環境規制()に合致するようにエア・インジェクション装置が取り付けられていた。合計185台のスティンガーが製造されたとされ、最後のYS-9700は1969 - 70年のタイヤ試験用車両としてグッドイヤー社に納入された。コメディアン/テレビスターで自動車愛好家のティム・アレンは2009年6月頃に売却するまで#YS-043のイェンコ・スティンガーを所有し、レースに出ていた。ヴェテランのレーサーであるジョン・フィッチ()は、その操縦性からレース場専用車両のベースとしてコルヴェアに特に興味を持った。基本的なスプリント・レース仕様ではエンジンが僅かに改良され出力155 hp (116 kW) になっただけであったが、改良型のショックアブソーバーとスプリング、ホイール・アライメントの調整、クイックなステアリングギア、軽合金製ホイール、焼結ブレーキパッド、標準で木製リムのハンドル(9.95 USドルの追い金で革巻き)とその他の細々した改造を施した車が、遥かに高価なヨーロッパ製スポーツカーに肉迫した競争力を見せた。スポイラーのようなボディ関連のオプション品も取り付けられたが、外観上で最も目立つオプションはC-ピラーと屋根の後半分にグラスファイバー製の覆いを付け、車を「走る中空屋根」("flying buttress")に見せる「ヴェントップ」("Ventop")であった。フィッチは、外観としてはコルベットを基にした「メイコ・シャーク」(Mako Shark)の小型版を思い起こさせるコルヴェアを基にした2座スポーツカーの「フィッチ・フェニックス」(Fitch Phoenix)の設計と試作を続けた。鋼製ボディであるにもかかわらず総重量1,950 lbp (885 kg) に175 hp (130 kW) のウェーバー製キャブレターを装着して改造したコルヴェアのエンジンを搭載したこの車は8,760 USドルで強烈な性能を発揮した。不幸なことに1966年の交通安全法(Traffic Safety Act of 1966)は小規模での自動車生産に制限を課し、これに続きシボレーはコルヴェアの生産中止を決定したことでフィッチの計画は完全に終止符が打たれた。しかし、フィッチは試作車を手元に残しており、時折カーショーでこれを披露している。この車の姿をドキュメンタリー映画『黄昏の中のガルウイング:ジョン・フィッチのボンネヴィル走破』("Gullwing at Twilight: The Bonneville Ride of John Fitch")の中で垣間見ることが出来るかもしれない。コルヴェアが初めて姿を現してから多種の高性能装備や改造キットが販売された。究極のコルヴェアの改造はエンジンをV8に換装することであった。これはやる気を挫くかもしれないが2つのことを行うことで実現できる。車体前部の元トランクの中はラジエターに占拠されるが、元のエンジンルームが荷物の収納用に活用できる。シボレーのスモールブロックV8エンジンをコルヴェアに取り付けるコンプリート・キットがクラウン・マニュファクチャリング社(Crown Manufacturing)で製作されており、600 USドルで入手できる。これでスモールブロックV8エンジン搭載のコルベットの3,700 lbp (1680 kg) に対し2,750 lbp (1250 kg) の重量でほぼ同じ設計の後輪独立懸架サスペンションを装着した車が完成する。350 hp (261 kW) のコルベット用エンジンを搭載したクラウン・マニュファクチャリング社の試作車は、1/4 ml (402 m) を12.22秒と到達速度105 mph (169 km/h) で走った。この改造の利点は、ミッドシップ配置により路上での最善な操縦性が提供され、エンジンを前に搭載した車のように「スリックタイヤ」を履かずとも素晴らしいドラッグストリップ()のトラクション性能が得られ、当時のFXファニーカー()のようにホイールベースを自在に改造できた。数台のコルヴェアがシボレー製ビッグブロック・エンジンを搭載できるように改造されたが、大きくなったエンジンの大きさは改造作業をかなり困難なものとし、性能は高かったが信頼性には欠けていた。300台のイェンコ・コルヴェアの中の1台YS99がV8エンジン搭載のCORV8に改造された。この車も大幅に改造を加えられて逆回転のシボレー製スモールブロックV8エンジンを水平対向6気筒エンジンと同じ位置に搭載していた。最初のエシェルマン・ゴールデンイーグルは、ボルチモアのエシェルマン自動車()により通常の1960年代半ばのシボレー・コルヴェアに特製エンブレムやその他のオーナメント化粧直しをされた車として中古車ディーラーを通じて販売された。1967年にこの車は同時期のシボレー車をベースとしたエシェルマン・ゴールデンイーグル セーフティカーと呼ばれるようになったが、ゴールデンイーグルはスペアタイヤを前部バンパーに内蔵して特許を取得した15 mph (24 km/h) の衝突に耐える「クラッシュ・アブソーバー」("crash absorber")を標準で装備していた。この車は「自分と愛する人の命に特別の価値を見出す人のために設計された。」と宣伝された。ハウツデール()にあったキスラック・カーセールス社(Kislack Kar Sales)やナイアガラフォールズのプラザ・モーターズ社(Plaza Motors)等がゴールデンイーグルの販売会社として知られているが、正確な販売台数は不明。コルヴェアの水平対向6気筒エンジンは、フォルクスワーゲン製空冷エンジン()の代わりにデューンバギー()やその他のオフロード・レースカーに搭載されるものとして人気のエンジンであった。コルヴェアのエンジンには小型航空機に搭載されたものもあった。

出典:wikipedia

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