アルバニア労働党(アルバニアろうどうとう、アルバニア語:Partia e Punës e Shqipërisë)は、かつてアルバニアで一党独裁制を敷いた共産主義政党。第二次世界大戦中の1941年11月、エンヴェル・ホッジャを指導者(書記長、のち第一書記)として アルバニア共産党(Partia Komuniste e Shqipërisë) が結成。当時アルバニアはファシスタ・イタリアやナチス・ドイツらの枢軸国の占領下にあり、占領軍への抵抗活動、が活発化するなかでの結成であった。1944年11月にはドイツ軍を主力とした枢軸軍を国外に放逐し、国土を解放した。1946年にはアルバニア人民共和国を宣言して社会主義国における一党独裁制を敷き、ホッジャが政府首班となった。1948年に党名をアルバニア共産党からアルバニア労働党へと改称した。戦後はスターリンのソ連および隣国であるチトーのユーゴスラビア社会主義連邦共和国と友好関係を結んだが、独自の自主管理社会主義路線(チトー主義)を採るユーゴスラビアがコミンフォルムを脱退すると関係を断絶してしまう。次いでスターリンの死後、ソ連の指導者となったフルシチョフが1956年にスターリン批判を行うと、これを修正主義として非難、中ソ対立では毛沢東指導下の中華人民共和国(中国)と歩調を合わせ、国家レベルで毛沢東主義に転じた。1967年には全ての宗教を禁止し「」を宣言した。さらに1972年のニクソン大統領の中国訪問を契機に今度は中華人民共和国がアメリカ合衆国と関係を改善し、1976年の毛沢東主席没後の1978年に鄧小平が改革開放路線を採用すると中国とも断絶し()、アルバニアを鎖国的な体制下に置いた。このためアルバニアの国内開発は停滞し、ヨーロッパの最貧国と呼ばれる状況にまでなった。先進国の共産党におけるユーロコミュニズムに対しても非難を続けていた。すべてホッジャが自党、アルバニア労働党のマルクス・レーニン主義、スターリン主義を正統なものと解釈し、他者を修正主義と非難し続けた結果であった。このため各国の共産党の中でを掲げ、旧来の主張に固執するグループが「アルバニア派」(ホッジャ主義)として分裂する現象も生じた。しかしながら、これらの動きは総じて小グループにとどまった。1985年にホッジャが死去すると、後継の第一書記はラミズ・アリアが引き継いだ。アリアもしばらくはホッジャの政策を踏襲したが、東欧革命の影響はアルバニアにも及び、1990年から1991年にかけてアルバニアも一党独裁制を放棄して複数政党制が導入され、民主化されることとなった。その過程でアルバニア労働党はアルバニア社会党に党名を変更し、綱領も社会民主主義を内容とするものに一新した。これに反対する少数グループ(ホッジャ夫人を含む)は1991年に改めてを結成した。アルバニア共産党(1991~)公式サイト
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。