乾 信武(いぬい のぶたけ、1778年(安永7年) - 1810年8月2日(文化7年7月3日))は、土佐藩馬廻役、家禄300石。諱は信武、幼名は鹿次郎。字は左近兵衛と称し、のち庄右衛門と改めた。板垣退助の祖父。土佐の奇人(いごっそう)として知られる。乾正聰と信武は父子2代に亘って資性剛果(いごっそう)で、反骨の気概があって当時の人を驚かせた奇行が『土佐史談』などに多く伝えられている。当時乾家の屋敷は、北西が家老山内将監の屋敷に向かい合い、その向こうには高知城天守閣を臨むことができた。ある時、将監は、吸江湾の眺めを一望できるよう2階建ての楼閣を立てたが、たまたま乾家の隅に老いた松の大木があって、眺めを遮っていたため、将監は乾家に使者を出して枝の剪定を依頼した。信武は「仰せの次第、御尤(ごもっと)もに存ず。彼の松は、平素、拙者(それがし)の愛撫する処なれど、老職たつての思召ゆへ、早々に御意仕(ぎょいつかまつ)らむ。」と答えたので、使者は喜んで帰参した。翌日、信武は直ちに人を雇って松を根幹より切り倒した。将監はこれを聞き、「信武の平生の頑固さから考えると、(日ごろ愛撫しているという)松の枝を切る事を承諾することさえ不可思議であるのに、なんと根元から切り倒してしまったというではないか。何か魂胆が無ければよいが。」と内心恐怖に慄いた。はたして数日後、信武の使者が将監の屋敷にきて、「拙者(信武)は、朝夕天守閣を遥拝し、緩急の際、武芸奉公を怠らぬよう銃身・剣戟の試練を心懸けし処、近頃、老職(山内将監)が楼閣を建てて眺望を塞いでしまった。このままでは、武芸鍛錬の遮りとなり、殿への至誠を欠くことになりかねないので、申し訳ないが先日、老職の申し出に、拙者がすぐさま順ったのと引き換えに、邪魔な楼閣を壊してくれないでしょうか」と言った。
将監は驚愕し、「これは、一本取られた」と言って終に楼閣を自ら破却した、という逸話がある。
出典:wikipedia
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