


永吉(ながよし Nagayoshi)は、鹿児島県鹿児島市の町名。旧鹿児島郡鹿児島近在永吉村、鹿児島郡伊敷村大字永吉、鹿児島市永吉町。永吉一丁目から永吉三丁目があり、全域で住居表示を実施している。郵便番号は890-0023。人口は5,511人、世帯数は2,179世帯(2010年2月末現在)。「永吉」という地名は永遠に肥沃な土地であることを願って付けられたことに由来する。鹿児島市の中部、甲突川中流域に位置している。町域の北方には下伊敷、南方には原良、東方には草牟田、西方には明和、小野がそれぞれ隣接している。中央部には鹿児島修学館中学校・高等学校、鹿児島アリーナが所在している。現在鹿児島アリーナがある場所には江戸時代より鹿児島刑務所が設置されていたが、1985年12月16日に管理棟2階から出火し、1棟(1400平方メートル)が全焼する火災が起きた。そのため、同年には姶良郡吉松町中津川(現在の姶良郡湧水町中津川)に移され、現在では正門が現存しているほか、未決拘留者を収容する鹿児島拘置支所が残されている。平成5年8月豪雨(8・6水害)では町域の東端部を流れる甲突川が氾濫し、永吉周辺の民家約1万世帯以上が浸水し、大きな被害を受けた。また、水害の2年前から施行されていた永吉地区の区画整理事業が進展した 。永吉という地名は南北朝期より見え、薩摩国鹿児島郡のうちであった。江戸期には鹿児島郡鹿児島近在のうちであり、村高は「天保郷帳」では173石余、「旧高旧領」では930石余であった。安政年間には島津斉彬によって水車館(水力機織場)が設置された。村内には薩摩街道、郡山街道が通っていた。1871年(明治4年)に隣接する原良村(現在の原良の前身)を編入した。1889年(明治22年)に町村制が施行されたのに伴い、鹿児島近在のうちの一部から伊敷村が成立し、それまでの永吉村は伊敷村の大字「永吉」となった。1920年(大正9年)に大字永吉の区域が伊敷村より鹿児島市に編入され、鹿児島市の町名「永吉町」となり、同時に明治4年に編入した原良村の区域が独立し、原良町が分立した。1979年(昭和54年)に永吉町の一部が明和一丁目から明和五丁目となった。2000年(平成12年)には永吉町の全域より永吉一丁目から永吉三丁目までが成立した。市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる。
出典:wikipedia
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