


ビル・ミラー(Dr. Bill Miller、本名:William M. Miller、1927年6月5日 - 1997年3月24日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。オハイオ州フレモント出身のドイツ系アメリカ人。獣医師の免許を有していたことから「ドクター」の異名を持ち、覆面レスラーのドクターX、ミスターX、ミスターMに変身しての活動でも知られる。第5代AWA世界ヘビー級王者(ミスターMとして戴冠)。実弟のエド・ミラーとダン・ミラーも元プロレスラーである。オハイオ州立大学時代はスポーツ万能ぶりを発揮し、カレッジフットボールではローズボウルで活躍。レスリングではビッグ・テン・カンファレンスで1950年と1951年の2度に渡ってヘビー級チャンピオンとなり、1951年にはNCAAのオールアメリカンに選出された。学業においては獣医学を学び、獣医師の資格を取得したが、プロモーターのアル・ハフトにスカウトされ、大学卒業後の1951年にプロレスラーとしてデビュー。地元オハイオにてハフトが主宰していたMWA(ミッドウエスト・レスリング・アソシエーション)を主戦場に、1953年から1955年にかけて、ミッドウエスト・ヘビー級王座および改称版のイースタン・ステーツ・ヘビー級王座をバディ・ロジャースと争う。1956年2月にはディック・ハットンを破り、オハイオ・ヘビー級王座にも戴冠した。1956年下期からは弟のエド・ミラーとタッグチームを結成し、アメリカ西海岸からカナダのトロントまで、NWAの各テリトリーを転戦。同年8月にはサンフランシスコにてボボ・ブラジル&エンリケ・トーレスから同地区認定のNWA世界タッグ王座を奪取している。エドとのタッグ解消後は覆面レスラーのドクターX("Dr. X")に変身し、ネブラスカ州オマハにて1959年10月3日にウイルバー・スナイダー、1961年2月4日にドン・レオ・ジョナサンを破り、俗に「オマハ版」といわれるAWA世界ヘビー級王座を獲得。その後、ミネソタのAWAでミスターM("Mr. M")に再変身し、1961年10月17日にハードボイルド・ハガティからUSヘビー級王座を奪取。1962年1月9日にはバーン・ガニアを下してミネアポリス版のAWA世界ヘビー級王座にも戴冠している(両AWA世界王座は1963年にガニアが統一)。この間の1961年5月、ミスターX("Mr. X")のリングネームで日本プロレスに初来日。『第3回ワールド大リーグ戦』に出場し、力道山と決勝を争った。継続参戦した選抜シリーズにおいては、7月21日に田園コロシアムにて力道山のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦している。同リーグ戦にはカール・ゴッチもカール・クラウザー名義で参戦していたが、ミラーとゴッチは1962年9月、オハイオ州コロンバスの会場控室においてバディ・ロジャースとトラブルを起こしたことがある。1965年からは素顔のドクター・ビル・ミラー("Dr. Bill Miller")としてニューヨークのWWWFに登場。7月12日・8月2日・8月23日のマディソン・スクエア・ガーデン定期戦において、ブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に3カ月連続で挑戦している。WWWFでは弟のダン・ミラーとのタッグでも活動し、1965年8月5日にはゴリラ・モンスーン&カウボーイ・ビル・ワットからUSタッグ王座を奪取、翌1966年2月21日にジョニー・バレンタイン&アントニオ・プリエーゼに敗れるまで保持した。1968年1月、ミスターXの覆面を着けながらもビル・ミラー名義で日本プロレスの『新春チャンピオン・シリーズ』に再来日。1月8日の広島大会ではクラッシャー・リソワスキーと組んでBI砲(ジャイアント馬場&アントニオ猪木)のインターナショナル・タッグ王座に挑戦する予定だったが、猪木が雪害のため広島入りできず欠場、タイトルは空位となり、馬場&吉村道明と王座争奪戦を行うも引き分ける。2月3日に東京の大田区体育館にて改めてBI砲との争奪戦に臨むが敗退した。1968年はオーストラリア(ジム・バーネット主宰のワールド・チャンピオンシップ・レスリング)にも遠征し、6月にキラー・コワルスキーとのコンビでIWA世界タッグ王座を奪取している。1970年6月26日にはインディアナポリスのWWAにて、ディック・ザ・ブルーザーと組んでWWA世界タッグ王座も獲得した。同年11月20日、ザ・クリムゾン・ナイト("The Crimson Knight")なるマスクマンとして、ミズーリ州セントルイスにてドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦するも敗退、覆面を剥がされている。1971年2月、素顔のビッグ・ビル・ミラー("Big Bill Miller")として国際プロレスの『AWAビッグ・ファイト・シリーズ』に来日。3月4日の北九州・小倉大会でサンダー杉山からIWA世界ヘビー級王座を奪取し、ベルトを海外に流出させるも、3カ月後の6月19日、ミネソタ州ダルースにてストロング小林王座を明け渡した(当日、両者はミネアポリスにて、ミラーはニック・ボックウィンクル、小林はビル・ロビンソンと対戦しており、ダルースにおける小林とミラーの試合は記録に残されておらず、この王座交代劇は架空のものともされる)。国際プロレスには1972年6月開幕の『ビッグ・サマー・シリーズ』にも再来日し、7月19日に東京の板橋区体育館にて新王者の小林に挑戦したが、タイトル奪還は果たせなかった。同シリーズではバロン・シクルナをパートナーに、空位となっていたIWA世界タッグ王座を小林&グレート草津と争っている。1973年6月末にはキラー・カール・コックスやブル・ラモスらと共に全日本プロレスの『サマー・アクション・シリーズ』に参戦、これが最後の来日となった。1976年の現役引退後は地元のオハイオにて食肉検査官の職に就き、後に獣医を開業した。1997年3月24日、ジムでのトレーニングを終えた後、心臓発作を起こして死去。。同年、オハイオ州立大学では生前の彼の功績を称え、アスレチックの殿堂に迎えている。
出典:wikipedia
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