青州(せいしゅう)は、中国にかつて存在した州。上古の中国の九州の一つに数えられている。具体的な区域については、『尚書』では「海岱」すなわち泰山から黄海までの区域とし、『周礼』では「正東」すなわち中原から真東側にあたる地域であるとする。なお、『尚書』は州名の由来について東方は五行の木に属し、木は青色に対応するためであると説明している。前110年(元封元年)、全国を13州に分割し各州に刺史を設置した際、おおむね山東省にあたる地域を青州とし平原、千乗、済南、斉郡、北海、東莱、淄川、膠東、高密の9郡を管轄した。前漢滅亡後の混乱期には赤眉軍の根拠地となったが、光武帝に破られた。後漢に入って臨朐を州治とした。後漢末期、青州は黄巾賊が大流行しており、青州の黄巾賊が中国北部を大いに荒らし、兗州に攻め込み192年に兗州刺史の劉岱を殺したが、兗州刺史となった曹操に黄巾賊の兵30万人、非戦闘員100万人が降伏している。曹操は、その中から精鋭を選んで自軍に編入し、「青州兵」と名付けた。その後、袁紹の子の袁譚が田楷や孔融との争いに勝利し、青州を支配したが、曹操に敗れて青州を奪われた。その後も青州は賊の巣窟となり治安が悪かったが、曹操の部将の臧覇・孫観・夏侯淵・呂虔・牽招らが賊を討伐し、青州刺史となった王凌が優れた政治を行い、ようやく治安が回復した。永嘉以後の動乱の中で、青州は後趙・前燕・前秦・南燕などと目まぐるしく支配者を変えることになった。劉裕の北伐により東晋が青州を占領すると、東晋は既に現在の淮安市周辺に僑州として青州を置いていたため、本来の青州を「北青州」とし、僑州を「南青州」とした。北魏が青州を占領した後も、この区分を襲い、青州と南青州を併置した。安帝期に州治を東陽城に移した。天保7年に州治を南陽城に移した。文帝 (南朝宋)期に冀州(のちの斉州)、470年(皇興4年)に光州に分割されるなど細分化が進んだ。隋朝が成立すると当初は郡3郡8県を管轄した。607年(大業3年)には郡制施行に伴い青州は北海郡と改称され、下部に10県を管轄した。隋朝の行政区分に関しては下図を参照。唐・北宋でも青州(北海郡)は郡レベルの地方行政区分として存続した。山東の要地として重視され、唐代には青州総管府が設置され、宋代には京東東路の路治となった。金朝が青州を占領すると、1138年(天眷元年)に青州を益都府と改称した。しかし明朝が成立すると地方行政組織は再編され、1376年(洪武9年)に再び青州府と改称された。中華民国が成立すると1913年(民国2年)に青州府を再び益都県と改名された。日本軍占領下の1940年(民国29年)に青州道と改名された。1945年(民国34年)に再び益都県と改名された。1986年に県級市に昇格し青州市となった。
出典:wikipedia
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