土肥 洋一(どい よういち、1973年7月25日 - )は熊本県出身の元プロサッカー選手。ポジションはゴールキーパー(GK)。中学校1年生の時にサッカーを始めた。1992年、熊本県立大津高等学校卒業後の日本サッカーリーグが内定していたが、足の骨折により契約が流れた。プロ選手への夢を諦めきれず、日本テレビ『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の番組内企画「GENKI FC」(コーチはセルジオ越後)に出演。Jリーグクラブへのアピールを行い、ジャパンフットボールリーグ・日立製作所本社サッカー部(後の柏レイソル) との契約を果たした。加藤竜二らとのポジション争いを経て正GKの地位を掴み、1996年にはアトランタ五輪予備登録メンバー選出や、JOMOカップ出場など活躍を見せたが、1998年以降は南雄太や吉田宗弘の台頭を受け、ベンチ入りメンバーからも外れがちとなっていた。2000年には出場機会を求め、この年よりJ1に昇格したFC東京に完全移籍で加入。大熊清監督の標榜する全員守備の要として、開幕からレギュラーポジションを維持。課題のポジショニングや状況判断を向上させ、安定感を高めた。2002年に原博実監督が就任してからもその信頼は揺るがず、2004年2nd第11節対広島戦で、146試合連続フルタイム出場というJリーグ新記録を達成(以前の記録は元清水GK真田雅則の145試合)。この年のJリーグベストイレブンにも選出された。また、同年のナビスコカップ決勝では、退場者を出す不利な状況の中、浦和の猛攻に耐え、優勝に貢献すると共に自らもMVPを獲得。その後は、日本代表との並行によるコンディション調整に苦心しながらも、シュートへの鋭い反応と正確なキャッチング、守備陣を動かすコーチングを武器に正GKとして出場を続け、2006年第33節対浦和戦の不出場に至るまで、2000年開幕戦から延べ216試合連続フルタイム出場というJリーグ新記録を打ち立てた(この記録は2014年に鹿島の曽ヶ端準によって更新された。)。2007年は塩田仁史にレギュラーを奪われるようになり、同年末に退団。試合での好守だけでなく、主将を任され精神的にもチームを牽引する存在だった。2003年、J1ファーストステージにおいてFC東京がリーグ最小失点を記録したことで評価を高め、同年6月に日本代表としてコンフェデレーションズカップに帯同。以後も川口能活、楢崎正剛に次ぐ第3GKの立場ながらメンバー入りを続け、2004年2月のキリンチャレンジカップ・マレーシア戦で国際Aマッチ初出場を果たした。2005年の東アジア選手権第3戦の韓国戦ではスーパーセーブを連発し、日本の勝利に貢献した。2006年ドイツワールドカップにも選出され、試合出場こそ無かったが最年長選手としてチームを盛り立て、対ブラジル戦のハーフタイムでは出場していた川口を励ます様子が見られた。日本代表の紅白戦では攻撃的なポジションを任されることが多く、得点を挙げることもあった。2008年、福西崇史と共に、J1へ復帰した同じ東京のライバル・東京ヴェルディ1969へと完全移籍。移籍後は高木義成を抑えて正GKの座を獲得し、リーグ戦全試合出場と奮闘したがチームは17位となりJ2降格。クラブの経営悪化により一度は契約非更新が発表されたが、減俸での再オファーに応じ、翌2009年の1月に再契約が発表された。J2降格後も正GKの座を守り、高木を名古屋移籍へと追いやった。2011年5月4日、古巣FC東京との「東京ダービー」試合中に負傷交代。左アキレス腱断裂により全治6ヶ月と診断され離脱。持ち前の闘志は衰えず、2012年7月15日、第24節鳥取戦で1年2ヶ月ぶりに復帰し、柴崎貴広からポジションを奪取。至近距離でのシュートセーブの鋭さを見せ、健在ぶりを発揮していたが、この年限りで戦力外となり、シーズン終了後、契約満了により退団。2013年1月、現役引退と東京Vの育成GKコーチ就任が発表された。同年末、Jリーグ功労選手賞受賞。2014年、JFA公認A級ジェネラルライセンス取得。また、トレーナー木場克己と共にアスリートのコンディション調整治療やトレーニング指導などを行う株式会社アスリートウェーブの経営者としても活動している。2014年9月、東京Vトップチーム監督冨樫剛一の要望を受け、同チームのGKコーチに就任。341||0||52||0||17||0||410||097||0||colspan="2"|-||2||0||99||015||0||1||0||||||||453||0||53||0|||||||||-!通算
出典:wikipedia
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