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リトル・ウィリー

リトル・ウィリーとは、イギリスで開発され歴史上最初に完成された試作戦車である。試作を通じて派生したビッグ・ウィリーを経て、世界初の実用戦車であるマーク I 戦車が完成した。後に改修型が「リトル・ウィリー」と呼ばれることになる、「ナンバー1 リンカーン・マシン」は、第一次世界大戦中の、1.5mの塹壕を横断できる戦闘用の機械というイギリス帝国の必要性に応え、陸上軍艦委員会によって1915年7月から設計された。しかし単条や3条など、数種類の無限軌道の設計は失敗を重ねた。7月22日、リンカーンに所在したウィリアム・フォスター農業機械会社の取締役を務めるウィリアム・アシュビー・トリットンは、彼の設計主務を務めたウィリアム・リグビーから設計案の提示を受け、2条の無限軌道によって「トリットン・マシン」を開発するという決定を与えた。これは延長された無限軌道と、緩衝装置の材料(それまでの4個の転輪のかわりに7個の転輪を用いた)を使うもので、部品はシカゴに所在する「ブロック・クリーピンググリップ牽引車会社」から供給された。牽引車が到着したとき、それらは非常に未完成なものだった。実質的な製造は8月11日に開始され、8月16日、トリットンは操行補助のために車輪式の尾部を装着することにした。9月9日、試作車両としてでき上がったナンバー1 リンカーン・マシンは、初の走行試験をウェリントン鋳造工場の構内で実施した。無限軌道の形状が平たすぎ、旋回中の地面との摩擦が過剰であることがすぐに明らかとなった。これを解決すべく、サスペンションの一番下部の外形が、よりカーブを描くよう変更された。さらに次の問題が現れた。壕を横切るとき、履帯が垂れ下がり、それから二度と転輪に嵌らず、詰まってしまった。トリットンとウォルター・ゴードン・ウィルソン中尉は、バラタ式ベルト軌道や平らなワイヤーロープを含む、他にとりうる様々な種類の無限軌道を試した。9月22日、最終的にトリットンは、プレス加工された圧延鋼板をリンクに鋲接する仕組みの履帯と、装軌フレームの内部には、かみあわせるための一体型のガイドを考案した。この機構は、無限軌道が適所で堅固に装着されたために非緩衝式であり、1つの平面だけで作動した。しかしながら装軌フレームは、全体として、車体と連携して僅かな量の揺動を可能としている大型の軸で、本体と接続していた。このような機構は速度を制限したが、これは成功した設計であり、マーク VIII 戦車に至るまで、全ての第一次世界大戦のイギリス戦車に採用された。この車輛の105馬力のデイムラー製エンジンは、燃料を2槽のガソリンタンクから重力供給された。機関は車体後方に位置し、砲塔下方の部屋から十分隔離されていた。試作車両では非旋回式の模擬製の砲塔を装備し、これに機関銃を装着していた。ビッカース2ポンド砲がこれに代わって装備され、副兵装として6挺のマドセン機関銃が装備された。主兵装は約800発と大量の弾薬を搭載するものであった。トリットンの考えでは、オープントップの上部構造が使用され、砲塔が前方へレールをすべって行くことができた。車輛の前側にある低いベンチには乗員2名が配置された。1名はステアリングホイールとクラッチ、スロットル、主変速機を操作した。もう1名はブレーキを操作した。ラジエーターを含む主要な機械部品は、フォスター・デイムラー重砲兵用牽引車のそれを改設計して製作された。2名以上の乗員の手により、エンジン付近で第二のギアボックスの調整が必要だった。さらに少なくとも2名が兵装を操作しなければならず、乗員は6名未満にはならなかった。トリットンによって示された最高速度は毎時2マイル(3.2km/h)でしかなかった。本車は、本物の装甲鋼板を使用せず、ただのボイラーのプレートが用いられた。量産車には10mmの装甲板が使われるよう計画されていた。ウィルソンはナンバー1 リンカーン・マシン(試作1号車)の基本設計案について不満を抱いており、8月17日により良い設計を得て、9月17日には改善された全く新しい試作車両の製造を開始した。この新しい「試作2号車」は、後に「国王陛下の陸上軍艦」(HMLS)、「ムカデ」、「マザー」または「ビッグ・ウィリー」の名称で知られる物となった。偏った菱形の無限軌道のフレームは、車輛の上部から頂部を越えて履帯を装着した。後部のステアリングホイールは改善された形状で残されたが、模擬に留まっていた砲塔は撤去され、兵装を装備するためのスポンソン(舷側に設けられる張出し部分、砲郭)に交換された。トリットン・マシン(「ナンバー1 リンカーン・マシン」前期型)は、1915年12月に、装軌を90cm延長するよう改修されたが、しかしバートン・パークで行われた無限軌道の試験は芳しくなかった。試作2号車の方は、より成功が約束されているように見込まれた。その改修された、「ナンバー1 リンカーン・マシン」後期型は、「リトル・ウィリー」と呼ばれた。この穏当でない名前の由来は、当時一般に大英帝国の三流雑誌で、ドイツ帝国のヴィルヘルム皇太子を茶化して用いていたものである。試作2号車はその時点で「ビッグ・ウィリー」として知られていたが、これもまたドイツ皇帝ヴィルヘルム2世のことであった。同年、漫画作家W・K・ヘイセルドンは、人気を博した対ドイツ向けプロパガンダの映画や漫画を製作した。『ビッグ&リトル・ウィリーの冒険』(原題"The Adventures of Big and Little Willie")である。1916年1月、リトル・ウィリーは全ての砲塔を撤去し、ビッグ・ウィリーと最初の量産の受注を競っていた。ただし前述のように、リトル・ウィリーは超壕性能が劣っており、これが決定に不利であった。ビッグ・ウィリー(後に全ての戦車の原点という意味でマザーとも呼ばれる)はマーク I 戦車の原型となり、リトル・ウィリーの装軌形状は、後にマーク A ホイペット中戦車へと引き継がれた。実戦参加の機会はなかったものの、リトル・ウィリーは軍事技術史上の大きくて主要な前進であり、世界初の(試作)戦車となった。同時期に開発された戦闘車輛としては、フランスのシュナイダーCA1があり、これは1915年1月初頭に開発開始されていたが、その試作1号車は1916年2月に完成した。リトル・ウィリーは、第一次世界大戦後も後世のために保管され、1940年にはスクラップになるのを免れ、ボービントン戦車博物館に展示されている。通常の展示でのリトル・ウィリーは、エンジンの装備されていない空の車体だけの状態であるが、少数の内部部品が装備されている。

出典:wikipedia

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