庚申丸(こうしんまる)は、幕末に長州藩で建造された西洋式帆船。下関戦争でアメリカ海軍と交戦して撃沈されたが、復旧されて長州征討に際しても幕府軍を迎え撃った。早くから軍制改革に積極的だった長州藩は、1857年1月(安政3年12月)に萩の小畑浦の恵美須ヶ鼻造船所で、同藩最初の洋式軍艦「丙辰丸」を竣工させた。しかし、同年9月(安政4年8月)に造船所は閉鎖されてしまった。1858年(安政5年)に周布政之助が藩政の実権を握ると、安政の軍制改革の一環として再び軍艦建造が試みられることになった。山田亦介が建造責任者に任命された。先の「丙辰丸」が君沢形帆船の建造経験者を招聘して進められたのに対し、今回は長崎へ技術者13人を派遣してオランダ人から習得した知識を基に建造が行われた。山田亦介の指揮で再興された恵美須ヶ鼻造船所で工事は進められ、1860年5-6月頃(万延元年4月)に竣工。「丙辰丸」と同じく竣工年の干支にちなんで「庚申丸」と命名された。「庚申丸」は、先の「丙辰丸」に比べると大型の木造帆走軍艦であった。要目は全長約43m・幅約8mと「丙辰丸」の2倍近い長さで、そのため建造費も約5倍と高額になった。ただし、要目は『赤間関海戦記事』によると全長115フィート(約35m)・幅26フィート(約7.9m)となっている。マストも1本多い3本で、帆装形式は「丙辰丸」と同じ縦帆主体のスクーナーとする資料もあるが、交戦したアメリカ海軍の記録によれば横帆主体・最後尾マストのみ縦帆装のバーク型である。武装は30斤砲6門(異説によれば大砲8門)を備えた。竣工した「丙辰丸」は長州藩の軍艦として配備され、練習艦として使用された。『赤間関海戦記事』によれば艦長は山田鴻二郎。長州藩が攘夷決行に踏み切り下関戦争が始まると、松島剛蔵の指揮でアメリカ商船「ペンブローク」などを攻撃した。しかし、1863年7月16日(文久3年6月1日)アメリカ軍艦「ワイオミング」の報復攻撃を受けて、「壬戌丸」とともに砲撃で撃沈された。なお、この「ワイオミング」との交戦の際には、本艦か「癸亥丸」の砲弾1発が「ワイオミング」に命中し、アメリカ兵3人戦死・4人負傷という数少ない反撃打を加えている。下関戦争後に本艦は復旧工事を受けて再就役した。第二次長州征討では幕府方を迎え撃つために出撃し、門司上陸戦支援の艦砲射撃を実施。その際に僚艦「乙丑丸」を指揮していた坂本龍馬の目撃記録によると、小倉藩砲台の反撃で被弾損傷している。後の戊辰戦争でも、鳥羽・伏見の戦い前に長州藩兵を輸送するなどの活動を行った。
出典:wikipedia
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