ハクオーとは日本の競走馬である。1953年に春の中山大障碍優勝、春秋の京都大障碍を連覇した。父は1947年春の目黒記念優勝馬アサフジ、母は芦毛の祐星で競走名コクサイイチとして1944年の秋季京都の能力検定競走に出走したが2戦0勝。全弟に1959年春の京都大障碍を制したイチイチ、そして同じく全妹に1972年の最優秀障害馬ムーテイイチを産んだブゼンアサイチがいる。1951年7月15日の小倉競馬場800mの競走でデビュー、12頭立ての9着に敗れた。その後も5着、6着、9着、9着と低空飛行が続き、6戦目は単勝投票数1776票のうちハクオーに投じられたのは1票のみとなり9頭立ての最下位。7戦目では単複とも1票のみで7頭立ての6着、8戦目でついに単勝無投票となった。しかし、10月末からの京都開催に入り競走距離が1000mに伸びると徐々に成績が上昇し、14戦目で8頭立ての3着と初めて賞金圏内に入った。同年中は17戦して連対することもなかったが、1952年に入ると2戦目で初勝利をあげ、10月までに平地では28戦6勝、オープン競走にも勝利した。11月から障害競走に転向。初戦は4頭立ての3着に敗れたが、3戦目で障碍特別を勝って障害初勝利を挙げた。その後も勝利を続け、1953年4月末までに障害戦では13戦8勝を記録。そして5月5日に行われた関西では戦後初の障害重賞となる第1回京都大障碍に出走した。関西馬5頭に関東馬ニユーベツシーを加えた6頭で争われ、レースはほぼ一段のまま進んだが、最後は先行したハクオーが抜け出して優勝した。2着は2馬身差でキユウシユウが入りニユーベツシーは5馬身3/4差の4着だった。その後は中山大障碍を目指して東上。大障碍前に3戦したがニユーベツシーには連敗して1勝2敗の成績だった。大障碍は前年の優勝馬カツシロ、サチヒカリの2頭がいずれも回避。新鋭のモモタロウ、カクセイ、サチフサなども出走を見合わせ、結局ハクオーのほか、ニユーベツシーとアサミネの3頭立てで行われることになった。ハクオーが1番人気、差のない2番人気にニユーベッシー、そして実績のないアサミネは離れた3番人気でスタートした。レースはハクオーとニユーベツシーが先頭を争い、アサミネは大きく置かれる展開で進んだが、レース後半に入った大土塁障害でニユーベツシーが躓き谷岡騎手が落馬。これで勝負は決定的となり、そのままハクオーが独走のままゴールを駆け抜け、遥か後方のアサミネが大差で2位入線した。その後ハクオーは8月末の平地戦で復帰したのち、障害6連勝。秋の京都大障碍は67kgを背負ってトリフネに2馬身1/2の差で連覇し、阪神の障碍特別では73kgで勝利した。同年11月から1954年は斤量増の影響から平地での出走が増え、障害では6戦して1勝の成績にとどまった。秋の京都大障碍は68kgで出走して5頭立ての3着。その後秋の中山大障碍を目指して再び東上したが、10月23日の中山の障害オープンで落馬競走中止。これを最後に競走に出走することなく、翌1955年2月19日に登録を抹消。同年春より中山競馬場で誘導馬となった。
出典:wikipedia
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