バーベンベルク家()は、フランケン地方のバンベルク、現在の北ボヘミアを出自とする一族。オーストリアの辺境伯そして部族大公として976年から1248年の間、断絶によってプシェミスル朝及びハプスブルク家に代わられるまでオーストリア辺境伯およびオーストリア公としてオーストリア(オーストリア公国)を支配した。バーベンベルク家は、フランス王家であるカペー家の祖でもあるローベル(ロベール家)を遠祖とする。最も古く歴史に残っているのは、9世紀初めに現在のヘッセン州とテューリンゲン州の間の地域を支配したグラープフェルト伯のポッポ()である。ポッポの息子のハインリヒ()は、フランケン公にして辺境伯と言われ、886年にはノルマン人と戦っている。同じく息子のポッポ(テューリンゲンのポッポ; )は880年から892年までテューリンゲン辺境伯に任じられていたが、ドイツのカロリング朝の東フランク王アルヌルフがライバルでアルヌルフ王の姻戚にあたるラーンガウ伯コンラディン家(コンラート家)を支持したため衰退した。バーベンベルク家はハインリヒ公の3人の息子たちにより、マイン川上流域のバンベルクに城を築いたことで家名とした。バンベルク市は、バーベンベルク家の古い城を囲んでつくられたのである。バーベンベルク家はライバルのラーンガウ伯コンラディン家との争いの中で、マイン川中流域に互いに勢力を伸ばしていった。この一連の抗争は『バーベンベルク抗争』と呼ばれ、10世紀初頭のルートヴィヒ小児王の時代(899年 - 911年)まで続いた。906年、フリッツラーの戦いにおいてコンラディン家によって決定的な敗北を被り、フランケン地方の支配を失った。また、フランケン公位はコンラディン家のものとなった。976年、バーベンベルク家の一族であったドネガウ伯レオポルト1世は、後のオーストリア大公領へと成長するバイエルンの東側国境付近を獲得し、東方辺境伯(オストマルク辺境伯)と呼ばれている。しかし、オーストリアのバーベンベルク家もフリードリヒ2世の代で男系が絶えて、女系が特例としてオーストリア辺境伯となった。だが、ボヘミア貴族のオタカル2世(プシェミスル朝)が、オーストリア辺境伯マルガレーテ(フリードリヒ2世の姉)と結婚したため、オーストリア辺境伯はプシェミスル朝のものとなり、ついに断絶した(後にオタカル2世はマルガレーテがかつてトリーアの修道女であったことを理由に離別した)。 :オーストリア辺境伯またはオーストリア公
出典:wikipedia
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