三好 康俊(みよし やすとし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。三好氏の一族。阿波岩倉城主。三好康長の嫡男として生まれる。はじめ、父・康長と共に三好氏に仕え、後に岩倉城主となり、従兄弟の横田宗昭や、重臣塩田一閑ら側近の補佐を受けた。父が畿内へと移動した後は勝瑞城城主となる。天正3年(1575年)、土佐国を統一した長宗我部氏が、四国制覇を目指して阿波国への侵攻を開始した。康俊はこれに対抗するが、天正7年(1579年)12月27日、三好氏重臣である三好越後守、矢野国村、川島惟忠らを脇城外で殺害、岩倉城西の城の一門の武将・大島丹波の嫡子・大島利忠を人質として差し出し降伏。一転して、織田方の同族・十河存保と戦った。ところが、天正9年(1582年)3月、阿波国奪回を狙う父の勧めに従って織田信長に帰属した。当時、長宗我部氏と織田氏は交戦状態になく、人質となっていた嫡子の俊長は返されている。天正10年(1582年)になって信長は長宗我部と断交。2月、神戸信孝を総大将とする四国遠征軍の先陣として父・康長が阿波に侵入すると、康俊も岩倉城でこれに呼応した。しかし6月、本能寺の変で織田信長が横死を遂げると、逆に長宗我部勢(香宗我部親泰)に攻められ、城を捨てて逃亡したとも、この時に討死したともいわれている。以後は消息不明。俊長は後に長宗我部氏の家臣となり、長宗我部氏改易後は新たな土佐国主となった山内一豊に仕えた。
出典:wikipedia
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