田原 伸吾(1967年4月25日 - )は日本の野球選手、野球コーチ、TDK社員。家族は妻、息子、娘の3人。 1964年東京オリンピック110Mハードル代表の田中章は伯父である。此花学院高校に入学、本塁打を量産することから浪速のベーブと呼ばれる。その後、明治大学卒業を経て社会人野球熊谷組、TDKでプレーする。1983年、此花学院高校に入学する。1年生からレギュラーで出場し本塁打を量産し、1985年の夏の甲子園大阪府予選3回戦では高校通算78本目のホームランを打ち、当時の日本記録を樹立する。準々決勝では同期の桑田、清原のKKコンビを擁するPL学園と対戦し、最終回に田原は桑田から右中間に打ち返し1点を返すも、1 - 5で敗戦。また、体育振興牌を秩父宮記念体育振興会から授与される。その後、プロ野球多数の球団からの誘いを断り、東京六大学の明治大学へ進学。神宮では2本と本塁打こそ少なかったが 4年生の秋、水戸市市民球場で行われた島岡吉郎監督の追悼試合で早稲田大学と対戦。4番打者として勝利に貢献する。 大学卒業後もプロ野球の誘いが来るが断り、社会人野球の名門チーム熊谷組に入社。1年目にはスポニチ全国大会で優勝に貢献 、2年目には2打席連続ホームランを打ち同全国大会にて優秀選手に選ばれる。 翌々年にゼネコンが不況になり、熊谷組野球部が休部になるが、92年に田原はTDKに移籍。低迷していた野球部の建て直しに取り組み 自身も主軸打者として活躍。TDKを11年ぶりに東北地区代表として都市対抗全国大会出場に導く。同時に秋田県仁賀保町の地域活性化にも貢献する。 96年から熊谷組がクラブチーム、熊球クラブとして復活し、TDKに所属しながら在籍する。コーチ兼任としてプレーし、3度のクラブ選手権全国大会に出場し、97年は全国クラブ選手権大会準優勝に貢献する。現在はTDK海外駐在員としてシンガポール、タイに赴任。電子部品を販売するセールスマネージャーとして勤務する。シンガポールに駐在中は、ボランティアで 硬式野球のシンガポール代表チームの臨時コーチを勤める。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。