


コピアポ鉱山落盤事故(コピアポこうざん らくばんじこ)とは、チリ共和国アタカマ州コピアポ近郊のサンホセ鉱山()にて、現地時間2010年8月5日に発生した坑道の崩落事故。崩落により33名の男性鉱山作業員が閉じ込められるも、事故から69日後の現地時間10月13日に全員が救出された。サン・ホセ鉱山 (el yacimiento San Joséまたはla mina San José) は、コピアポの45km北に位置する。鉱山を所有したのはミネラサンエステバン社であったが、のちに倒産した。作業員達が閉じ込められたのは地下634mの坑道内で、これは坑道の入り口から5kmの位置である。鉱山会社の弁護士を含む数名が、作業員らが救出された後、鉱山所有者らが破産に追い込まれる可能性を指摘している。サンホセ鉱山は金と銅の産出で1889年から操業してきた。現在の所有者は、マルセロ・ケメニー・ヒューラー(40%)とアレハンドロ・ボーン(60%)の2人である。チリは鉱業国として長い歴史を持つ(2010年は銅生産世界シェア35%程とリチウム生産量世界一)。しかし一方で採掘現場の安全確保は立ち遅れ、2000年から年平均で34人が採掘中の事故により亡くなっている。2008年には43人の命が失われ、2009年に19万1685件の事故が発生して443人が死亡、2010年の第1四半期だけでも155人が死亡している。コピアポ鉱山の坑道は螺旋状に1本道で地下深くに伸びており、迂回路や退避路は設けられていなかった。コピアポ鉱山でも2004年と2007年に各1名の死亡事故を含む複数の事故が起こっており、政府は2010年7月から、鉱山所有会社らに坑道の強化に失敗している旨の警告を発していた。1995年に鉱山労働組合は、コピアポ鉱山の閉鎖を要求し、話は裁判所にも持ちだされた。2005~2007年にかけて労働監督局は閉山を決定したものの、なんらの改善措置も行政監督もなく、2009年操業の再開が認められた。今回の事故の原因となった強度の不足も、事故が起きる前の段階で予測が可能だった物を、早期に鉱山閉鎖をしなかった理由について論争を引き起こしている。全国地質・鉱山事業局(Sernageomin)の果たした役割が疑われ、Sernageominの17人の監督官による責任のなすりあいが行われる一方で、鉱山経営者との間に利益提供があったことが疑われている。アタカマ州には2000から3000の鉱山があるが、担当する監督官はわずか2名であった。8月5日作業員は2つのグループに分かれて作業をしていた。まず地下460メートル地点で落盤事故が発生した。落盤による大量の土砂は、作業員の3メートル手前まで押し寄せた。事故発生当時、坑道出口付近で作業していたグループは速やかに脱出したが、坑道奥で作業していた33名は坑内に閉じ込められた。事故に遭遇した労働者は皆男性で、32名のチリ人と1名のボリビア人であった。閉じ込められた作業員は通気孔からの脱出を模索したが、通気孔にはステップが無く脱出は不可能であった。その後、8月8日にも地下510mの地点でも落盤があり、坑道は闇に包まれた。鉱山のオーナーは、事故発生後9日間行方をくらまし、8月13日にやっと人々の前に姿をあらわし「私たちにとって最も重要な事は、労働者とその家族だ」と述べたが、逆に被害者家族より非難を受けた。鉱夫たちは50平方メートルほどのシェルターにいたが、通気性に問題があったため、坑道に移らざるをえなかった。シェルターのほか、動きまわるスペースのある2キロメートルほどの地下通路があった。鉱夫たちはバックホーを使って地下水を確保している。鉱山シャフトの内側にある搬送機のラジエーターからもある程度水を得ることができた。食料は限られていたため、一人あたり8キログラムほど体重を落としている。緊急時にと残されていた食料はわずか2、3日分であり、彼らはそれを分け合って、発見されるまでの2週間をやりくりした。彼らが口にしていたのは「48時間ごとにマグロの缶詰を小ぶりのスプーンに2杯、牛乳を一口、ビスケットを1枚」、桃の一切れであった。明かりにはトラックのバッテリーを使ってヘルメットのランプを灯している。退院後のマリオ・セプルベダの言葉によれば33人は「一人一票制の民主主義を採用していた。脱出口を探したり、士気を高めようと皆で頑張った」。またこうも言っている。「もし関係が破綻したら、みんなお仕舞いってことは誰もがわかってた。毎日別の人間が何かしら不始末をやらかしたけど、そういうときはいつでも、みんながチームとして士気を維持しようとしていた」。セプルベダはじめ古参の鉱夫は若い人間をよく助けたが、鉱山内で起こったことの詳細、特に絶望的だった最初の何週かに起こったことについては口を閉ざすよう皆で誓った、と彼は言った。そういった出来事の中には、仲間が死亡した場合にその肉を食べることも真剣に検討したことも含まれていた。アバロスもまた、地下で生き残るため空腹に打ち勝とうと力をあわせた。「まとまりになれば、頑張りとおせる。希望をもっていられる。生き残るとみんなが信じなければいけなかった」と語っている。かつてプロのサッカー選手だったフランクリン・ロボスは自分たちが素晴らしいサッカーチームであるかのように行動したという。「酷いことが起きたけど協力しあった。何もなかった、水が飲みたくても飲み物なんてどこにもなかった時も。僕らは協力しあったんだ。食べるものもなくて、スプーン一杯のツナ缶を口にしたぐらいだった時も。それで本当に結束することができた」。8月23日、鉱夫たちと音声での交信が可能となった。健康上の問題はほとんどないことが報告された。「地下700mに閉じ込められ、高温多湿ななかで18日間も過ごしたわりには想定していたほど彼らは不調をきたしていない」と救助隊の医師はメディアに語っており、また5%ブドウ糖液と過度の空腹による胃潰瘍を抑える薬が彼らのもとに届いていることも伝えた。物資は伝書鳩の役割にちなんで(鳩)と名づけられた1.5mの青いプラスチックのカプセルによって一時間かけて搬送された。エンジニア達はボーリング穴をゲルで覆い、シャフトを補強するとともにカプセルが通過しやすくした。高濃度のブドウ糖液や補水液、薬品などのほか、鉱夫たちが空気不足を伝えると酸素も送られるようになった。固形食も数日してから運ばれている。ボーリング穴は他にも二つ開けられた。一つが酸素を送るためで、もう一つが鉱夫の家族とビデオチャット用の装置を通すためにつかわれた。親族は手紙を書くことも許可されていたが、前向きな内容にするように要求された。鉱夫の士気を案じて、救助隊は検討されている計画では救出に数か月かかるかもしれないことを鉱夫たちに伝えることをためらった。救助隊と顧問医は鉱夫たちが非常に統率のとれた集団だったとしている。救助隊と共に働いた心理学者や医師は彼らを暇にさせず、精神を集中させるようにした。タイマーつきの蛍光灯が届けられ、擬似的に再現された昼夜によって人間の通常の生活リズムが保たれるようにした。鉱夫たちは救出に向けて尽力する人々の能力を確信し「この地底から助け出すために、大勢のプロがいてくれている」と言った。心理学者は鉱夫たちが悲観的にならず気力を保つためにはそれぞれに見合った仕事を受け持つことが大切だと確信した 。彼らは8時間ごとのシフトを組む3つの班にわかれ、輸送カプセルの受け渡し、環境保全、それ以上の落盤を防ぐ安全管理、コミュニケーションや衛生関係の仕事を分担した。ウルスアが全体を統括するリーダーとなり、最年長のゴメスが精神的な指導者に選ばれた。精神衛生の専門家は集団が規律と規則を守ることが精神衛生のために重要だと信じ、集団が階級構造をとるよう補助した。医療の仕事を任せ、健康について相談させるのにはジョニ・バリオスが最適だというのが医師たちの判断だった。彼はかつて医療トレーニングを受けたことがあったのだ。彼は毎日回診をして診断票をつくり、鉱夫たちのカルテを更新していた。地上の医療班とも毎日ミーティングをもっていた。彼が非常に忙しくなると、ダニエル・エレラを助手にして記録をつけるようになった。バリオスは破傷風やジフテリア、インフルエンザ、肺炎の予防注射も行った。鉱夫たちの多くは高温多湿の環境のため皮膚に大きな問題を抱えるようになった 。速乾性の衣服やマットレスなどが送られたために、地面に直に眠る必要はなくなっていた 。9月には止血帯や点滴薬、副木を含めた応急手当のキットが彼らのもとに届き、ビデオで応急処置を学習した。温度と湿度が高い環境では衛生は重要な問題となる。場所決めを徹底することで清潔さは保たれた。「どうすれば環境が保てるのか彼らはよくわかっていた。トイレとゴミ捨て場を決め、リサイクルさえしていた。プラスチックと生ごみの分別もしていた。自分たちのいる場所に気を使っていたということだ」と医師のアンドレス・リャレナは語った。彼らは天然の落水を日常のシャワーとして使い、石鹸とシャンプーをから受け取った。汚れた衣服は送り返した。彼らはいくつかの水源も掘り上げ、医師により飲料に適すると判断されたうえで、井戸の浄水剤が送られた。環境と安全は第一の課題であった。19歳と最も若いジミー・サンチェスは「環境アシスタント」に任命され、毎日携帯用の機器で酸素と二酸化炭素を測定し空気の質を確かめた。温度は平均して31度であった。鉱夫たちによる班は落盤の危険のある箇所や天井から落石の危険のある箇所を特定するためにパトロールも行ったり、採掘作業の際に生じた水の流れを変える作業に従事した。ハイメ・マニャリク保健相は「いまの状況は宇宙ステーションの片隅で数か月過ごす宇宙飛行士の生活にとてもよく似ている」と語った。8月31日、NASAのスタッフがチリに到着し、救助を支援した。精神科医が2人、心理学者とエンジニアが1人ずつの4名である。救出後、チリの大学でトラウマ、ストレス、災害に関する学部を統括しているロドリゴ・フィゲロア博士は、地上の家族と鉱夫たちが交わした手紙を読んだり彼らの行動をモニターした結果、そこには深刻な欠陥が見られ、地下の鉱夫たちは急に「赤ん坊」に戻ってしまったかのようだった、と述べた。しかし「33人」の生来の強さは健在で、災害に立ち向かうため彼らが自然とチームとして組織化されたのもまた人間の持つ脅威への対応の一つである。また、鉱夫たちの健全な精神は一貫して見られ、その精神はこれからも再開した地上生活で試されるだろう。10月1日段階で、ピニェラ大統領の支持率は56%と、作業員救出が始まる前の46%から上昇した。ゴルボルネ鉱業相の支持率は78%に達した。生存を知らせるメモが見つかった際はすぐに現場に駆けつけ歓喜の表情をテレビに見せ、作業員に子供が生まれた際に病院に駆けつけテレビカメラの前で乳児にキス、救助された一人一人と抱擁、病院に現れ「サッカーの試合で彼らと対決したい。勝ったら大統領宮殿に招待、負けたら鉱山に逆戻りさせる」と発言するなどたびたびカメラの前に姿を現すピニェラ大統領に対して、閉じ込められた作業員の家族の一部や外国メディアから、ピニェラ大統領が救出作業を政治利用しているとの批判が出た。当初は「クリスマス・イブ前後」とされていた救出予定日が徐々に「11月」「10月下旬」と早まり、大統領の欧州訪問予定日直前に調整したのではないかとの声が出た。9月19日には五回目の現地視察を行った日と同日に3本目の縦穴掘削工事が始まったことから一部の家族は「視察に合わせるため、工事が遅らされた」と指摘、それに対して担当大臣は「大統領は事故当初から作業員の救出に全力を挙げてきた」など、反論したが、救出開始は大統領が来るのにあわせて調整していたことを認めた。また「救出の時を作業員や家族、国民と共有することは私にとって大変重要」と述べて15日の訪欧予定日を17日に延期した。救出現場でボリビアのエボ・モラレス大統領と並んでいる映像が報道された。10月16日、英国入りしたピニェラ大統領は炭鉱事故が相次ぐ中国などを念頭に「支援できるならぜひ力になりたい」と述べ、作業員救出のノウハウを各国に提供していく姿勢を示した。救出された1人の妻は「政治家は成果を誇示したがる。みんなを助けてくれさえすればいい」と不満を語った。日本国内のインターネット報道の見出しとしては以下のようなものが見られた。「チリ大統領、奇跡に「便乗」?支持率急上昇」(読売新聞)、「欧州では無名の大統領が奇跡の救出をしたたかに利用」、「事故を政権浮揚に利用? チリ大統領に冷たい視線も」(スポーツニッポン)、「主人公は大統領?=チリ鉱山事故」(時事通信社)。一方、作業員の発言の中には「救出されると分かった時、中で起きたことは決して口外しないと全員で誓った」「鉱山で起きたことは鉱山に置いてきた」と報道から一定の距離を置こうとするものもある。また、救出作業員に「有名人としてではなく、鉱山作業員として扱われたかった」と言った者もいた。フアン・ソマビアILO事務局長は救出作業継続中の13日に発表した声明で「ILOの事務局長としても、チリ人としても世界の人々と共に賛辞を贈りたい。鉱夫の落ち着き、勇気、組織力、命を愛する気持ち、国内外官民問わずに貢献したすべての人々の粘り強さ、技能、効率性、鉱夫らの家族と国家全体が示した連帯、信じる気持ちに敬意を表する。ピニェラ大統領、政府、チリ国民に賛辞を表する。経済的、技術的、人的な力が逆境を勝利に変えたのかもしれない。鉱夫の家族の連帯と全国民の信頼が不可能を可能にしたように見える。救助から学んだことは大きい。しかし、我々は事故が安全措置が不十分であったことに起因する点を忘れてはならない。世界の労働力の約1%が従事する鉱業が全産業の8%の死亡災害を起こしている。労働災害は毎日約6,300人の犠牲者を出し、年間合計では230万人以上に達する。労働災害は年間3億3,700万件にのぼり、鉱業その他の劣悪な労働条件の改善に向けて課題は山積している」と述べた。サンホセ鉱山の運営会社の資産は政府によって凍結され、賃金や失業手当が給付されるメドは立っていない。作業員の多くは長期間の過酷な鉱山労働で難聴や呼吸器の障害を抱えているとされる。同鉱山は閉山される見通しで補償もおぼつかない中、生還者以外の作業員約300人による救済を求める抗議活動が続いた。地域紙の記者は「今回の事故は鉱山のずさんな運営の実態を世界に訴える機会だったが、英雄物語の陰に隠れてしまった」と話した。政府系の全国紙は、一連の抗議活動をほとんど報じていないという。なお、この落盤事故の生存者にボリビア人もいたことがきっかけで、長年関係が良くなかったチリとボリビアの関係が改善する可能性が高まっている。2013年5月、事故当時現場監督だったウルスアが、鉱山で働く作業員の安全確保、労働環境の改善を目的とする財団「アタカマ33財団」を設立した。セレブリティ同様の収入を得た労働者らは、確実に収入を分配するために会計士を雇用した。また、33人は、彼らが今回の試練について語るときは、「ひとりが話す」ように話したいと言っている。彼らがまだ穴の中にいる間から、すでに公式の伝記の著者、あるいは詩人としてノミネートされている者もおり、潜在的な本の売上や、映画の権利などの需要が発生している。最初の書籍、 "Under the Earth: The 33 Miners that Moved the World"が発行される予定である。また、チリでの救助活動に焦点をあてた、別の書籍 "33 Men, Buried Alive: The Inside Story of the Trapped Chilean Miners"(The Guardian誌のJonathan Franklin編)も英国で2011年初頭に発行される。また、この事故を題材にした映画が制作されることが決まり、題名は「33人」になる。内容は実際の事象(映像)とフィクションを混ぜたものになるという。監督は同国出身の映画監督ロドリゴ・オルトゥサル。2010年8月22日に全員の生存が確認された時から持ち上がり、既に撮影カメラを鉱山に配置し、テント村「希望」での撮影を開始している。救出された人と風貌の似た俳優をコピアポ周辺で探す他、有名俳優の起用も決まっている。なお、この映画の収益金は全て救出された鉱員の子供達の教育費として寄付されるものの、まだ関係者には映画の構想を話していない。また、彼らにはテレビ出演のためのオファーもきている。マリオ("スーパーマリオ")セプルベーダはチリ版の「Children in Need」にあたる「Teleton」の司会を依頼されており、またマイアミテレビジョンのホストであるドン・フランシスコは、彼らを番組"Sabado Gigante"に招待している。最初の再現テレビドラマは、12月に放送される予定である。そして事故にちなんだインターネットドメイン名los33mineros.clに申請が3件、また、estamosbienenelrefugiolos33.clには申請が4件なされている。ジョニ・バリオスは愛人問題を明かされたが、不倫相手を探す既婚者のためのオンラインデートサービスの顔として、100000USドルのオファーをうけており、同サイトのスペイン語のスポークスマンとなり、南北アメリカと中米でテレビ、ラジオ広告に出演する予定である。12月13日には、マンチェスター・ユナイテッドFCの招待を受け試合を観戦。費用はスポンサーを務めるチリのワイン製造会社が負担した。2014年、FIFAワールドカップ直前にはチリ代表のスポンサーを務めるチリ中央銀行の応援CMに出演している。2015年、この事故をモデルとした映画『チリ33人 希望の軌跡』("THE 33")が8月6日にチリで公開された。監督はパトリシア・リゲン、脚本はホセ・リベーラ、主演はアントニオ・バンデラスが務め、映画ランキング初登場第1位を記録し、チリの映画のオープニング興行成績としては歴代2位を記録した。
出典:wikipedia
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