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浮島丸 (特設巡洋艦)

浮島丸(うきしままる)は、大阪商船が1937年に竣工させた貨客船。太平洋戦争では日本海軍に特設艦船として徴用され、前半は特設巡洋艦、後半は特設砲艦に類別されて海上護衛や哨戒任務に従事した。終戦時には特設運送艦籍で健在だったが、1945年8月24日に朝鮮半島出身者を送還中、機雷に接触して沈没した。「浮島丸」と姉妹船の「波上丸」は、大阪商船の沖縄航路用貨客船として建造された。当時の大阪商船は、命令航路として大阪港と那覇港を結ぶ定期旅客便を運航していた。大阪商船の沖縄航路は従前「宮古丸」などの老朽船が多かったが、船舶改善助成施設などによる1930年代の外航船更新に沿って、沖縄にも会社独自の方針で新造船を投入することが決定された。同時期の大陸航路向けの貨客船が「黒龍丸」のように蒸気タービン機関搭載だったのと異なり、波上丸型ではディーゼルエンジンを採用した。客室設備は従前の沖縄航路船よりも改善された。また、沖縄航路用としての設計上の特色として、沖縄産の農産物輸送が考慮されており、果物や家畜などを積む専用貨物設備を有している。1936年(昭和11年)末に進水し、翌1937年(昭和12年)3月に竣工した「浮島丸」は、姉妹船とともに予定通り大阪・沖縄航路に就航した。姉妹船の「波上丸」は日中戦争の開始後に日本陸軍により病院船として徴用されたが、本船は商船として運航され続けた。1940年(昭和15年)1月27日には、通常航海の途中、種子島南方の鍋割礁で座礁したアメリカ商船「P・ケソン」の遭難信号を受信したため、同船の乗員・乗客108人と子犬1頭を救助して神戸港まで送り届けている。日米関係が悪化する中、1941年(昭和16年)9月3日付で、「浮島丸」は日本海軍に徴用された。四一式15cm単装砲4門と九二式7.7mm機銃2丁を装備するなどの改装工事を受け、特設巡洋艦として就役した。5000総トン弱という船体規模は、日本の特設巡洋艦の中で小柄な部類である。当初は佐世保鎮守府の佐世保警備戦隊に所属したが、太平洋戦争開始後の1942年(昭和17年)4月に第一海上護衛隊が創設されると移籍し、同隊の旗艦として日本本土・シンガポール間の船団護衛に従事することとなった。その後、同年8月5日には、第二海上護衛隊の特設巡洋艦「能代丸」が特設運送船籍に移った穴埋めとして第二海上護衛隊へ転出し、日本本土・トラック島間の船団護衛を担当した。1943年(昭和18年)3月15日付で、「浮島丸」は、日本本土防空用の特設監視艇部隊である第二十二戦隊に異動した。翌月には特設砲艦へ類別変更となり、特設監視艇の母艦として日本本土東方での洋上哨戒に従事した。大戦後半には対空兵装として九六式25mm機銃も装備されている。哨戒中に敵潜水艦らしきものに狙われて、爆雷による対潜戦闘を経験することもあった。1945年(昭和20年)2月20日には、特設運送艦へと再度の類別変更を受けている。同年4月9日には、輸送任務中に岩手県沖でアメリカ潜水艦に襲われ、護衛の第3号掃海艇がパーチーの雷撃で撃沈され、自身もサンフィッシュの雷撃を受けるも被害を免れている。「浮島丸」は行動可能な状態の数少ない優秀商船として終戦の日を迎えた。終戦後、「浮島丸」は、日本本土から朝鮮半島へ引き揚げる朝鮮出身者を輸送する任務に充てられた。しかし1945年8月24日、多数の乗客を乗せ舞鶴港に寄港した際に機雷と接触して沈没し、数百人の犠牲者を出した(浮島丸事件)。自沈したとする陰謀論が長く主張された。

出典:wikipedia

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