明徳館(めいとくかん)は、久保田藩第9代藩主・佐竹義和が開いた藩校。佐竹義和が、時の老中松平定信の教学振興の施政に従い、京都から来藩の儒者村瀬栲亭の協力で設立した。士分および徒並(かちなみ)を対象とした。朱子学者である初代祭酒・中山菁莪の学風で開学され、また江戸から招かれた儒者山本北山の色濃い影響により、『孝経』が重んじられた。寛政元年7月8日(1789年8月28日)、久保田藩の家老・疋田斎(柳塘)の申し渡しによって藩校建設が公式に決定し、翌2年3月11日(1790年4月24日)に校舎完成、寛政4年3月14日(1792年5月4日)開講された。校名を明道館から明徳館とし、武芸所、医学館、和学方等を徐々に整備し、明治初期まで存続した。久保田城下東根小屋に学館(のち明道館、明徳館)が設けられたほか、江戸詰めの藩士のために江戸に日知館が、また領内6郡の藩士・陪臣のために10箇所にわたり郷校が、それぞれ設けられた。郷校それぞれが独立した教学機関でありながら、藩校本館の下部機構でもあった。郷校における成績優良者には明徳館本館への進学の道も開かれていた。毎年1月17日の祭酒講義をもって始業、12月23日の文学講義をもって終業とされていた。毎月7の日に祭酒の講義、3の日に文学の講義、9の日に助教の講義が行われた。武芸所では、槍、刀、居合、柔術、弓術、軍学を毎日演技させ、武芸担当教授がこれを看た。毎年秋には武芸総裁の内見を、春には藩主の上覧をうけた。郷校に配属された教授によって毎月2回の講義が行われたが、以下の制度もあった。以上の三者が「学長」と称され、藩校本館の首脳を構成した。以後不詳。以後不詳。
出典:wikipedia
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