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コンベア880

コンベア880 () は、アメリカの大手航空機製造会社ジェネラル・ダイナミクス社のコンベア部門が、世界最速という触れ込みで開発した中型ジェット旅客機。1940年代以降、民生機部門でCV240やCV440などの小・中型レシプロ機のベストセラーを送り出して来たコンベアが、大手航空会社トランス・ワールド航空(TWA)の実質的オーナーで、数々の奇行でも知られた伝説の大富豪ハワード・ヒューズの強い意向を受け、同社初のジェット旅客機として1952年に計画発表、度重なる仕様変更を経て、1959年1月27日に初飛行した。ヒューズは当初、永年の付き合いがあり、コンステレーション等で実績のあるロッキードに高速ジェット旅客機の開発を働きかけたが、ロ社は軍用機の開発生産で繁忙だった上に、過渡的なターボプロップ機のL-188エレクトラに傾注していたため、コンベアに御鉢が回った経緯がある。先行する競合機ボーイング707、ダグラスDC-8との開発ギャップを埋めるため、同社のF-102、F-106と同様に試作機の製作を省いた「クック・クレイギー・プラン」方式で1959年に-22型の生産がいきなり開始され、当時のジェット旅客機で最速の最大運用限界マッハ数0.89を標榜する「世界最速」をセールスポイントにして開発が進められた。DC-8にも採用された逆キャンバー翼、超音速軍用機用エンジン(下記)と、機体表面を平滑化する接着工法を転用し、経済性を優先される旅客機としては異例の高速性を追求したが、実際には空気抵抗過大で計画値未達に終わり、競争上有意な速度差は示せなかった。また事前にトランスワールド航空から公開された広報写真では、機内にボーイング377のような乗客用のラウンジが設けられると発表されたが、これは採用されなかった。1960年に最初の機体が完成したが、最初に路線に就航したのは、ローンチカスタマーのトランスワールド航空ではなくデルタ航空であった。初期の -22 型は抵抗低減目的で後退翼に必須とされる前縁スラットさえ敢えて排する徹底振りだったが、翼弦35°の鋭い後退角では離着陸時にやはり危険だったため、間もなく前縁スラットを追加して方向舵を全油圧作動とし、パワーアップしたエンジンでペイロードと航続力を増強した -22M(M は Modified = 改良型の意)に取って代わっている。就航中の -22 も全機 -22M 仕様にレトロフィット(改造)された。しかも高速化のために採用したジェネラル・エレクトリック CJ-805-3エンジン(同社の超音速戦術爆撃機B-58にも用いられたJ79の簡略版)は小型軽量であったものの、軍事機密指定解除が長引いて計画遅延の一因になったばかりでなく、整備が煩雑で信頼性に乏しく(製造原価低減目的で高価な耐熱金属の使用量を減じたため、ホットセクションが溶解するトラブルが多発したほか、警報システムの誤作動が原因の緊急着陸も頻発した)、更に大騒音で黒煙を吐いたことも、ジェット機の大量就航によって空港周辺の騒音問題が各国で注目され始めた矢先であったことから受注の足を引っ張った。加えて、ライバル機より一回り小型で積載能力が小さく(客席は3-2配置)、高燃費で、電装系やエンジンを中心にマイナートラブルが多く、失速特性に問題があり、低速時に癖の強い操縦性も敬遠されて、就航後エアラインの間で不評が定着してしまった。1960年には大幅改良型の -22M に切り替えられたものの、同じ短中距離クラスながらよりキャパシティの大きいボーイング720などと競合して受注は伸びず、さらに改良型のCV990に全面的に生産が移行されたこともあり、1959年から1962年までのCV880の累計生産はわずか67機に留まった。なお生産機の約半数がローンチカスタマーのトランス・ワールド航空に納入された。また、新造機を導入したいずれの航空会社もこのようなトラブルの多さと中途半端なキャパシティを嫌い改良型のコンベア990へ発注を振り替えたりキャンセルが相次ぎ数年でダグラスDC-8などに買い替えを進め、それらの機体は格安な中古機としてキャセイパシフィック航空などに引き取られていった。その後もボーイング707やダグラスDC-8のように貨物機に改装されることも殆ど無く、その後1980年代中盤には全ての航空会社から退役し、1995年を最後に現在現役の機材はない。しかし下記の経緯から、日本では馴染み深い機種である。またロックンロール界のスーパースター、エルヴィス・プレスリーが自家用機として愛用したことでも有名となった。第二次世界大戦後に開発、就航した民間機としては驚異的な事故喪失率を記録した上、退役も早かったため、残存機の殆どがモスボール状態で放置、或いはスクラップにされた。現在、アメリカにCV880機が、スイスにCV990機が1機ずつ完全な状態で静態保存されている。アメリカにおいて静態保存されているのはエルヴィスの自家用機「リサ・マリー」号(N880EP、デルタ航空の機体を1975年に購入、没後の1979年に抹消)で、エルヴィスの故郷メンフィス市にある自宅「グレースランド」で展示中である。スイスにおける保存機は ルツェルンにあるスイス交通博物館の屋外展示スペースに旧スイス航空のCV990(HB-ICC)が展示されている。またエンジンや胴体の一部が欠落した状態で保存、もしくは放置されている機材が数機種あるといわれている。なお、日本においては交通博物館には本機のエンジン、ジェネラル・エレクトリックCJ805が展示されていた。日本における数少ないコンベア880の遺物だが、同館が2006年5月14日に閉館したため成田の航空科学博物館に移管し再公開される予定である(2007年10月1日現在)。1961年にはエンジンを簡易ターボファン化したCJ-805-23Bに換装し、空力的洗練を加えたストレッチ型のCV990(愛称:コロナード)にモデルチェンジした。コンベアはCV990でもCV880を上回る高速性をアピールし、アメリカン航空やスイス航空、ヴァリグ・ブラジル航空などCV880のユーザーを中心に売り込んだが、1960年代中盤には短中距離用ジェット機として効率に優れるボーイング727やダグラスDC-9、中長距離用にはダグラスDC-8の延長型スーパー60シリーズやボーイング707-320Bが予定されるなど性能向上した競合機が待ち構える中で、わずかな大型化と高速化以外に抜本的な改良を受けなかったCV990は前作の悪評を覆すに至らぬまま1963年には早々と生産終了に追い込まれた。熟成不十分なまま市場に投入されたCV880と、それに続くCV990の商業的失敗が、それまで好調であった老舗コンベア凋落の直接原因になったと指弾されることが多い。日本ではフラッグキャリアの日本航空によって8機、日本国内航空によって1機のCV880-22Mが購入された。日本航空はダグラスDC-8を飛ばすには需要がまだ十分でなかったと思われていた東南アジア路線向けにDC-8-30型機よりサイズの小さい機材の導入を検討した結果、CV880が妥当として1960年4月に発注した。国内幹線では4発レシプロ機DC-4系を、東南アジア線などを近距離国際線ではDC-4の後継機のDC-6を主力として運用していた日本航空だったが、国内幹線に全日空がビッカース バイカウントを、近距離国際線ではキャセイパシフィック航空がターボプロップ機のロッキード L-188を1959年5月に導入した後は、一時的に劣勢を強いられていたこともあり、先ず1961年9月に3機が東京-札幌線に国内線初のジェット機(愛称「ジェットアロー」)として導入され、他の東南アジア路線や国内幹線に、その後南回りヨーロッパ線にも順次航路拡大した。しかし、前述の通りエンジンや電装系を中心にトラブルが多く、「じゃじゃ馬」と言われる扱いにくい機体であり、経済性が悪く騒音も過大で、現場から嫌われた。また高度経済成長下で急激に伸びつつあった需要に対応するにはキャパシティが小さく、さらに、いずれも訓練飛行中であるが墜落事故で3機を喪失、1機を小破したことも加わって、DC-8の国内線への導入やボーイング727の受領開始に伴い運用縮小し、2機が1970年にキャセイパシフィック航空に売却された他は、1971年までに全機退役した。残余4機は、ちょうど本機と入れ違いに導入されたボーイング747の「下取り」という形でボーイング社が引き取り、IAL(航空機リース会社)に転売され、その全てがキャセイ・パシフィック航空で運航された。日本航空のCV880には植物の愛称が付けられていたが、日本国内航空からのリース機であった「銀座」号は変更前に喪失したため、そのままであった。なお、後に導入したボーイング737-400にも花の愛称が与えられたが(JALエクスプレス移管時に消滅)、いわゆるゲン担ぎからCV880で使われた愛称は除外されている。スイス航空や中華民国の民航空運公司(CAT)、香港のキャセイ・パシフィック航空等が、日本への乗り入れ機材として使用した。なお、ガルーダ・インドネシア航空が一時的に乗り入れ機材として使用していたこともある。この中でも、特にCATが台北〜東京線で用いた機体(登録記号:B-1008)は、黄金色で中華風の派手なマーキング(機体塗装)と特別仕様のキャビン・インテリア装飾を施し、“マンダリンジェット”の愛称で一般にも親しまれた。中華民国で郵政事業を行う中華郵政は同機を描いた郵便切手を複数回発行しており、航空切手には同機の姿を見ることが出来た。また、1961年の中華民国における民間航空40周年記念切手には青天白日旗を背景に同機が飛行する姿が描かれており、中華民国におけるフラッグキャリアのシンボルという位置づけであったことが伺える。1968年ボーイング727へ更新し同機はキャセイ・パシフィック航空に引き取られた。キャセイ・パシフィック航空では1970年代前半に延べ9機の中古のCV880を運用し、香港から展開する東南アジア路線の需要と将来予想は前述の日本航空と同様の判断でカンタス航空が採用したボーイング707-138かボーイング720を候補としたが価格面で折り合いが付かず、要求キャパシティに近いCV880の中古が安価で放出されていたことから導入が決まった。内2機は香港で離陸失敗事故を起こしたほか、航空テロで喪失し、後継機のボーイング707の導入に伴い1974年定期便から退役し1975年中に全機売却された。日本航空の所有期間と同じくその活躍期間は短かく、キャセイ・パシフィック航空の退役以降二度と民間定期路線には使われなかった。就航中はエンジンGE CJ805の騒音が大きく黒煙を曳いたため、日本航空やキャセイパシフィック航空機が乗り入れる大阪国際空港では生活環境に及ぼす公害裁判に発展した騒音問題の槍玉にも挙げられた。なお、トランス・ワールド航空(当時アメリカ占領下の沖縄のみ乗り入れ)、ヴァリグ・ブラジル航空やKLMオランダ航空などは、ボーイング707やダグラスDC-8などで乗り入れを行っていたため、定期便での乗り入れ実績はない。1965年に壱岐空港、1966年に羽田空港、1969年にアメリカ・モーゼスレイクで、いずれも訓練中の離着陸時に墜落事故を起こしているが、有責旅客死傷者はない。これらのうち羽田空港で離陸失敗事故を起こしたのは日本国内航空の所有機で、同社のボーイング727と共に認可路線ごと日本航空にリースされたものであったが、日本航空の塗装に変更される前に当該事故が発生したため、事故直後の報道に混乱を招来した。

出典:wikipedia

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