大分空襲(おおいたくうしゅう)は、第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)7月17日の0時10分頃から1時40分頃にかけてアメリカ軍により行われた大分県大分市に対する空襲(戦略爆撃)である。米軍機による照明弾の投下が7月16日夜半から行われていたことから、空襲の日付は7月16日とされることも多い。大分市は、豊後水道が本土空襲の経路に当たったこと、海軍航空隊及び第12海軍航空廠が所在したことなどから、1945年(昭和20年)春以降、連日のように米軍機が来襲し、幾度となく空襲の標的となった。このうち主要なものは以下の通りである。1945年(昭和20年)3月18日の初空襲から終戦までの間に、大分市への空襲は22回に及び、計749発の投下爆弾や約9,500発の焼夷弾によって大分市の中心市街地は壊滅的被害を受けた。また、人的被害は、死者177人、負傷者270人にのぼった。1945年(昭和20年)7月16日は、午前中に空襲警報が出されたが、この警報は間もなく解除されている。その後、午後9時すぎに警戒警報が発令された。午後11時過ぎにまず1機のB29が飛来して照明弾を投下。続いて、後続の30数機からなるB29の本隊が、翌17日0時10分頃から1時40分頃にかけての約1時間半の間に、約6,000発の焼夷弾を大分市中心部に投下した。大分市中心部では既に大分駅前から本町、堀川町までの約1,500戸が取り壊されるなど、建物疎開が進んでいたため、被害は比較的抑えられたともされるが、それでもこの空襲による全焼家屋は2,358戸、半焼家屋は130戸に及び、10,730人が焼け出された。また、死者49人、負傷者122人の多数の人的被害が出た。すでに数度の空襲によって被災していた大分市の中心市街地は、この空襲によってほぼ壊滅し、大分駅から海が見えたと伝えられる。この空襲により被災した町域及び主要施設は以下の通りである。竹町、本町、京町、細工町、大工町、室町、茶屋町、魚町、堀川町、寺町、西新町、北新町、鍛冶屋町、荷揚町、船頭町、笠和町、上紺屋町、下紺屋町、今在家町、名ヶ小路町、於北町、中上市町、西上市町、清忠寺町、下柳町、上柳町、中柳町、桜町、西小路町、白銀町、塗師町、長浜町、王子町、西町、中島町
出典:wikipedia
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