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槇江山

槇 江山(まき こうざん、安政7年(1860年) - 昭和11年(1936年))は、伊予国浮穴郡上灘(現在の愛媛県伊予市)出身で明治中期から昭和初期にかけて活躍した陶芸家。本名は鹿蔵(しかぞう)、「江山」は号である。伊予国上灘に生まれ、幼少の頃から手先が器用であった。当時、山口県萩から来ていた陶工が、天賦の才能を惜しみ弟子とし、12歳から18歳まで萩で焼物の修業を重ねた。一人前の陶工として帰郷した後、21歳から27歳まで、土佐の政治家林有造に請われて、有造の妻の里で焼物指導をする。有造の薦めで、号を「江山」と名乗るようになった。その後、砥部で陶工として働いた。明治28年(1895年)、郡中町(現在の伊予市)に住み、江山焼に取り組む。伊藤博文、元帥海軍大将東郷平八郎、陸軍大将秋山好古、旧伊予松山藩主久松勝成、高浜虚子、下村為山、河東碧梧桐等、文人、軍人、政治家との交流が多く、名士が江山を招いて邸内に窯を築き、陶磁器を焼かせる「お庭焼き」も行われた。明治42年(1909年)春、伊藤博文を郡中彩濱館に迎えもてなした時、江山が庭に用意した窯で、伊藤は茶碗に「水光山色沙白松青影裏之人家 春畝山人」、徳利に「一片之氷心」と揮毫して楽焼を楽しんだ。その年の秋、伊藤は満州で安重根の狙撃に遭い亡くなったので、死の数ヶ月前に、江山と交遊があったことになる。また、明治36年(1903年)に大正天皇、大正11年(1922年)には昭和天皇に、江山焼お買い上げの光栄を賜る。大正11年(1922年)、松山城の城山の麓に、旧松山藩主久松家の別邸として萬翠荘が建設された。その際、松山市の会社団体からは砥部焼の鶴が贈られた。銀行団体からは亀を贈ることになり、江山がその制作を行った。萬翠荘の庭園に鶴と亀が置かれて、大いに瑞相を添えていたという(戦災等の為、現在は亀は残っていない)。人柄は温厚で三味線をたしなみ、浄瑠璃を研究したり、ひょうたんを愛玩して常に携帯し鑑賞していた。酒は飲めず、甘党であった。無欲恬淡で「芸術家は金で動くようではだめだ」という信念を持ち、収入があると貧しい人に施しをしたり、餅をたくさんついて砥部橋から撒いたりした。陶芸作品が高く評価され有名であるだけでなく、誰からも好かれた人物だった。

出典:wikipedia

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