真番郡(しんばんぐん)は、漢朝により朝鮮半島に設置された郡(植民地との見方も存在する)。楽浪郡、臨屯郡、玄菟郡と共に漢四郡と称される。『魏略』逸文の衛氏朝鮮に関する記述の中で「朝鮮貢蕃」とあり、これは「朝鮮の属国(朝鮮に貢納する蛮族)」の意味とする説と、二つの地名の併記とみて「朝鮮と貢蕃」とする説とがある。後者の場合、さらに説が分かれ、貢は真の誤記で真番のこととする説、貢蕃が正しく真番が誤記とする説とがありうる。さらに『史記』太史公自序には「真藩」とあり番の字は「藩」だった可能性もある。また『史記集解』によると真番の番の字に「徐廣曰一作莫」とあり真番を「真莫」とする例があったことが知られる。市村瓚次郎は「真=辰で、番の発音は邦に近いので真番とは辰邦であり、辰邦すなわち「辰国」のことである」と考えた。しかし朝鮮民族史学の申采浩は上記の「真莫」を引用し、もともとは「真番莫」か「真莫番」であり「真番」は略表記だったとの説を唱え、真・番・莫はそれぞれ辰韓・弁韓・馬韓のことだとした。現在では「真・番」は後の「辰韓・弁韓」に相当するものと考え、真番郡を現在の慶尚道にあったとする説もある。前108年(元封3年)、衛氏朝鮮を滅ぼした漢朝により幽州刺史部の下に設置され、15県からなり、郡治が置かれた霅県の位置は長安を去ること7,640里という。管轄する領域の範囲は諸説があって確定していない。前82年(始元5年)に真番郡は廃止された。在北説・在南説・非在説があり、在北説はのちの玄莵郡に該当するという説。この3つの中ではすでに在南説に軍配が上がっているが、在南説の中でも細かく分かれ、慶尚道とする説、忠清道を中心とする韓国西部という説、慶尚道と全羅道を含む韓国南部とする説などがある。武田幸男は、『説文解字』は魚の名前をあげて「楽浪潘国に出づ」として、珍魚や魚の食材は、楽浪潘国=真番の産として、魚の水揚げの本場であったことがわかる。従って、楽浪に近い海岸地域というからには在南説が自然であるが、在南説にも西岸と東岸の別があるが、ここだという証拠がないとする。朝鮮の南ではなく、朝鮮の北にあったという説。この説の場合、のちの三韓の地の大部分は漢帝国に併合されなかったことになる。李氏朝鮮中期に起こった説で、『東国文献備考』でそれまでの諸論が簡単にまとめられた。その後、日本の那珂通世、白鳥庫吉などがこの説を深め、中朝国境山岳地帯、通説でいう玄菟郡のちの高句麗の本土に真番郡があったと唱えた。この場合、玄菟郡はどうなるかというと、日本海沿岸=咸鏡道方面だけが玄菟郡だったということになる。前82年に真番郡は廃止されたのではなく玄菟郡に改名し、旧玄菟郡が廃止されたのだということになる。この説は、現在では完全に否定され、日中韓いずれの学界においても支持されていない。楊守敬、内藤湖南、稲葉岩吉などが唱えた、今の忠清道方面にあったとの説。古くは、上記の在北説と対立する「在南説」といえばこれをさした。市村瓚次郎は「真=辰で、番の発音は邦に近いので真番とは辰邦であり、辰邦すなわち「辰国」のことである」と考えた。これを踏まえた今西龍は「シン」(新・真など)のつく古地名を拾って今の錦江流域に「辰国」があったと推測、真番郡は忠清道・全羅道の範囲に相当し、「霅県」も錦江流域に置かれたとした。この説は高校の世界史の歴史地図帳でも長年にわたって採用されていたことから、日本における通説となっていると見られる。この説では、後述の東南説と反対に、慶尚道方面は漢帝国の郡に併合されなかったことになる。臨屯郡が現在の江原道であり、真番郡はその先に続く慶尚道と見る説。この説では、真番の真がのちの辰韓、番がのちの弁韓と繋がる地名であると見られる。郡治の霅県は今の慶尚北道浦項市内になる。この場合、忠清道・全羅道ののちの馬韓地域は含まれないことになるが、『三國志』では土俗的な印象で語られる馬韓に比して辰韓や弁韓は都市文明の影響が明瞭で、これが真番郡の跡地であったことの一つの傍証とされる。この説では、のちの馬韓に該当する地域は郡に併合されなかったことになる。李丙燾は、真番郡の範囲は、楽浪郡の南部と京畿道とした。詳しくいうと北は載寧江(帯水)で楽浪郡と接し、東は臨屯郡、南は辰韓とそれぞれ接し、西は黄海に綿糸、現在の北朝鮮の黄海南道、黄海北道及び京畿道一帯に相当するとしている。これだと一見、楽浪郡の南部とかぶってしまうように思われるが、李丙燾はそうではなくて、楽浪郡の南部7県(帯方、列口、長岑、昭明、含資、提奚、海冥)からなる「南部都尉」は実は真番郡が廃止された前82年に真番郡から編入されたのであり、真番郡の残りの8県は辰国または馬韓に併呑されたという。「霅県」はあるいは今の京畿道ソウル付近かと推測している。この説ではのちの三韓の地の大部分は漢帝国に併合されなかったことになるが、この説は有名な中国地図出版『中国歴史地図集』に採用されていることから、韓国人の説でありながらも中国においては半ば通説のように扱われていることがわかる。日本では井上秀雄が支持している。臨屯郡と楽浪郡を除く半島南部の全域に及ぶとする説。この説の場合、漢四郡は朝鮮半島を完全に覆い尽くすことになる。上述の真番が本来は「真番莫」もしくは「真莫番」だったとの説や、真がのちの辰韓、番がのちの弁韓に繋がるとの説からすると、莫がのちの馬韓でもおかしくなく、真番莫郡または真莫番郡でのちの三韓全域を覆っていたとも考えられる。また『後漢書』の辰国=三韓の地とする説や、上述の市村瓚次郎の辰国=辰邦=真番とする考えからは、「真番莫・真莫番」という異説を用いずとも同様の結論に至る。岡田英弘は『倭国』(中公新書)その他の自著の中で四郡を図示したが、その真番郡は慶尚道と全羅道の両方の南部海岸に達しており「霅県」の位置は慶尚南道釜山と推定している。北朝鮮の学界の定説及び韓国の学界の一部では、漢帝国による朝鮮半島併合の事実はなかったとして、漢四郡の位置が実は朝鮮半島の外部、具体的には通説でいう遼東郡の内部に存在したと主張する。この説の場合の真番郡は、通説でいう遼東郡の東部都尉の区域にほぼ相当する。しかしながら、北朝鮮・韓国以外の中国や日本やアメリカ(真番郡#引用文献)の学界では全く認められていない。李氏朝鮮の時代には、黄海北道平山郡とする説や、江原道春川市とする説などがあった。前者は最古の説であるが、史料を誤解したもので問題外であるが、後者は韓百謙の説で最初期の在北説が唱えられたのとほぼ同時期の説である。いずれも近代的な歴史学が導入されてから早くに否定されている。
出典:wikipedia
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