霊芝寺(れいしじ)は、香川県さぬき市末に所在する寺院。宗派は高野山真言宗。山号は日内山(ひうちざん)。本尊は十一面観世音菩薩。さぬき三十三観音霊場第十番札所。寺伝によれば、平安時代初期の弘仁年間(810年 - 824年)に空海(弘法大師)が、師である岡田牛養を祈念し建立したと言われる。かつては、東林山遍照光院(とうりんざんへんじょうこういん)または火内山大岡寺(ひうちざんたいこうじ)と号した。戦国時代の天正年間(1573年 - 1593年)、長宗我部元親軍の侵攻により伽藍は火災に遭い、焼亡した。江戸時代前期の1662年(寛文2年)、山城国西明寺の僧・恵忍が来錫し、寺院再興を発願した。高松藩初代藩主松平頼重が寺院の復興を命じ、山門が復興された。水戸藩主徳川光圀の子で頼重の養子となった2代藩主頼常は1676年(延宝4年)、寺号を東林山霊芝寺と改め本堂を建立した。1802年(享和2年)、本堂が再建された。しかし、1828年(文政11年)・1843年(天保14年)と火災に遭い焼亡した。1869年(明治2年)、山号を日内山と改め堂宇が再建された。1933年(昭和8年)、放火により再び焼亡した。現在見られる伽藍は1938年(昭和13年)に再興されたものである。山門は雨滝城の裏門を移築したものと伝わっている。寺院の裏山に、2代藩主頼常と10代藩主頼恕の墓がある。高松松平家の宗旨は浄土宗で、菩提寺と墓所は法然寺にある。しかし、頼常は水戸家の出身であるため、祖父の頼房・実父の光圀に倣い、儒教方式でこの地に葬るよう遺命した。このため、法然寺から離れた場所に儒式墓で営まれている。同様に頼恕も水戸家の出身であるため、頼常に倣って儒式墓でこの地に葬られた。門を入ると位牌所がある。階段を進むと頼常の墓があり、さらに奥に頼恕の墓がある。頼常の墓碑銘は「故四位少将南嶺源節公之墓」、頼恕の墓碑銘は「故正四位下中将南溟源愨公之墓」と刻まれている。
出典:wikipedia
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