宮内町(みやうちちょう Miyauchi-Chō)は、鹿児島県薩摩川内市の大字。旧高城郡水引郷宮内村、高城郡水引村大字宮内、薩摩郡東水引村大字宮内、薩摩郡川内町大字宮内、川内市宮内町。郵便番号は895-0065。人口は3,809人、世帯数は1,610世帯(2011年4月1日現在)。宮内町の一部で住居表示を実施している。「宮内」という地名は新田八幡宮(新田神社)が所在していることに由来する。薩摩川内市の西部、川内川下流域に位置している。字域の北方から東方にかけて御陵下町、東方に大王町、花木町、川内川を挟んで宮里町、西開聞町、西方に五代町が接している。字域の北部には新田神社が所在し、その周辺にいくつかの神社がある。新田神社の境内にはニニギの陵である可愛山陵があり、現在は宮内庁書陵部桃山監区可愛部事務所が置かれており、内閣府事務官が陵墓守部として管理している。南部には中越パルプ工業川内工場、薩摩川内市立亀山小学校がある。中央部には鹿児島県道44号京泊大小路線が東西に通っている。宮内という地名は室町期より見え、薩摩国高城郡のうちであった。宮内という地名は多くの神社の境内につけられた名であり、宮内は新田宮周辺の地域名であったとされている。江戸期には薩摩国高城郡水引郷(外城)のうちであり、村高は「加増目録」では937石余、「旧高旧領」では1,276石余であった。村の南東部には水引郷の地頭屋敷が置かれ、周辺には郷士の屋敷などより麓が形成されていた。1874年(明治7年)に可愛山陵が「邇邇芸尊陵」の指定を受けた。その後1914年(大正3年)には山陵の管理が宮内省直轄となった。1889年(明治22年)には町村制が施行されたのに伴い、水引郷の全域より水引村が成立し、水引村の大字「宮内」となったが、1891年(明治24年)に水引村が東水引村と西水引村に分割され、宮内は東水引村となり、東水引村の大字「宮内」となった。1929年(昭和4年)には東水引村が隈之城村、平佐村が新設合併し、川内町の大字「宮内」となった。1940年(昭和15年)には川内町が市制施行したのに伴い、川内市の大字「宮内町」となり、同時に字域の一部を上川内町、御陵下町に分割した。その後1965年(昭和40年)に一部が大王町、花木町、若葉町に分割された。市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる。
出典:wikipedia
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