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福永洋一

福永 洋一(ふくなが よういち、1948年12月18日 - )は日本中央競馬会 (JRA) に所属した騎手。"※兄の福永甲、福永二三雄、福永尚武や息子の福永祐一と区別するため、本文中はとくに「洋一」と表記する。"1948年、高知県高知市に生まれる。実家はかつて土地一帯の地主であったが、太平洋戦争後にGHQが発令した農地解放政策などにより没落し、洋一出生時には困窮を極めていた。父は放蕩癖のある人物であり、1953年に母が失踪し、以降は姉により育てられた。その姉は公営・高知競馬場所属の騎手・松岡利男と結婚し、福永家と競馬界との関係が築かれた。次いで長兄・甲(はじめ)が、中学校卒業後に日本中央競馬会・京都競馬場の武平三厩舎に入門、次兄の二三雄、三男の尚武もそれぞれ公営の大井、船橋で騎手となった。ひとり残った洋一はそのまま高知で父と暮らしていたが、父は1957年に脳溢血で死去。これを受け、洋一は姉が嫁いだ松岡家に身を寄せた。以降の少年時代は、高知競馬場内の厩舎で手伝いをしながら過ごした。1960年に潮江中学校に入学、このころより「将来は騎手になる」という目標を口にするようになり、中学2年の終わりごろには甲の師匠・武平三を頼って京都に移り、のちに同期生となる武永祥と桃陵中学に通った。中学卒業を控えた1963年秋、永祥といっしょに日本中央競馬会の馬事公苑騎手養成長期課程を受験。合格後の入所式では、平三が永祥と洋一、双方の保護者として出席した。中学校卒業後、騎手課程第15期生として馬事公苑に入所。武永祥に加え、岡部幸雄、柴田政人、伊藤正徳らと同期生となった。のちに岡部、柴田はそれぞれリーディングジョッキーを獲得、伊藤は通算300勝に満たない成績ながら東京優駿(日本ダービー)、天皇賞(秋)といった大競走を制し、15期生はとくに「馬事公苑花の15期生」と称されるようになる。教官のひとりであった木村義衛は、「騎手志望の少年は、騎手として達者型と上手型の二通りがあるようです。達者型は運動神経が発達していて、先天的に騎手向き。上手型は努力で上手になる型と言えます。そのどちらでもなかった子供は、私の知る範囲ではプロになっていないし、なれません。岡部と福永は達者型というのか、巧かった。柴田はどちらかと言えば上手型でした」と語っている。2年次に入り厩舎での実地研修が始まる際、馬事公苑を訪れた栗田勝が洋一の才能に目を付け、兄の甲を通じ、栗田が所属する武田文吾厩舎(京都競馬場)に入門するよう働きかけた(甲の記憶によれば、栗田は洋一を見ていないともいう)。これを受けて洋一の研修は武田厩舎で行われた。研修期間中は栗田が騎乗するダイコーターと、その弟弟子の山本正司が騎乗するキーストンが日本ダービー出走を間近に控えていた最中であり、厩舎全体に充満していた緊張感は洋一に強い印象を残した。研修期間修了後に騎手免許試験に臨んだが、この年は落第。武田厩舎での1年間の浪人生活を経て、翌年再受験して合格し、武田文吾厩舎所属騎手としてデビューを迎えた。武田厩舎は当時関西で最大の名門厩舎であり、伊藤正徳は、2世騎手(父は伊藤正四郎)であり、関東の名門・尾形藤吉厩舎に入った自分と洋一が最も恵まれたスタートだったとしている。1968年3月2日に初騎乗を迎え、シュクホウで3着。2週間後に同馬で初勝利を挙げた。初年度は14勝を挙げ、中央競馬関西放送記者クラブ賞(関西新人賞)を受賞した。しかしこのころの騎乗は、他馬に危険がおよぶような粗雑な印象を周囲に与えるものであり、ほかの騎手からの評判は芳しくなかった。7月20日には競走中に大きく斜行して後続馬の進路を塞ぎ、騎手が落馬する事態を引き起こし、開催4日間の騎乗停止処分を受けた。この最中、ほかの騎手から洋一の騎乗についてたびたび苦情を受けていた栗田が、競馬会の採決委員・筧丈夫に対し、騎乗の検証と、必要に応じて注意勧告を行うように依頼した。しかし筧がパトロールフィルムを精査した結果、粗雑に見える騎乗は、ほとんどがぎりぎりの範囲ながら規則内に収められており、「勝利への最善を尽くしている現れであり、あとはモラルの問題」という結論に達し、注意は行われなかった。2年目も順調に勝利を積み重ねていたが、5月4日の京都競馬第7競走において、1位入線した後に負担重量の不足が判明し、競馬会より3か月間の騎乗停止、さらに師匠の武田から1か月間の騎乗自粛を通告された。この期間中、洋一は大井競馬場で騎手を務めていた次兄・二三雄の元をたびたび訪れ、佐々木竹見の騎乗にいたく感心していたという。復帰後は武田の意向によりローカル開催の札幌競馬場で騎乗。初めて経験するダートコースの乗り方を二三雄に教わり、開催前半で次々と勝利を重ねた。しかし二三雄から伝授された乗り方を愚直に繰り返したため、開催後半に入り失速する。ここで二三雄に再度の教えを請うた際、「周りの騎手だって馬鹿じゃない。同じ作戦ばかりじゃなく、たまには逆をいってみろ」と窘められ、以降、臨機応変の騎乗を身に着けていった。札幌開催を終えて関西に戻ると、以降は安定して勝利を重ね、この年45勝を挙げて全国11位と躍進した。3年目に入ると洋一の騎乗を希望する馬主が増加し、また栗田や安田伊佐夫といった兄弟子が、良馬を選んで優先的に洋一に騎乗させるなど厩舎からの援助も受け、春先からリーディング争いでトップの位置を占めると、最終的には86勝を挙げ、リーディングジョッキーの座を獲得した。翌1971年もリーディングを独走していたが、秋まで重賞勝利がなく、一部では「数でこなしただけの勝ち鞍漁り」とも揶揄されていた。しかし10月に入り、ニホンピロムーテーで神戸杯、京都新聞杯を連勝。11月に迎えた当年のクラシック最終戦・菊花賞では、距離が不向きかつ追い込み馬と見られていた同馬を、残り1500メートルで先頭に立たせるという奇策を打って勝利を収め、八大競走初制覇を果たした。これは洋一の騎手生活における代表的な騎乗のひとつとなり、本競走をきっかけとして洋一は「天才騎手」へと成長したともされる。翌年秋の天皇賞ではヤマニンウエーブに騎乗し、パッシングゴールの道中40馬身差にも及んだ逃げをゴール直前でアタマ差捉えて優勝。その後しばし八大競走制覇からは遠ざかったが、1976年、洋一が騎手生活中の最強馬と評したエリモジョージで天皇賞(春)を制した。秋には「天馬」トウショウボーイの騎乗も任され、菊花賞トライアル競走の神戸新聞杯、京都新聞杯を連勝している。また、この年の2月16日に日迫良一の姪・北村祐美子と結婚。12月9日、長男・祐一が誕生した。1977年春にはインターグロリアで桜花賞、ハードバージで皐月賞を制覇。この皐月賞では、最後の直線で内埒沿いのわずかな隙間に馬を突入させ、2着ラッキールーラ騎乗の伊藤正徳、3着アローバンガードに騎乗した柴田政人が、それぞれ「ラチの上を走ってきたのかと思った」、「神業に見えた」と語る、福永の代表的な騎乗に挙げられている。秋にはインターグロリアでエリザベス女王杯にも優勝。さらに当年、野平祐二が保持した年間最多勝記録を19年ぶりに塗り替える126勝を記録した。翌年にはオヤマテスコで桜花賞を連覇し、年間最多勝記録も131勝に更新した。洋一は斎藤の落馬に素早く反応し、これを避けようとして馬の進路を変えたが、その時の進路は、落馬時に騎手が落ちた方向(内埒沿い)から考えて、騎手を避けることのできる外側の進路であった。しかしながらこのときは、斎藤が通常とは逆の、馬が進もうとした外側に転がってきてしまい、避けることができずに馬が脚を引っかけたことが事故の原因であった。もし落馬への反応が遅れて真っ直ぐ走るか、斉藤が通常と同じ内埒沿いに転がっていれば、事故は避けられていたと言われている。なお、この競走のテレビ中継で実況アナウンスを務めていたのは、洋一と個人的にも親交があった杉本清であった。事故の瞬間は「おーっと1頭落馬、1頭2頭落馬、2頭落馬、マリージョーイも落馬、マリージョーイ落馬、マリージョーイが落馬しておりますが、ハシハーミット先頭、ハシハーミット先頭」といった、平静に近い実況を通した。しかしこれは冷静を努めたのではなく、「私は普通の落馬だと思っていました。彼は調教でもよく落ちてはケロッと起き上がっていたので、この時もそんな感じかなと思っていたのです」と、当時の心境を語っている。救急車には安田伊佐夫と松本善登が同乗し、2人とも搬送中の治療に協力した。病院へ到着後、安田から武田文吾と裕美子に対して、洋一が落馬して入院する旨が伝えられた。しかしこの時点では、2人は怪我がそれほど重篤なものとは考えておらず、武田は「ああ、また落ちたのか」と漏らすなど、安穏としていた。徐々に容態は安定し、12月には、医師の許可を得て短期間ではあるが久々に自宅に戻り、正月を迎えた。約1年間のリハビリにより、同年9月、数歩であるが事故以来初めての自力歩行をすると、12月には義父の「おはよう」という挨拶に対し、「おはよう」と、たどたどしいながら応えるまでに回復した。その後も徐々にではあるが回復を続け、1984年10月には家族と武田文吾が見守るなかで、栗東トレーニングセンター内の角馬場において、約5年半ぶりに馬に跨った。このとき馬上で、かつて好んで歌っていた『南国土佐を後にして』を口ずさんだという。以降もリハビリが続けられる傍らで、長男・祐一は1992年に競馬学校を受験し、2世騎手への道を進み始めた。同年の結果は不合格であったが、「願書を出した」というのみで新聞に報じられ、さらに翌年の入学に際しては金屏風を前にしての記者会見が行われた。祐一は1996年3月2日に騎手としてデビューし、初騎乗初勝利を挙げた。この様子を洋一はテレビで観戦し、ゴール後は笑みを浮かべ、柴田政人からの「勝ったところを見たか」という電話に対し「うん」と返答した。開催を終えた祐一が帰宅した際には、直々に「おめでとう」と声を掛けている。祐一は父が築き上げた人脈の恩恵も受け、当年新人としては異例の50以上の厩舎から騎乗を依頼され、新人騎手として史上3位の記録(当時)となる53勝を挙げてJRA賞最多勝利新人騎手を受賞した。この翌年に行われたインタビューの中で、祐一は「福永洋一の息子」と喧伝されることに対して「僕は全然嫌じゃないです。だって実際に僕は福永洋一の息子なわけですから。父がいなければ僕もいないんだし、父のことは尊敬していますしね。このまま最後まで"洋一の息子"でもいいと思ってます」と語り、また一方で、父の偉大性については「よく分からないです」と答えていた。以後、祐一は毎年ランキングの上位を占める騎手として定着し、2008年9月27日には983勝目を挙げ、通算勝利数において洋一の記録に並んだ。この際に祐一は「父の背中を追いかけてきたが、近付くにつれ色々と見えてきて、最初より遠ざかったようにも思えた」と述べた。翌日には984勝を達成して洋一の記録を更新、11月30日には洋一が直前まで迫りながら達成できなかった通算1000勝を記録し、「福永洋一の息子として競馬の世界に入り、父に縁のある方々に支えられ、ここまでやってこられました。先日、父の勝利数を超えたことで自分の中でもおもりが取れ、福永祐一個人として歩み出せたような気がします」と語った。祐一が2009年8月に高知競馬場で行われたトークショーに出席した際、「生まれ育った高知は父親にとって特別な場所。おやじの名前がタイトルについたレースができたら」と発言し、高知競馬がこの意向を汲む形で2010年より重賞競走「福永洋一記念」を新設した。5月10日に行われた第1回競走当日は、親子が祐一の全日本新人王争覇戦出場時以来14年ぶりに競馬場を訪れ、プレゼンターとして表彰式に出席した。洋一が公の場に姿を見せたのは事故以来31年ぶり、祐一との同席は初めてのことであった。最後に挨拶に立った祐一はファンの歓迎に涙も見せ、開催後には「オヤジが引退してもう30年近くなるのに、たくさんの人が覚えてくれているのがうれしかったです。自分はユタカさん(武豊)の活躍にあこがれて騎手になったつもりでも、自分の中のヒーローはオヤジだったんだって初めて思いました。カッコ良かったです」と語った。なお、勝利騎手の赤岡修次は、洋一が高知時代に通った高知市立潮江中学校の後輩にあたる。祐一は、次年度以降も洋一と一緒に高知を訪れたいとの意向を示しており、また高知県競馬組合からは「将来的には福永洋一記念を交流重賞に」との目標が掲げられている。逃げ戦法から追い込み戦法まで満遍なくこなし、ときに追い込み馬で逃げ切り勝利を収め、また逃げ馬で後方からの差し切り勝ちを収めるということもたびたびであった。入着(5着以内)さえおぼつかないと見られていた馬をしばしば勝利に導くなど、どのような着想からその戦法を採ったのか、なぜ福永が乗ると勝てるのか、本人以外には理解できない騎手であったという証言が数々寄せられており、武豊、田原成貴など史上に「天才」と称された騎手の中でも特に異質な才能の持ち主であったとも評される。後輩騎手の的場均は洋一以外の日本人騎手に天才は見当たらないとし、伊藤正徳はその騎乗を評して「プロの目から見ても、いったいどう乗るんだろうとわくわくさせるものがありました。ゾクッと来るものがあった。セオリーを無視して乗ったように見えたとしても、彼が乗ればそれがセオリーになるとでもいいますかね。あんな乗り役は二度と現れないでしょうよ」と語っている。騎手時代に洋一のライバルと目されていた武邦彦は、洋一を評して「乗り役として必要な要素を何もかも備えていた」とし、なかでも優れていた点として「瞬間的な判断力」を挙げている。同期生の伊藤正徳は、この点についての具体的な例として、ハードバージで内埒沿いを突いて優勝した皐月賞を引き、「もしハードバージに他の騎手が乗っていたら、直線を向いた時、内を突くか外に出すか、右か左か迷ったろう。ほんの百分の数秒だろうけどね。洋一と、他の騎手の違いはその百分の数秒なんだ。でもレースではその差が大きく結果に現れる」と語っている。また、常に前方を遮られることなくレースを運んだ秘訣について、「前が開いたから行くんじゃない。洋一の場合は(開くところを予期して)行ったところ、行ったところが開いていくんだ」と述べている。岡部幸雄はその判断の性質について、洋一と同じく「天才」と呼ばれる武豊と比較している。岡部はレースにおける騎乗は減点法で考えるべきだとしたうえで、武は「ミスのない選択ができ」、洋一は「彼にしか考え出せないような選択肢を見つけ出していた」と対比しており、ともに直感的に正しい選択ができていた騎手だとしている。そのほか、調教師の境勝太郎は、名騎手の条件を「ペースの緩急を読む能力」としたうえで、「ぼくが必ず名騎手として挙げるのは、福永洋一です。福永は、1000mのレースでも、(ペースが)早いと思えば控える。3000mのレースでも、遅いと思えば行く。それがちゃんとできたジョッキーでした」と評している。また、同期の柴田政人は「騎手の技量」の要点として「最終コーナーまでいかに馬に楽をさせるか、そこからいかに馬を最後まで追い切るか」という二つを挙げ、「洋一はね、この二つが完璧にできたんです。努力もしたんだろうが、いわばもう生まれつきでできたんだわ。かないっこないよね」と述懐している。洋一は、一般にスポーツの類は苦手であったとされ、養成所時代は「運動神経まるでなし」と同期生に笑われていた。一方、岡部幸雄は「それにも関わらず、馬に乗れば人間が変わる。こと競馬に関して言えば、私などが十回やってようやく身に付けられるようなことを、一回やって習得できるような部分は確かにあったのだろう。それが天性の素質というものだ」と語っている。また、武田博は厩舎で初めて馬に跨った洋一の姿勢が、非常に柔軟で自然だった(競馬用語で「鞍はまりが良い」と呼ぶ)という印象を語っている。身体的にはとくに背筋力の強さが知られており、調教師の伊藤雄二は「背骨に鋼が埋め込まれているのではというほどの強靱な背筋力。あれは洋一だけの類い希な安定感だった。軸がしっかりしているから、少々のことでは体勢が崩れない。鞍はまりの良さは古今無双と言えるんじゃないかな」と評している。趣味のひとつだったゴルフでは、小柄ながらボールを遠くまで飛ばす「飛ばし屋」だった。また伊藤正徳は、「一番凄いと思った」部分に「スタミナ、馬を追う技術の持続性」を挙げ、「ほとんど無酸素運動の中で、フォームも乱さず、馬の能力を100%引き出すためには、筋肉のパワー、腱の柔軟性といった身体的な能力が絶対に欠かせない。洋一はそうした身体能力、スタミナが人一倍優れていた」と評している。騎手時代、洋一には「天才」のほかに「歩く競馬四季報」という異名も付されていた。「眠っているときも馬のことを考えていた」と評され、『競馬四季報』や競馬新聞などの資料に囲まれて生活する様子がしばしば紹介された。寸暇を見てはこれらに目を通し、「栗東所属馬の全脚質を頭に叩き込む」と放言していた。友人の松田博資は、「洋一は、それはそれは努力の天才でした。自分の乗る馬、他人の乗る馬のことまで観察し把握し、新聞に書かれた記事のことまで完璧に頭に入れる男でした。学校の勉強とかはそうでもなかったようだけど、こと馬に関しては天性のものプラス努力で、コンピューターのような切れるアタマを持っていました」と評し、また武田博は、こうした「勉強に裏打ちされた記憶力」がその騎乗の秘訣の一端であるとしている。情報収集を欠かさなかったこともあり、通常は癖などが分からないために、やや敬遠される初騎乗馬も嫌うことはなく、素早くその馬の癖を掴み、最適なペースを見出してレースを運んだ。勝利に貪欲にこだわり、円熟期に達して洗練された騎乗を見せるようになって以降も、「僕はどんな勝ち方でもええ。勝つことだけや。ゴール前では、抜きに来た馬の顔をぶっ叩いてでもこちらが勝ちたいというのが本音や」と公言して憚らなかった。ここまで勝利にこだわる理由について、福永自身は周囲の想いや支えがあって競馬をしているのだから、という旨を語っている。杉本清は、「いわゆる優等生タイプでなかったのは確かである。きれいに乗って負けるよりも、強引に乗って勝つことを優先させた荒々しさを持っていた」と評している。こうした姿勢は負けても納得がいくものとして、ファンからは大きな支持を集めた。勝利にこだわる性質は幼少期からのもので、小学生のころ、親しかった海上保安官としばしば弁当を賭けて将棋を指したが、負ければ父と研究を重ね、相手には絶対に「待った」を許さないなど、子供の遊びからは逸脱した徹底ぶりだった。安田伊佐夫は、洋一が騎手として成功した要素のひとつに「性格の良さ」を挙げており、また、柴田政人は師匠や先輩の教えを重んじる姿勢を挙げている。愛嬌のある人柄で、騎手見習い時代には決められた作業をすっぽかすなどということもあったが、そうした場合でも「洋一だから仕方ない」と許容される部分があったという。野村彰彦はその人柄について、「洋一は茶目っ気たっぷりの男でしたが、人間的にも騎手としても立派でしたよ。いつも勝つ男なのに他人への礼儀を忘れたことがなかった」と述懐している。また、洋一についてのドキュメントを執筆した後藤正治は、「福永洋一の思い出を語ってくれた関係者の中で、福永の人格に関わる点での不信や悪口は皆無だった。せいぜい、言い出したら引っ込めない強情なところがあった、という程度のものである。彼が不運な事故から闘病を続けてきた事情に由来するものを割り引いたとしてもなお、ナイスガイだったという像は動かない。それならばこそ、あれだけの騎乗依頼があったのだろう」と感想を述べている。安田伊佐夫、柴田政人は、洋一が何か自分に迷惑を掛けたときにも「洋一の笑顔で怒る気が失せた」という思い出を、異口同音に語っている。この独特の笑顔は「洋一スマイル」と呼ばれていた。調教師の内藤繁春は、「洋一は調教での騎乗が上手くなかった」という思い出を語る中で、「怒っても、ニターと笑うだけだった。恐らくあの笑顔が『敵を作らない』と言われた人徳だろう。彼は笑顔まで一流だったのだ」と評している。__目次強制____静的転送__

出典:wikipedia

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