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梨元勝

梨元 勝(なしもと まさる、1944年12月1日 - 2010年8月21日)は、日本の芸能リポーター、タレント。株式会社オフィス梨元(東京都渋谷区代々木上原)代表取締役社長、函館大学商学部客員教授などを歴任した。東京都中野区で生まれる。5歳から埼玉県与野市(現:さいたま市中央区)に育つ。埼玉県立浦和西高等学校(1年留年する)を経て、法政大学社会学部社会学科卒業。出版社・講談社の契約社員として女性誌『ヤングレディ』の記者を務めた後、芸能リポーターに転身した。大学時代では、大学院入学を考えていた。大学の先輩と飲酒した際にそのことを話すと、「お前は大学入学のお金だけじゃなくて、この上おじいちゃん(当時梨元は祖父と2人暮らしをしていた)のスネをかじり、面倒かけようと言うのか!」と彼に言われ、「そんなことを言うのなら、就職の一つでも紹介するのが先輩というものでしょう!」と切り返したところ、1週間後に彼が『ヤングレディ』記者の仕事を持ってきたというのが就職の経緯である。このような縁で始めた仕事だったが、梨元は芸能リポーターは天職だと話す(先輩にも感謝していると話した)。その後、長年に渡り精力的な活動を見せたが、2010年(平成22年)8月21日午前5時19分、肺癌のため東京都渋谷区の病院で死去。本人が芸能ニュース担当として出演していたKBCラジオ『中村もときの通勤ラジオ』にて長女の眞里奈が語ったところによると、入院時には既に末期状態であったが、本人は肺癌の進行度を表すステージの意味すら知らず、医師からステージIVである旨の説明を受けても「ステージIVの上はあるのか」と家族に聞く状態だったと言う。入院中も前述の番組に出演するなど、亡くなる直前まで仕事をこなしていた。テレビ朝日でリポーター業をスタートし、大きな地位を確立。一時日本テレビに移籍するも再びテレビ朝日に戻り、同局のワイドショーには欠くことのできない存在として活躍。2005年(平成17年)にはTBSに移籍。1990年代以降は、契約するテレビ局にかかわらず、芸能評論家として民放テレビ・ラジオ各局に幅広く出演した。代表的な芸能リポーターとのイメージから、稀に芸能リポーターの役で俳優として出演することもあった。先述の通り、成り行きで記者となったが、最初はスクープの獲れない記者だった(獲れないではなく、スクープを物にする方法が分からず、抜かれてばかりだった)。この状態に佐藤蛾次郎より「なんにもナシモト」とのあだ名を付けられた。テレビ局の多くが梨元の番組での発言に期待していたものの、梨元はテレビ局として扱いたくない内容についても番組内で発言してしまうことがあった。テレビ局側は梨元に扱ってはいけない内容について相談することがあったが、内容と相談によっては梨元から番組出演を断ることがあったという。また、降板した静岡朝日テレビ『とびっきり!しずおか』には、当初は翌週2006年(平成18年)6月16日の放送も出演する予定だった。しかし放送前日の6月15日、同局の担当者から「ジャニーズ事務所に関する話題を取り上げるな」と求められたことに激怒して即時降板を決意。16日からの出演を自ら打ち切った。梨元はこれについて、「視聴者が最も興味あることを局の自主規制で止めようとすることに納得できないので降板を決意した」と述べていた(「ブログで恐縮です!―降板について」)。
これ以前にも『やじうまワイド』、『スーパーモーニング』に出演していた当時SMAPの稲垣吾郎が逮捕されるという事件が起きた際、ジャニーズ事務所との関係を考慮して事件の報道を控えたい番組上層部と特別扱いをすべきでないと主張した梨元が対立し、番組への出演を一時ボイコットしている。2007年(平成19年)新春に出演した朝日ニュースター『TVウワサの真相』では、自主規制により芸能報道についても発表モノばかり取り扱い、数社の芸能事務所をタブー視する地上波各局を激しく批判した。小学校の後輩に萩原健一がおり、梨元の死後のお別れの会で萩原が弔辞を読んだ。前述通り、肺癌で亡くなったが、梨元は生涯、タバコは吸わなかった。マイクを向ける際の「恐縮です!」が決め台詞で、自身のブログのタイトルにも使用していた。元日刊スポーツ記者の小林秀夫によると、梨元がリポーターに転身して2年たったころに、小林が梨元と行った焼肉店で飲み物サービスを受けた際「恐縮でーす」と礼を述べたところ、取材を切り出す台詞に悩んでいた梨元が「小林さん、それいいねー」と応じたことが使い始めたきっかけであるという。2005年(平成17年)3月末で長年出演していたテレビ朝日『スーパーモーニング』を降板した。その後2006年(平成18年)12月9日に同局で放送された『サタデースクランブル』での石原真理子の暴露本出版を巡る是非についての議論で、『スーパーモーニング』の芸能コーナーで共演していた宇都木員夫と共に生出演をしていた。梨元は石原の暴露本について、大手事務所とのしがらみがありながらも「唯一価値のある本である」と評価していた。2005年(平成17年)12月23日放送のTBS『きょう発プラス!』で、矢田亜希子と押尾学の交際(2人は2006年に結婚するも、2009年に押尾の重大不祥事により、離婚に至った)についての話題で、スタジオから2人が宿泊しているハワイ諸島の某ホテルへ国際電話をかけた。この時、フロント経由で電話に出た押尾に対し、「(矢田さんの誕生日の)12月23日にそちらで結婚式を挙げるんですか?」という単刀直入な質問を投げかけ、押尾から「僕たちの邪魔をしないでください!」という怒りを買った。なお、梨元は矢田のことを「女版ダルビッシュ有」とか、「芸能界のノーヒッター矢田亜希子」というあだ名までもつけた。これは、矢田の性格が当時プロ野球・北海道日本ハムファイターズに在籍していたダルビッシュに似た強気な性格であることや、彼が高校時代にノーヒットノーランを達成したように外部のいろいろなものをシャットアウトすることから。芸能人が覚醒剤・麻薬絡みの不祥事で逮捕されると「芸能界は甘すぎる!一度やったら永久追放にしないと駄目だ!」と語気を強めた。芸能人のスキャンダルに対しては厳しい姿勢を見せたが、ゴージャス松野は「一番自分の言い分を聞いてくれたのは梨元だ」と著書に記している。船を所有する程海が好きで、2011年8月7日に妻・玲子と長女・麻里奈が東京湾の船上から海に散骨した。同業者である前田忠明の取材手法や番組でのコメント内容について、パクリ・偉ぶり・知ったかぶりであると強く批判していた。特に梨元が定期出演した文化放送『吉田照美のやる気MANMAN!』では、芸能情報を伝える前に必ず前田をこき下ろすようなコントを行っていた。またテレビでは日本テレビ『壮絶バトル!花の芸能界』で度々前田に対する批判を行っていたが、晩年はTBS『サンデージャポン』出演時に必ず前田批判を行うことが定番化していた。前田からはこれらに対して反論は一切なされなかった。また、前田が専属契約を結んでいるフジテレビのワイドショーに出演することがなかった(ただし、同局のバラエティ番組には出演したことがある)。2007年(平成19年)3月1日放送の『吉田照美のやる気MANMAN!』では「最近は現場で前田と出くわすと、何故か話し込むことが多くなっている」とも語っていた。しかし実際には非常に仲が良く、「不仲」は営業上の演出であったことが、梨元の死後に前田によって明らかにされた。それによると「20年位前に『仲が悪いようにしていた方が面白いんじゃない』と彼(梨元)が言い出してね。実際には一緒に酒を飲んだ時に心臓の薬を見せ合ったりして、仲は良かったんだよ」と真相を語り、さらに「同時代を戦ってきた戦友だ。まだ彼の死を認められないところがある…」と梨元の死について悔しさを滲ませた。同じく、同業者の井上公造を(芸能)事務所の回し者、城下尊之を(テレビ番組などでの)コメントを放送作家に書かせていると批判していた(2007年12月27日放送の『トヨタ うわさの調査隊』より)。井上はサンケイスポーツの芸能記者だった時に梨元が芸能リポーターにスカウトし、かつては梨元の事務所に所属していた。宇都木員夫とは「恐縮丸」という名のクルーザーを共同所有していた。日本テレビ『卍くりぃむVS芸能人卍卍爆笑どっきり作戦卍』にて、実の娘に「ロバートの馬場裕之と結婚する」というドッキリを仕掛けられたことがあった。テレビ朝日『ウッチャンナンチャンの炎のチャレンジャー』で有名人当て100人のクイズに挑戦したが、途中で不正解になり脱落した。「長年芸能リポーターやっているんですけど」と言い残していた。2000年10月より、函館大学の客員教授に就任。芸能社会学の講座を担当した。就任には同大学の専任教授が難色を示したために、招聘した当時の学長の河村博旨が時間をかけて関係者を説得する必要があり、実現には5年間を要した。河村によると詳細な講義ノートを作成して授業に臨んでおり、高く評価された。※は電話出演

出典:wikipedia

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