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ビラ・スタンモーア夜戦

ビラ・スタンモーア夜戦(ビラ・スタンモーアやせん、)は太平洋戦争中の1943年3月5日にソロモン諸島で生起した海戦。ケ号作戦(ガダルカナル撤退)後、日本軍の新たな拠点となったコロンバンガラ島への輸送に従事していた駆逐艦2隻と、コロンバンガラ島への艦砲射撃を企図したアメリカ海軍の巡洋艦部隊が交戦し、日本側の駆逐艦2隻が一方的な攻撃を受けて沈没した。「ビラ・スタンモーア夜戦」の海戦名はアメリカ側による呼称で、日本側では一方的な敗戦であるためか海戦名は付されていないとする。ウィキペディア英文版での呼称は「ブラケット水道海戦」( )となっている。とはコロンバンガラ島と南隣のの間にある水路の名称であるが、戦闘自体はブラケット水道の東口、クラ湾に接した海域で行われた。また、戦史研究家サミュエル・モリソンは自身の編集による戦史(通称「モリソン戦史」)で「この戦闘は時々クラ湾の第一合戦と呼ばれるが、公式の名称は附與されていない」と記している。ガダルカナル島の戦いも終末期に差し掛かった1942年11月末、アメリカ軍はニュージョージア島のムンダに日本軍が新たな飛行場を建設中であることを知る。ムンダとガダルカナル島の距離は175マイル(約280 km)で、ガダルカナル島再奪回やアメリカ軍の進撃を妨害するには好適地であった。零戦のガダルカナル島上空での行動時間は大幅に伸び、爆撃機も従来以上の量の爆弾を搭載してガダルカナル島を爆撃する事も可能となる。実際には、日本軍がムンダでの飛行場建設に乗り出したのは12月1日からで、第一期工事は二週間ほどで終了した。また、コロンバンガラ島でも1943年1月上旬から飛行場建設を開始する予定だった。当然、アメリカ軍からしてみればムンダの基地が本格稼動し、コロンバンガラ島の飛行場も使用可能となった暁には相当な脅威となる厄介な存在と判断されていた。そこで、1943年に入るや否や、アメリカ軍南太平洋部隊司令官ウィリアム・ハルゼー大将は水上部隊にムンダとコロンバンガラ島への艦砲射撃を繰り返し行わせ、同時に爆撃や航空機による機雷投下も行った。すなわち、1月4日にはムンダへの砲撃が、1月23日にはコロンバンガラ島への砲撃がそれぞれ行われて十分な打撃を与えた。とはいえ、圧倒的な力をかけるにはアメリカ軍の戦力は十分とは言えず、日本軍は新たな橋頭堡を強固なものにすべく中部ソロモン諸島行きの「東京急行」を次々と送り込んでいた。3月4日16時、第四水雷戦隊(高間完少将)指揮下の駆逐艦「村雨」と「峯雲」が補給物資として米入りのドラム缶や弾薬などを積載してラバウルから出撃しコロンバンガラ島へと向かった。「村雨」と「峯雲」は前日3月3日、ラエに第五十一師団を送り込む第八十一号作戦の陽動としてコロンバンガラ島方面を行動しており、ビスマルク海海戦で第五十一師団を乗せた輸送船団が壊滅した悲報を聞いてラバウルに引き返したが、ラバウル入港直前に「村雨」が座礁事故を起こし、離礁してラバウルに帰投したのは3月4日の夜明け前のことだった。また、「村雨」と「峯雲」は、この輸送作戦が終われば、ブインからラバウルへ航空部隊基地員140名と物資を輸送する任務も与えられていた。一方、アメリカ軍もコロンバンガラ島砲撃のためこの日艦隊を出撃させていた。当時、ムンダおよびコロンバンガラ島を砲撃するアメリカ艦隊には二つの任務部隊があった。一つはヴォールデン・L・エインスワース少将の第67任務部隊(旗艦「ホノルル」)、もう一つがアーロン・S・メリル少将の第68任務部隊(旗艦「モントピリア」)であった。この二つの任務部隊は交替で夜間にムンダとコロンバンガラ島へ接近し、艦砲射撃の後即座に退却して基地に帰投するというパターンを繰り返した。また、ガダルカナル島をめぐる海戦に登場した臨時編成の任務部隊とは違い、夜戦を得意としていた日本艦隊によりよく対抗できるよう、レーダーに関する知識を学び、常にまとまって訓練と行動を繰り返した結果、均整が取れた部隊となっていた。ハルゼー大将は過大報告された前回の砲撃結果に基づき、再度の攻撃のためメリルを出撃させた。メリル少将の第68任務部隊はエスピリトゥサントを出撃し、「ザ・スロット」と呼ばれたニュージョージア海峡をひたすら北上する。このニュージョージア海峡突入時から「ブラックキャット」の異名を持つ夜間哨戒仕様のPBY「カタリナ」3機が第68任務部隊の前路警戒配備に就いた。なお、第68任務部隊の軽巡洋艦群のうち、「コロンビア」 ("USS Columbia, CL-56") は修理を行う必要があったため作戦から除外された。「村雨」と「峯雲」は3月5日8時30分にブイン沖に到着して一息つく。「村雨」では、第二駆逐隊司令橘正雄大佐、駆逐艦長種子島洋二少佐ら艦の幹部が第一根拠地隊司令部を訪問したり、「村雨」に乗り組んだ海軍兵学校71期の候補生がショートランドの水路見学に出かけたりした。また、「村雨」はここでさらに米を積むよう命じられていたが、米は艦底に積んでいてすぐには出せず、乾麺麭を100箱積むこととなった。16時、「村雨」と「峯雲」はブイン沖を出撃し、コロンバンガラ島へ向かった。「村雨」と「峯雲」は、ベララベラ島東方からベラ湾とブラケット水道を通過し、予定より30分遅れの21時30分にデビル島泊地に到着。直ちに6隻から7隻ほどの大発が陸上から出てきて揚陸作業を行う。大発群を指揮した第八連合特別陸戦隊の副官は、食糧や弾薬を大発に直接積み込んでほしいと要望したが、出港時間を遅らせれば空襲を受けやすくなることもあり、常套手段だったドラム缶を海中に放り込んで陸上側がこれを回収する方法で物資を揚陸させた。1時間後には全ての作業が終了し。「村雨」と「峯雲」は速力12ノットでコロンバンガラ島の東岸沿いを北上してブインへの帰途に就く。この出港の際、「村雨」と「峯雲」の艦首が潮と風の流れで西側に向いていたので、そのまま往路と同じコースを引き返す事も考えられたが、ニュージョージア海峡に出たら、ブイン、ショートランドまでは一直線であるという事もあって、東向きに回頭した上でコロンバンガラ島の東岸沿いを北上するルートが採られたのである。「峯雲」は一旦北向きに後進してから東向きに回頭し、「村雨」の後に続いた。しかし、「村雨」と「峯雲」の動きはすでにガダルカナル島の通信隊によって20時30分頃に探知ののち通報されており、また、「ブラックキャット」機のうちの1機が泊地に進入する「村雨」と「峯雲」を探知していた。第68任務部隊は22時過ぎにクラ湾に入り、戦闘配置を令して単縦陣、速力20ノットの態勢で南西方向に進む。22時57分、「ウォーラー」のレーダーは「ブラックキャット」機が探知したものと思しき目標を探知し、やがて「島が動いている」とのレーダー員の報告により、目標が2つあることが分かった。「ウォーラー」は23時1分に魚雷を発射。これに続いて巡洋艦群もレーダー射撃を開始した。「モントピリア」の元乗員ジェームズ・J・フェーイーは、「モントピリア」が最初に砲撃を開始し、最初に6インチ砲弾を命中させたと主張する。フェーイーはまた、第68任務部隊の砲撃の様子は「船という船がぶっ放す7月4日の独立記念日みたいだった」と回想している。第68任務部隊が戦闘を開始した23時、針路0度で21ノットの速力で北上を続けていた「村雨」が後続の「峯雲」の姿を確認して間もなく、ニュージョージア島の方向に閃光を目撃する。その閃光について「村雨」の種子島駆逐艦長は「いなびかりだろう」と言ったが、橘司令は「いや、味方の陸上砲台が射ったのかも知れない」と言う。「村雨」砲術長の鹿山誉大尉が「当りもしないのに陸上砲台が射つとは」と思った次の瞬間、再び閃光が走り、前後して左舷後方200メートルぐらいのところに水柱が立ち、「村雨」の船体が振動した。「峯雲」は水柱にさえぎられて姿が見えず、色めきだった「村雨」は戦闘配置を令して「対空戦闘」に備えた。「対空戦闘」は鹿山砲術長の判断によるものだったが、これを聞いた方位盤射手が「砲術長、水上艦艇ではないでしょうか」と進言し、間もなく発砲する第68任務部隊の姿を認めて水上砲戦に切り替えられた。「村雨」は右砲戦で応戦するも、被弾により方位盤と電気系統を損傷して二番煙突からは火が吹く有様であった。一方的な被弾は続き、方位盤は崩れて一番砲塔も弾薬庫の誘爆により大火災となって、「村雨」は機銃のみで応戦している状態だった。さらに魚雷の雷跡が「村雨」に向かっていったが、魚雷は「村雨」の艦底を通過してコロンバンガラ島の方向に去っていった。二番煙突の火災による魚雷の誘爆を防ぐべく魚雷の投棄が試みられるも成功せず、二番砲を人力操作で第68任務部隊の方向に向けようとしたが、「村雨」は右側に大きく傾斜して沈没が避けられない状態となった。火勢も大きくなり、乗組員は順次退艦するよう促される。橘司令、種子島駆逐艦長も海中に飛び込み、「村雨」は左舷側を上にして、海中に飛び込んだ乗組員からの「村雨万歳」の声とともに沈没した。第四水雷戦隊の記録では、「村雨」は「二三二五航行不能ニ陥リ二三三〇沈没セリ」とある。「峯雲」の状況はあまり定かではない。「村雨」が戦闘配置を令したころには「轟沈したのか水柱と黒煙に包まれている」状態であり、一番砲の火災を確認した時には「もう何処にも見当たらなかった」という状態であった。生還した「峯雲」砲術長徳納浩大尉の回想では、「峯雲」もまた「村雨」と同様に「対空戦闘」だと判断しており、「砲戦の号令をかけるのがやっと」の状態で一方的に撃たれ、第68任務部隊の「第一斉射から三分以内に沈み始めた」とする。徳納砲術長を初めとする「峯雲」の生存乗組員は海中から、発砲する「村雨」の姿を前方に見て「なんとかやってくれるだろう」と思っていた。第四水雷戦隊の記録は「峯雲交戦直後大火災二三一五沈没」と伝えている。第68任務部隊は「村雨」と「峯雲」を打ちのめし、その5分後には陸上砲撃の態勢を整えてコロンバンガラ島への艦砲射撃を開始する。海岸部の軍事施設と兵舎、滑走路を目標に16分間に及ぶ艦砲射撃を実施。その間、日本軍に沿岸砲台から反撃があったものの第68任務部隊を確認する事ができず、逆にその一つが砲撃により破壊された。上空の「ブラックキャット」機の弾着観測および艦からの観測により、目標は徹底的に破壊され、資材が炎上しているのが確認された。砲撃を終えてクラ湾を出ようとする時に再び砲撃を受けたが、損害は全くなかった。また、別のアメリカ駆逐艦3隻が第68任務部隊に呼応してムンダの飛行場に対する艦砲射撃を行った。フェーイー曰く、「ハドソン川をさかのぼってニューヨークの町とその船を砲撃して、そして反転して海に向かうような」作戦を終えた第68任務部隊は、3月9日夕刻にエスピリトゥサントに帰投した。フェーイーはまた、この海戦について次のようにも記している。メリル少将は「村雨」と「峯雲」を軽巡洋艦であると判断しており、ハルゼー大将への緊急報告でも「軽巡二隻撃沈」と記したが、その文言に続いて「今年は獲物制限の要なかるべし、陸上砲撃成功」という文言が付されていた。「軽巡二隻撃沈」と「陸上砲撃成功」はさて置いて、真ん中の「今年は獲物制限の要なかるべし」については、その意味は定かではない。3月6日未明、特設水上機母艦「神川丸」(川崎汽船、6,853トン)の水上偵察機が第68任務部隊の捜索のためクラ湾方面を飛行中、クラ湾に直径300メートルほどの油紋2つを確認し、午前には零式水上観測機2機が同じ地域を飛行して、コロンバンガラ島南端の60度7海里の地点から北の方向に幅約1,000メートル、長さ10海里にも及ぶ油帯を発見した。その頃、生存の「村雨」と「峯雲」の乗組員は泳いだり、浮遊物につかまりながらコロンバンガラ島を目指した。「赤い屋根の家」にたどり着いた乗組員は、前日夜に物資等を揚陸した地点からやってきた大発に収容され、大発はコロンバンガラ島の北端まで捜索した。また、「村雨」のカッターが、「村雨」の生存者を上陸させた後海上に引き返し、「峯雲」の徳納砲術長らを収容してコロンバンガラ島に上陸させた。3月6日の時点では橘司令、種子島駆逐艦長など高級将校の安否が不明だったため、その時点では生存者の中で最先任だった「村雨」の鹿山砲術長が第八連合特別陸戦隊に顛末を報告することになっていたが、橘司令と種子島駆逐艦長は3月7日になって相次いで救助された。その一方で、コロンバンガラ島にたどり着いた者の中には、やけどに耐えかねて海水を飲んで絶命した負傷者もいた。最後の生存者は3月8日に収容された。「村雨」は橘司令、種子島駆逐艦長以下134名が救助されたが、3月12日までに2名が戦病死し、3月12日の再確認では132名生存、戦死51名、行方不明52名と記録された。「峯雲」は徳納砲術長ら45名が救助されたのみで、駆逐艦長上杉義男中佐以下残りの乗組員210名は戦死した。生存者はコロンバンガラ島輸送に来た駆逐艦「浦波」、「敷波」に分乗し、警戒担当の「雪風」や水上偵察機の掩護を得て3月9日未明にブイン沖に到着。橘司令と種子島駆逐艦長は「雪風」に移って先にラバウルに帰還し、残る生存者も午後にはブインを発って3月10日朝にラバウルに到着した。ラバウルに帰還後、直ちに第八艦隊主宰による研究会が開かれた。研究会には第八艦隊司令長官三川軍一中将、同艦隊参謀神重徳大佐、南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将ら幕僚の面々が列席していたが、「会場内の雰囲気は研究会を通り越して査問会だった」。橘司令らが戦闘経過を報告したが、艦隊幕僚らは第一次ソロモン海戦、ルンガ沖夜戦などの勝ち戦を引き合いに出し、「夜戦には絶対負けない駆逐艦が、得意とする夜戦でやられるとは何事ぞ」と罵倒したり、レーダー射撃に理解を示そうとはしなかった。やがて、橘司令は「五月雨」を新しい司令駆逐艦として「五月雨」に移っていき、他の「村雨」と「峯雲」の生存者も順次ラバウルを後にして新任務に就いたり、日本本土へと帰還していった。ビラ・スタンモーア夜戦ののちも、ムンダおよびコロンバンガラ島への「東京急行」が遅れる事は当面なかった。海戦後に水上偵察機による哨戒が強化され、水上偵察機の援護の下、少なくとも4月までの「東京急行」は概ね成功していた。それでも、アメリカ軍がソロモン諸島を北上してくるのは火を見るより明らかであり、現状では戦線維持もおぼつかないと判断した連合艦隊司令長官山本五十六大将は、第三艦隊の航空兵力と既存の基地航空兵力を集中的に投入してアメリカ軍に打撃を与え続け、戦線維持を図る事を決心した(い号作戦)。また、ビラ・スタンモーア夜戦に勝利し多少進歩したとはいえ、アメリカ艦隊が日本艦隊に、特に夜戦分野で対抗するにはもう少し努力が必要であると考えられた。また、レーダー射撃の重要性も再認識させられたが、「装置はなお原始的だった」とモリソンは言う。海戦後も、メリル少将とエインスワース少将の任務部隊はコロンバンガラ島周辺海域で交替して戦闘を続けた。不思議な事に、メリル少将が日本艦隊と再び戦うのは11月2日のブーゲンビル島沖海戦までなく、コロンバンガラ島周辺海域で日本艦隊と戦ったのはエインスワース少将であった。しかし、エインスワース少将はクラ湾夜戦(7月5日、6日)とコロンバンガラ島沖海戦(7月12日)で日本艦隊に打撃を与えつつも自らも大きな損害を出し、戦法面で進歩の様子があまり見られなかった。夜戦分野において、ようやく日本海軍を上回る戦法が確立できたと判断されるには、「31ノット・バーク」ことアーレイ・バーク中佐の登場と、バーク中佐の理論を実践したベラ湾夜戦(8月6日)での完勝劇を待たなければならなかった。「村雨」と「峯雲」の一方的な喪失は、次のような憶測を生み出した。当時、アメリカ潜水艦「グランパス」 ("USS Grampus, SS-207") は2月11日にブリスベンを出撃して以降、僚艦「グレイバック」 ("USS Grayback, SS-208") とともにソロモン諸島方面で行動していたが、ついに哨戒から帰らなかった。海戦のあった3月5日夜、「グレイバック」はベラ湾近海で「グランパス」と思しき潜水艦を発見する。それから間もなくして、「グレイバック」に「ギゾ海峡の方向に高速で航行する2隻の駆逐艦を迎え撃て」との指令が入る。その3時間後、「グレイバック」はコロンバンガラ島の南端越しに発砲炎や閃光を見る。その発砲炎や閃光の正体は分からなかったが、「グランパス」に関わっているものだと判断してベラ湾での哨戒を続けた。やがて「グレイバック」は、3月6日夜に哨区の移動を命じられてベラ湾を去った。「2隻の駆逐艦」を「村雨」と「峯雲」、「発砲炎や閃光」を夜戦によるものとするならば、「グレイバック」はビラ・スタンモーア夜戦の一部始終をコロンバンガラ島越しに観察していたことになる。話はここから飛躍する。要約すれば、「「村雨」と「峯雲」は「グランパス」に出くわして撃沈したが、直後に第68任務部隊に攻撃されて沈没した」という論法となった。「グランパス」の喪失認定に関する1943年3月29日付文書では、「3月5日から6日にかけての夜に、2隻の日本の駆逐艦がブラケット水道で「グランパス」を撃沈し、翌日大きな油膜が確認された」とあり、またフェーイーは日記の中で、「二隻の日本の軍艦が味方の潜水艦を沈めて港に戻ってきたことを、このとき、僕たちは知らなかった」と記しており、海戦直後からこの手の話が伝えられていたと考えられる。これに加え、「グレイバック」が爆雷攻撃のような音を聴取していない事から、「沈めたとすれば水上で浮上状態を砲撃された」という尾ひれまでついた。しかし、「村雨」が3月5日16時にブイン沖を出撃して21時30分にデビル島泊地に到着し、揚陸作業を終えて22時30分に出港してコロンバンガラ島東岸を北上、23時過ぎに第68任務部隊の攻撃を受けて沈没するまで、戦闘行為を行ったのは前述のように第68任務部隊に対して反撃を行った時のみであった。「グランパス」喪失認定に関する文書での「大きな油膜」も、おそらくは「神川丸」機などが3月6日未明から午前にかけて確認した油紋や油帯を指す。このことから、第九五八海軍航空隊の2機の零式水上偵察機が2月19日15時40分にグランパスの哨戒海域であったの地点で潜水艦を爆撃し、直撃弾1発を与えて沈没を報告していることを引き合いに出して、この2月19日の攻撃こそが「グランパス」の最期であるという説も提示されている。しかしながら、各種記述とも「グランパス」の喪失原因に結びつけて断定できるほどの材料がそろっていないのも事実であり、「グランパス」の喪失は現時点では謎とせざるを得ない。

出典:wikipedia

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