奥中 惇夫(おくなか あつお、1930年9月28日 - 2012年2月17日)は、奈良県奈良市出身の映画監督。寺森満名義で脚本家としても活動。東京大学文学部美学美術史学科卒業。1953年に新東宝に助監督として入社。渡辺邦男に師事した後、1961年東映東京撮影所の助監督契約をする。1963年に東映テレビプロに移籍。1964年の『鉄道公安36号』で監督デビュー。『特別機動捜査隊』などを演出したのち、1967年よりフリーとなる。1969年、自ら希望して『柔道一直線』に途中参加、最終的に40話分を監督した。その後もキャラクター作品を中心に活躍した。1990年代以降は主に教育用ビデオを手がけた。1986年、新東宝の助監督仲間だった青野暉の紹介で二院クラブに参加した。1987年から1995年東映撮影所ゆかりの練馬区中央美術学園講師を務めた。2012年2月17日に心不全で死去。81歳没。俳優の中庸助は旧制中学時代の同級生である。東映プロデューサーの平山亨は大学時代の同級生であったが、在学時は面識はなく奥中が東映作品に参加してから知り合った。旧制中学3年生の時に柔道部主将を務めていた。映画・テレビドラマ監督として富田常雄原作作品を多く手掛けているが、この頃にも富田の小説『姿三四郎』を愛読して技の真似をしていたという。『柔道一直線』は作品を観てスタッフが柔道のことを知らないと感じ、自ら志願して参加した。『仮面ライダー』へは、当初『柔道一直線』からの流れでそのまま参加する予定であったが、平山亨からの要請でテレビドラマ『太陽の恋人』を担当することとなった。その後も『刑事くん』や『熱血猿飛佐助』を歴任したため、『仮面ライダー』への参加は終盤になってからであった。『熱血猿飛佐助』では視聴率の悪さからクビになったと言い、東映生田スタジオ所長の内田有作に声をかけられ参加に至った。『仮面ライダーV3』『ロボット刑事』を担当した後は、自身の守備範囲を広げるため東映作品を一時離れた。その後は時代劇・青春もの・昼メロと多岐に渡り活動したが、ピー・プロダクションの特撮テレビ番組『電人ザボーガー』を担当していた時に東映の渡邊亮徳から「他社で似たようなものを撮っているなら、うち(東映)でやったらいい」と言われ、『がんばれ!!ロボコン』で東映作品に復帰した。『ザボーガー』第1話では、30分番組でありながら1時間分のフィルムを使用した。完成作品はこれを短縮したためテンポ感の良いものとなったが、中野刑事役兼殺陣師のきくち英一(菊池英一)は予算面で問題になっただろうと推測している。殺陣師のきくちが技の説明で見せ方についても言及したところ、奥中は「監督は俺だ」と一喝したこともあったという。ほか
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。