ピレリ("Pirelli & C." )はイタリア ミラノに本社を置くタイヤ、フィルターなどを製造する企業。タイヤ業界でコンチネンタルに次いで世界5位。過去には電線、通信用ケーブルも製造していた。特殊フィルターピレリは1950年にF1世界選手権が開催された当初から参入したタイヤサプライヤーの1つでもある。アルファロメオ、マセラティ、フェラーリなどイタリアチームに対してタイヤを供給した。当初はインディ500以外のほぼ全てのレースでピレリタイヤ勢がレースを専権した。(※:当時のF1ではチャンピオンシップとしてはインディ500も含まれていた。)、しかし当時のトップドライバーであったファン・マヌエル・ファンジオが1954年のフランスグランプリよりメルセデス・ベンツに移籍すると、メルセデスが使用していたコンチネンタルが専権するようになる。ファンジオは1956年にフェラーリに移籍し、ピレリタイヤによる勝利も元のように大半を占めるようになるが、1958年からフェラーリにベルギーのタイヤメーカーであるエンゲルベールが独占供給。さらにイギリスの有力チームヴァンウォールもピレリからダンロップへタイヤ供給を変更した。また、他の有力チームであるクーパーもコンチネンタルやダンロップのタイヤを使用するに至ったため、1勝もすることができなかった。ピレリの第1期活動はこの年で終了する。1981年より、実に23年ぶりのタイヤ供給となった。当初はアロウズ、フィッティパルディ、トールマンに対して行ったが、年間を通して入賞をしたのはアロウズのみという厳しい復活初年度を迎えた(PP1回、表彰台2回、10pts。但し、アロウズはミシュランとタイヤをシェアしており、完全な独占供給チームはトールマンだけだった)。1982年はマーチ(※:エイヴォンとシェア)、オゼッラもピレリタイヤを使用した。総獲得ポイントは9pts。なお、この年限りでフィッティパルディは撤退、アロウズはグッドイヤーを選択する。そのため、1983年からはロータス、RAMへ供給先を広げ、ピレリ勢の総獲得ポイントは23pts。うち、ロータスがPP1回、表彰台1回を獲得した。1984年はロータスがタイヤサプライヤーをグッドイヤーに変更したため、新たにスピリット、ATSへも供給した。トールマンとオゼッラがポイントを獲得するが、トールマンはシーズンの途中でタイヤサプライヤーをミシュランに変更。ATSのゲルハルト・ベルガーもイタリアGPで6位入賞を果たすも、開幕時点でATSは1台エントリーとなっていたため、2台目のマシンとして走らせていたベルガーの入賞はカウントされなかった。3回の表彰台と18pts。1985年からはミシュランが撤退。グッドイヤーとの直接タイヤ戦争となった。同時にピレリ飛躍の年として期待もされた。ブラバム、リジェ、ミナルディが新たに供給先として決定した。ミシュランを失ったトールマンも第4戦モナコグランプリから撤退したスピリット分のタイヤを購入するという形で再びピレリを使用。第7戦フランスGPでブラバムのネルソン・ピケが優勝を果たし、1957年イタリアGPにおけるヴァンウォールのスターリング・モスが勝利した以来、実に28年ぶりのピレリタイヤ勢の勝利でもあった。PP2回、優勝1回、表彰台6回、49pts。1986年、トールマンがベネトンに買収されたことにより、ピレリによるタイヤ供給が正式に再開された。この年は参戦初年度になるベネトン旋風を巻き起こし、テオ・ファビは2回のPPを獲得。ゲルハルト・ベルガーはメキシコGPでタイヤ無交換作戦という奇策に出てこれを見事に決め、優勝した。この勝利が第2期ピレリ最後の勝利であった。1986年のピレリ勢の総獲得点50pts。上位チームへの供給がない中での健闘は見せたものの、上位チームへの供給を独占していたグッドイヤー勢に対する敗北は否めなかったのも事実であり、この年限りでピレリは再びF1へのタイヤ供給を休止した。一時休止から2年間のブランクをあけて再びグッドイヤー勢とのタイヤ戦争を開始した。グッドイヤーに比べタイヤ供給料を安くする戦略をとり、これによりチーム運営資金が決して潤沢ではない新参チームや、スポンサー獲得が上手くいかないチームへ供給をした。スクーデリア・イタリア、ブラバムが各1回ずつ表彰台を獲得し、ミナルディも6pts獲得する活躍を見せた。その他ユーロブルン、ザクスピード、オゼッラ、コローニに供給するも、これらは上位に食い込めるほどの戦闘力がなかった。1990年は新たにティレルへの供給が開始された。開幕戦アメリカGPではジャン・アレジがスタートでトップに立ち、34周目までラップリーダーを守る大活躍を見せ、2位表彰台を獲得、モナコGPでも同様に2位獲得を果たした。コースや温度環境によって、ライバルのグッドイヤーよりも高いパフォーマンスを発揮したこともあり、特にストリートコースでの性能は非常に高かった。又、ティレルではチームメイトの中嶋悟も6位を3度獲得した。1991年はブラバム、スクーデリア・イタリア、ティレルに加え、5年ぶりにベネトンへも供給した。レースに関しても前年同様にストリートコースの特性があり、開幕戦アメリカGPではベネトンのネルソン・ピケが3位、ティレルのステファノ・モデナ、中嶋悟が4位、5位とまずまず好調なスタートを切った。しかし、路面高温時の性能に難があり「夏バテタイヤ」と揶揄されたほどであり、比較的気候が涼しい地区では良いパフォーマンスを示したものの、気温の高いコースではパフォーマンスに難があったことは否めなかった。最後の勝利は1991年カナダグランプリのピケであり、ウィリアムズのナイジェル・マンセルがファイナルラップで突然のストップによって得た勝利ではあったものの、それまで2位を走行していたことからも、さらには同じピレリタイヤを使用していたティレルのステファノ・モデナが同コースで2位に入り、ピレリ勢が1-2フィニッシュを飾った。気候の涼しいカナダ即ち、路面温度が低い状況での活躍は当時のピレリタイヤの極端な特性について語られるエピソードの一つともいえる。又、当時予選用(Q)タイヤを使用後、表面をヤスリのような工具で削り「皮むき作業」を施して再使用していた事もあった。ピレリは1991年を以って、そしてタイヤ供給した参戦数200戦目にしてF1から撤退した。2010年4月30日、ピレリがFIAに対して正式にタイヤ供給を申し出たことを発表。6月23日、世界モータースポーツ評議会が開催され、FIAにより2011年からピレリがF1にタイヤを供給することを決定したと正式に発表した。なお、契約期間は3年であり、実に20年ぶりにF1のひのき舞台に返り咲いたことになる。また、F1と同規格のタイヤをGP2にも供給することを発表。双方からのタイヤデータをフィードバックし、よりレースにエンターテイメント性を高める事を狙いとするなどレースを白熱化させるコンセプトを明示していた。ピレリは本格復帰に先立ちニック・ハイドフェルドとテストドライバー契約を結び、2010年8月17日よりトヨタのTF109を使ったタイヤテストを開始した。しかし、ハイドフェルドが急遽ザウバーの正ドライバーになることが決定、ピレリはタイヤテストの後任を迎える必要があったため、9月16日にF1でドライブ経験のあるロマン・グロージャンを後任にする事を発表。さらに、9月23日にはペドロ・デ・ラ・ロサをタイヤテストに起用することを発表した。タイヤは前述のピレリが明示していたコンセプト通り、高いエンターテイメント性を図るために「あえて磨耗性(デグラデーション)の大きいタイヤ」を開発した。各ドライバーはそれまでのタイヤサプライヤーであったブリヂストンと比較して非常にデリケートなタイヤであると述べた。この「あえて磨耗性の大きいタイヤ」の開発は、通常の自動車競技の性質と意義(技術躍進)とは逆行したものであり、本来は自動車競技の技術提供となると自社のイメージアップへと繋げるために自社製品の性能の高さを見せることによって、技術力の宣伝的な意味合いとなるのが通常である。したがって、あえて逆行させたピレリの技術提供は同社のイメージを大きく損ねる可能性もあったが、それを理解した上で買って出たピレリの英断をバーニー・エクレストンは高く評価をしている。より、従来の6種類(スーパーソフト・ソフト・ミディアム・ハード・インターミディエイト・ウエット)に加え、新たにより柔らかいドライタイヤ「ウルトラソフト」が追加された。サイドカラーは紫色で、市街地レースに使用すると発表されている。また、1イベントにつきタイヤメーカーが供給するドライタイヤのコンパウンドが2種類から3種類に増加した。6月17日、F1タイヤサプライヤー契約を2019年まで延長することを正式発表した。視覚的エンターテイメントとして、ピレリは7種類のタイヤが全て観戦者や視聴者に識別できるように色分けを施している。
出典:wikipedia
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