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新潟少女監禁事件

新潟少女監禁事件(にいがたしょうじょかんきんじけん)とは、1990年11月13日に新潟県三条市の路上で誘拐された当時9歳の少女が、2000年1月28日に同県柏崎市の加害者宅で発見されたことにより発覚した誘拐監禁事件。監禁期間が約9年2カ月という長期に渡っていたことや、事件に関わる新潟県警の捜査不備や不祥事が次々と発覚したことなどから社会的注目を集めた。裁判は犯人の量刑に重大な影響を及ぼす併合罪の解釈を巡り最高裁まで争われ、2003年7月に懲役14年の刑が確定している。また、犯人が長期の引きこもり状態にあったことから、同様の状態にあった男が数カ月後に起こした西鉄バスジャック事件と共に、引きこもり問題の社会的認知度を大きく高めた事件ともなった。犯人の男は、本事件を起こす1年5カ月前の1989年(平成元年)6月13日に、柏崎市内で本件とは別の9歳少女に対する強制わいせつ未遂で現行犯逮捕され、同年9月19日に懲役1年・執行猶予3年の有罪判決を受けていた。そして執行猶予中の1990年(平成2年)11月13日午後5時頃、新潟県三条市内において当時9歳であった本件被害少女の誘拐に及んだ。男は当時28歳であった。男は乗用車で単身移動中、市内の農道において下校途中の少女を発見し、「女の子が可愛かったし、側に誰もいなかったので」誘拐を決意。いったん少女を追い抜いてから目前で停車し、護身用に持ち歩いていた刃渡り約14cmのナイフ(サバイバルナイフ)を手に少女へ接近、正面から胸付近にナイフを突きつけて「おとなしくしろ。声を出すな」と脅迫し、拉致して身動きできない少女の背後に回って車の後部に連行した。そして車のトランクを開け「入れ」と指示したが少女が入ろうとしなかったため、身体を抱え上げて(男は「手を引いて」だと主張した)押し込め、トランクを閉めたのち車を発進させた。男は自宅で少女と一緒に生活しようと考え、自宅のある柏崎市方面へ向かったが、少女が暴れたり自宅周囲の様子を見たりすることを恐れ、いったん停車し、車内清掃のため後部座席に常備していた粘着テープを使用して少女の両手首、両膝を緊縛。さらに目隠しを施したのち改めて自宅へ向かった。少女の供述によると、このときトランクを開けた男に対し、少女が「三条市の家に帰れるの。お父さん、お母さんの家に帰れるの」と尋ねると、男は「だめだな。これからおれと一緒に暮らすんだ」と応えた。自宅に到着した男は、日頃二人暮らしをしている母親に少女を見られないよう、母屋の正面玄関ではなく家の増築部分(後述)の玄関前に停車、少女を抱えて自室のある2階に上がり少女を自室南側の窓枠に置いたのち、改めて正面玄関前に車を回して普通に帰宅したように装いながら自室に赴き、窓枠に置いてあった少女を自室に入れ、目隠しを外した。そして少女に対し「この部屋からは出られないぞ。ずっとここで暮らすんだ。約束を守らなかったらお前なんか要らなくなる。山に埋めてやる。海に浮かべる」などと脅迫的な言葉を浴びせ、以後継続的な監禁を開始した。少女が誘拐されたのち、当日13日の19時45分頃に少女の母親が「娘が帰ってこないので捜してください」と駐在所に捜索願を出した。これを受け、新潟県警察三条署と学校関係者100人以上、翌14日には200人以上が少女の捜索に当たったが手掛かりさえ見つけることができず、15日から三条署内に県警機動隊、機動捜査隊など107名で構成された「女子小学生不明事案対策本部」が設置された。以後、捜索範囲は周辺市町村へも拡大され、ヘリコプターによる空からの捜索や、空き家やコンテナボックスの内部なども捜索され、夜間検問も実施された。新潟県警では少女の特徴を記した手配書を2万枚作成して県内全域に配布し、さらに24日に別の手配書1000枚を新たに配布したが、有力な情報はもたらされなかった。当時の警察担当記者によれば、事案発生から数週間後に車による連れ去り事件であるとの見方が支配的になり捜査一課が投入されたが、そうした見方が強まったことは却って捜査員達に諦念を抱かせた。なお、当時この事件を報じていた新潟日報の記事では、秋・夕方の下校途中に車で何者かに連れ去られたという部分が、1977年に新潟市で失踪し、後に北朝鮮工作員に拉致されたことが判明した横田めぐみの失踪事件に類似するとも指摘されていた。この事件に絡んでは、男とは別の男が犯人を装って家族に電話を掛け、母親をファミリーレストランに呼び出し逮捕されるという副次的な事件も起きた。捜索は11月19日に人員が80人規模に縮小され、12月25日には地元消防団などによる捜索が打ち切られた。以後は毎年11月13日に三条署員が学校や路上でチラシを配るといった活動が継続された。脅迫的な文言を繰り返し浴びせる、ナイフを突きつける、顔面を数十回殴打するといった暴行の上で、最初の2~3カ月間は自身の外出や就寝の際には少女の両手足を緊縛して身動きが取れないようにしていた。その後両手の緊縛は解かれたものの、両脚の緊縛については1年ほど続き、少女の脱出意志を喪失させた。少女に対しては大声を出さないこと、家の構造を知られないため、男が部屋を出入りする際には顔を隠したり毛布に潜ったりすること、自室のセミダブルベッドから許可なく降りないこと、暴れないことなどを命令し、これを破った際には暴行を加えた。1、2年目からは暴行にスタンガンを使用し始めたが、少女は「叫び声を上げたら刺されると思い」自分の身体や毛布を噛むなどして声をあげることなく耐えた。また、男の生活に関わる雑用をこなさなかったり、プロレス技を掛けられ少女が苦痛に声をあげたときなどにも、「スタンガンの刑」と称して暴行が加えられた。男は監禁期間中、軽い殴打は700回程度、力を込めた殴打は200から300回程度に及んだと供述している。少女はある時期から、目を殴られると失明すると思い自ら頬を差しだしたり、スタンガンの痛みに慣れるため自らの身体に使用するといった行動もとるようになり、また、暴行を受けている最中に「殴られているのは自分ではない」と第三者的立場を仮想して防衛機制を働かせる解離性障害の症状も出ていた。食事は当初男の母親が男の夜食用に用意していた重箱詰めの弁当が与えられていたが、高齢であった母親の負担を考慮した男が自らコンビニエンスストアで売られている弁当に切り替えた。さらに1996年頃、男が少女の足に痣ができているのを発見、男はこれを高タンパク由来のものと考え糖尿病に進行することを危惧し、「運動をしない以上、減らすしかないと思い」少女の食事を1日1食に減らした。数ヶ月後から少女は体調を悪化させていった。男が計測すると46kgあった体重が38kgまで減少しており、少女は失神を起こすようになったが、男の対応は弁当におにぎりを一つ足したのみであった。長らくベッドの上で行う脚部の屈伸が少女に許されていた唯一の運動であり、その後糖尿病予防のため床上での足踏みが許されたが、階下に母親がいる場合には存在を気取られないためそれも禁止された。少女の筋肉は著しく萎縮し、男の腕に掴まってようやく立てる状態であった。発見後の検査では著しい栄養不良に加え、両下肢筋力低下、骨粗鬆症、鉄欠乏性貧血などが認められ、通常歩行は不可能な状態だった。また排泄は、潔癖症のためトイレが使えずビニール袋に排泄していた男に倣わせ、排泄後の袋は部屋の外の廊下に放置されていた。男は自分が部屋を出るときに少女に顔を覆わせていた理由について「廊下にビニール袋が並んでいるのを見られたくなかったから」とも述べている。こうした環境下に置きながら、少女が監禁中に入浴したのは、ベッドから誤って落下し埃まみれになった際に、目隠しをしたままシャワーを浴びせられたことが1回あるのみだった。虐待の一方で、男は少女に漫画や新聞などを与え、テレビ、ラジオで流れるニュースなどの内容や、男の嗜好する事柄について少女と語り合うことを好んだ。時事についての議論は、「彼女の考えが子供のままでいないように」するためであったとし、また「因数分解なんかは世の中では役に立たないけど、比例式は覚えた方が良いので教えました」と供述している。少女が保護された後に行われた検査では、少女には一般の同年代人と比較して知的レベルに目立った低下は見られず、知識量や語彙においても目立った遅れはないとされた。裁判で男の弁護人は、このことは男が少女に情報・知識を与えるよう努めたことが寄与しているとして、酌量を求める材料のひとつとした。男は少女を「友達」と認識しており、裁判では「被害者は、私の言いいつけを本当によく守るようになりました。これからはずっと、一緒に暮らしたいと思いました。競馬や自動車など、対等に話ができた。被害者のことは、基本的に好きだった。同世代の女性と思っていた。かけがえのない話し相手だったので、解放することはできませんでした」と供述し、また初公判で読み上げられた少女の供述調書の内容に、「自分はうまくやっていたと思っていたのに、実は恨まれていたんだとわかった」と述べた。男は高校卒業後、2人暮らしの母親の勧めで機械部品の製造会社に就職したが、人間関係がうまくいかないことを理由に3カ月で退職し、以来引きこもりの状態にあった。一時は母親からの自立を目指し、母親に対し自宅に独立した居住スペースを設けることを求め母親もこれに応じたが、持病としていた不潔恐怖をはじめとする強迫性障害の症状を悪化させつつあり、大工の出入りに対して「他人が部屋に入ってくるのが嫌だ」と増築工事を中止させ、変わらない生活を続けていた。少女の監禁を始める数年前から家庭内では障子や窓ガラスを破壊するといった行動を見せており、監禁開始から5年あまり後の1996年1月には母親が保健所に赴き男の家庭内暴力を訴えた。職員は家庭訪問を打診したが母親は男が暴れるとしてこれを断り、代替案として指示された精神病院に赴き、そこで向精神薬を処方され、男はこれを服用していた。1999年頃から男は母親に対してもスタンガンを使用し始め、同年12月に再び精神病院を訪れた母親は、男の家庭内暴力が激しさを増していることを訴えた。担当医師は強制的手段として医療保護入院(強制入院)を提案し、母親もこれに同意したことから、翌2000年1月19日にはその是非を判断するため保健所職員と柏崎市職員が被疑者宅を訪れたが、男が部屋に閉じこもったため面会はできなかった。後日、精神病院、保健所、市役所のなどが協議を行い、医療保護入院の実施日が決定され、それに向けて専門チームも作られた。1月28日、医療保護入院措置の実施のため、医療関係者、保健所職員および市職員など7名が被疑者宅を訪れた。自宅前に2人を待機させ、5人が男の部屋がある2階に上がり、精神保健指定医が「お母さんの依頼で診察に参りました」と告げ、返事を待たず部屋に入った。ベッドで寝ていた男はこれに気付き「なんで入ってくるんだ!」と抗議、これに対し指定医が法律を説明し、「あなたは入院が必要であると認定されました」と告知すると、男は激しく暴れだした。警察の応援が必要であると判断され、事前に医療保護入院があることを通知していた柏崎警察署生活安全課に警官3名の派遣を要請したが、男性の課員が出払っていたため、彼らに連絡を取ったのち折り返し電話する旨が保健所職員に伝えられた。なおも暴れる男に対し、医師が鎮静剤を注射。効果が現れるまで男は抵抗を続けたが、やがて鎮静化し眠りに落ちた。その後、関係者の注意は騒動の間にも動いていた様子があった毛布の塊に向けられた。市職員が毛布をハサミで切り開くと、中から異様に色白な短髪の少女が現れた。市職員は「あなたは誰ですか。話をしてください」、「名前は?どこから来たの」などと問い掛けたが、少女は口ごもり「気持ちの整理が付かないから」と話した。要領を得ないため指定医が階下にいた男の母親を呼び出し、「この女性は誰か」と訊ねたが、母親は「知りません。顔を見たこともない」と答えた。指定医は少女に「一緒にいた(被疑者)さんは入院することになったので、ここにはいつ帰ってくるか分かりません。あなたはどうしますか」と訊ねると、少女は母親に向けて「ここにいても、いいですか」と訊ねた。母親は了承したが、市職員らが「そういう問題じゃないでしょ。家の人に連絡しないとだめよ」とたしなめると、少女は「私の家は、もうないかもしれない」と話した。また、母親の裁判での供述によると、母親が「あなたのお家はどこ?」と訊ねると、少女は「ここかもね」と答えたとされる。その後、男ほか3名、母親と医師、少女ほか2名がそれぞれ車に分乗し、近郊の病院へ向かった。被疑者宅に残った職員の携帯電話には柏崎署から折り返しの連絡が届き、人員の都合がつかないと伝えられた。これに対し職員は男が鎮静化し病院に向かったことと、同時に身元不明の女性が見つかったむねを伝え、警察官の出動を改めて要請したが、電話口の生活安全課係長は「そちらで住所、氏名をきいてくれ。そんなことまで押しつけないでくれ。もし家出人なら保護する」と返答し、事実上出動を拒否した(ただし、この警察の対応に関し、新潟県精神保健福祉センターの後藤雅博は、「いち市民が呼んだのに来なかった、というのとは違う」と答え、協力関係にあるプロ同士のやり取りのため、警察バッシングに傾いた新聞報道とはニュアンスが異なることを認めている)。病院へ向かう車中で病院職員が少女に改めて名前をたずねると、自身の名前と住所、生年月日、両親の名前などを答えた。その情報に覚えがあった職員は三条市で行方不明となった少女に思い当たり、病院到着後に少女から聞いた番号へ電話を掛けたが、呼び出し音が鳴ったものの誰も出なかった。職員は次いで柏崎署に連絡を取り、「家にいた女の人の名前が分かりました。三条で行方不明になった少女だと名乗っている。少女は『十年前に連れてこられて一歩も外に出ていない』と話している。少女の家に電話をしたが出なかった。いま病院にいるので、すぐ来てください」と要請した。これを受け、柏崎署から刑事課の捜査員3名が病院へ急行、少女を伴って再び柏崎署に戻ったのち指紋の照合が行われ、発見された少女が三条市で行方不明になった少女と同一人物であることが確認された。同日夜には三条市から少女の母親が駆けつけ、9年2カ月ぶりの再会を果たした。一方、同じく病院に搬送された男はそのまま医療目的で収容された。警察は早期の身柄引き渡しを要求したが、院長は男が医療保護入院の目的で投与された鎮静剤により昏睡中であることから、「医者は患者の生命と身体を守ることが目的で、継続している医療行為の責任を取らずに警察に身柄を引き渡すことはできない」との判断を下し、医療優先の方針を伝え、これを了承された。男の覚醒後、突然の環境変化による精神的動揺、後に発症した内科疾患が全て治まるまでに10日間を要した。この間に事件の概要がある程度報道され、病院では男の様子を聞きだそうとする多数のマスコミの取材や、その姿を撮影しようと病院に侵入するカメラマンの存在などで著しく混乱を来した。2月11日、回復した男は警察車両に乗せられて裏口から退院。病院敷地内での逮捕は避けて欲しいという院長の要請により、敷地から出た時点の午後2時54分、男は警察に逮捕された。少女が発見された当日の1月28日午後9時30分、三条署が記者会見を開き、9年前に行方不明となった少女を発見、保護したと発表。この会見の内容が翌朝に事件の第一報として一斉に報じられた。男については精神障害者の可能性があったこともあり、主要マスメディアはしばらく「男」という匿名呼称を用いて報じていたが、『週刊文春』が2月3日号でいち早く実名報道に踏み切ると同時に、高校時代のものとされる顔写真も掲載した。新聞では産経新聞が2月5日付朝刊から実名報道を行い、他の主要紙も男が逮捕され「刑事責任を問える」という新潟県警の見解が引き出されると、翌2月12日より実名報道に切り替えた。少女が監禁されていたという事実は伝えられたが、監禁の内容については、少女を保護する観点や、少女の両親がマスコミの接触を拒んでいたこともあり、公判開始まで明らかになることはなかった。その一方でワイドショーや週刊誌では男の異常性を強調する報道が連日行われた。1989年3月に発覚した女子高生コンクリート詰め殺人事件において、加害者宅2階に被害女性が監禁され、集団暴行を受けていることを知りながら、1階にいた加害者の母親はこれを看過し続けたという事例があり、本事件発覚当初には1階に居住していた男の母親にも監禁幇助の疑いが掛けられた。週刊誌やワイドショーでは母親の共犯を匂わせるような報道も行われていたが、事情聴取に対し母親は「監禁を知らなかった」、「2階には何年も上がっていない」と供述。捜査の結果、男の部屋を含む2階全体から母親の指紋が一切検出されなかったことや、少女による「母親が住んでいることさえ知らなかった」という供述からその言葉が裏付けられ、母親は立件されず重要参考人となるに留まった。新潟県の地方紙である三條新聞(三条市)は少女の実名と本人写真、家族写真を報じたが、新潟市の市民グループから人権侵害であるとの抗議が寄せられ、2月12日の社告で「捜査協力を呼びかけてきた地元紙として被害者の名前を熟知する読者に匿名にする意味がなかった」と実名報道を行った理由を説明した上で、「他紙を併読する場合の影響を考え」同日より少女については匿名報道に切り替えた。一部では少女に対しても「9年2カ月もの間に逃げる機会はなかったのか」という疑問が呈され、少女が監禁状態にあるとき、犯人と運命共同体であるかのように錯覚し始め、やがて犯人への共感を示すようになるストックホルム症候群の状態にあったのではないかとの見方もあった。しかし、これは後に男の精神鑑定を担当した小田晋により否定され、精神鑑定書にも併せて記述された。少女は「縛られなくなってからも、常に見えないガムテープで手足を縛られているような感覚でした。気力をなくし、生きるためにこの部屋から出ない方がいいと思いました。男は気に入らないとナイフを突きつけるので、生きた心地がしませんでした。大声で泣きたかったけど、叫び声を押し殺しました。けっして男と一緒にいたかったわけではありません」と供述している。また少女は母親に対して男を評して「憎いとか怖いとか、そんな感情を出すのがもったいないほど、最低の人だ」と語っている。本事件のルポタージュを執筆したひとりであるライターの窪田順生は、一部の「下衆なマスコミ」が監禁中の被害者に対する様々な憶測を行った背景には、松田美智子が取材、執筆した『女子高生誘拐飼育事件』(後に『完全なる飼育』と改題され映画化)の影響が大きくあると指摘し、「この取材者は監禁をSMプレイの延長ぐらいにしか思われていないようだ。閉じこめられるほど愛されるということに、なにか高い精神性やらを期待されておられるようだが、それは官能小説の中だけにしていただきたい。現実の女性監禁は『飼育』も『プレイ』も『愛』もなく、あの『綾瀬コンクリ詰め殺人事件』に代表されるように果てしない暴力の連鎖、主従関係を錯覚することによる人間性の消失である」と松田を批判し、またそうした憶測について、被害者が監禁の始期から絶えず暴力や脅迫に晒されていた事実を挙げて「彼女は逃げなかったのではない、逃げるのが不可能だと教え込まされていただけなのだ」と反論している。また、松田も本件については「被害者には『部屋を出て逃げようとしたら殺される』という恐怖が染みついてしまっている。また、すっかり萎えてしまった足では、2階の階段を下りることもままならなかっただろう」と述べている。事件そのものについての報道のほか、事件に関連する警察の捜査不備や不祥事についての報道も盛んに行われ、県警本部長が辞職、警察庁長官が国家公安委員会から処分を受けるという事態も起きた(#新潟県警の不祥事)。男の逮捕から22日後の3月4日、新潟地方検察庁は男を未成年者略取誘拐と逮捕監禁致傷の容疑で新潟地方裁判所に起訴した。被告人が少女に負わせた傷害のうち、起訴事実に盛り込まれたのは両下肢筋力低下と骨量減少などで、診断されていた心的外傷後ストレス障害(PTSD)については、裁判の過程で予想される少女の精神的負担とプライバシー保護に配慮して起訴事実から除外された。公判は5月23日から始まったが、この中でも少女のプライバシーは保護され、通常行われる起訴状での被害者名読み上げは行われなかった。また弁護人も「私も人の親なので、法廷にまで連れてきて尋問したくないというのが本音にある」として少女を証人申請することはしなかった。第2回公判前日の6月26日、検察は被告人が少女に着せるためにホームセンターから下着類4点を万引きしていたことについて、窃盗罪で追起訴を行った。これは一連の犯行の中に異なる複数の罪がある場合、「その最も重い罪の刑について定めた刑の長期にその2分の1を加えたものを長期とする」併合罪の適用を狙ったもので、逮捕監禁致傷罪は懲役10年が最高刑であるため、これが適用されれば被告人の量刑は15年まで引き上げられる計算であった。検察側は窃盗について「監禁継続の手段として行われた行為であって、動機に酌量の余地はない。本件起訴にかかわる以外にも、十数回にわたって、被害者に使用させるための日用品を多数万引きしていたのであって、本件は一連の犯行の一部に過ぎず、常習性が顕著で、犯状も悪質である」と指摘。一方、弁護側は一審判決前の最終弁論において「窃盗については、被害額が弁償されていることが大事である。本件の被害額は2464円と低額である。違法性は低い。他に万引きもあるが、あくまで起訴されている事例において判断されるべき。5年も罪を重くするほどのものとは思えない」と主張した。微罪をもって併合罪の適用を図ったことは、法曹界からも批判的な意見が出た。公判前に行われた被告人に対する簡易精神鑑定では「被告人は自己愛性人格障害および強迫神経障害で、分裂症は認められない」とされたが、弁護人は被告人が病的な潔癖症であることや、母親が事件発覚の数年前から被告人について精神科に相談していた事実などから「正常な感覚では理解できない、病的な一面がある」「精神状態は正常でなかったと思われる」として本鑑定を要求した。また被告人は第3回公判から、亡父の姿や虫やヘビの類が見える、人の話し声や虫の羽音が聞こえる、といった幻覚、幻聴の体験について供述を始めていた。第4回公判で精神鑑定の実施が告知され、第6回公判で結果が公表された。なお、鑑定担当者については地裁から「これまで事件について評論したことがない精神科医から選ぶ」と告知され、犯罪心理学が専門である帝塚山学院大学教授の小田晋が選ばれた。鑑定書では被告人の精神病態について次のように報告された。また、これとは別に事件直後に被告人が収容された病院の副院長と、簡易鑑定を行った新潟大学付属病院の医師が診断した病名は、分裂病質人格障害、強迫性障害、自己愛性人格障害、小児性愛の4つであった。弁護側は小田の精神鑑定書の内容に同意しつつも「心神耗弱の主張は維持していく」と述べた。2001年11月30日に開かれた第7回公判において論告求刑が行われた。この中で検察は被告人の犯行について「鬼畜に劣る悪行」「非人道的で、血の通った人間の行為とは思えない。極悪非道である」などと厳しく糾弾したのち、被告人に対する懲役15年を求刑。また「裁定未決拘置日数は、1日たりとも算入すべきでないことは、当然である」と異例の進言をした。一方、弁護側の最終答弁では小田鑑定書で言及された「強迫性人格障害や分裂病型人格障害があることは明白であり、被告人の犯行に若干の影響を与えたことは考慮すべきであろう」という部分を強調し、被告人が少女の誘拐当時心神耗弱の状態にあったと改めて主張。また略取誘拐罪は少女を支配下に置いた時点で完結しており、公訴時効により免訴されるべきであるとした。また被告人の犯行に計画性を裏付ける証拠がないこと、少女の監禁中に被告人が娯楽を与えようと配慮をしていたことなどを指摘した上で「起訴されている公訴事実を対象に、情状を考慮して、適正に判断していただきたい。被害者の気持ちは理解できるが、量刑の均等を取らなければならない」と結んだ。これをもって全7回の審理が結審した。2002年1月22日、判決公判が開かれ、新潟地方裁判所の榊五十雄裁判長は、被告人に対して懲役14年の判決を言い渡した。検察が言及した未決拘置日数(350日)は刑に算入するとされた。判決文では、未成年者略取と逮捕監禁致傷の両件について「動機・態様は極めて悪質で、その発生した被害結果などはあまりにも重大であり、刑法が構成要件として想定する犯行のなかでも、最悪の所為」とし、また窃盗については「監禁の犯行を継続し、その犯行に資するがために敢行されたもので、その動機および様態などは相当に悪質であって、未成年者略取および逮捕監禁致傷の犯状を、いっそう悪化させている」と指摘。14年という量刑について「逮捕監禁致傷の法定刑の範囲内では、とうてい適性妥当な量刑はできないものと思料し、同罪の刑に、法定の併合罪加重をした刑期の範囲内で、被告人を主文の刑に処することにした」と説明された。弁護側の主張のうち、略取誘拐の公訴時効については「本件は全体として一個の行為が略取罪と逮捕監禁という数個の罪名に触れる刑科上一罪としての観念的競合の関係にある。さらに、逮捕行為及び監禁行為は包括一罪となるから、被害者が解放された時点まで犯罪として継続したことになる」などとしてこれを退けた。また心神耗弱についても「認められない」とした。判決翌日、弁護人が被告人に控訴の意志を問うと、被告人は「控訴します」と即答。弁護人が確認するとやはり「控訴します」と答え、24日に控訴手続きが行われた。控訴趣意書では主に以下の5点について記述された。一方、新潟地検は「判決の量刑が著しく軽きに失するとは断じがたい」として控訴を断念し、二審以降の量刑は最高14年以下となることが確定した。2002年12月10日、東京高等裁判所の山田利夫裁判長は一審判決を棄却し、被告人に対して懲役11年の判決を言い渡した。高裁は一審判決の併合罪解釈が誤りであるとした上で、その理由について次のように説明した。その上で量刑について「未成年者略取と逮捕監禁致傷については、法の許す範囲内で最も重い刑をもって臨むほかない。他方、窃盗については、逮捕監禁致傷との関連性を踏まえつつ、同種事犯における量刑との均衡も考慮しなければならない。上記の諸事情を総合考慮して、被告人を懲役11年に処するのが相当と判断した」と説明。つまりこれは、逮捕監禁致傷で最高刑の10年、窃盗で1年の計11年という足し算式の量刑であった。一方で「本件のような犯行が生じ得ることを考えたときに、国民の健全な法感情からして、逮捕監禁致傷の上限が懲役10年で軽すぎるとすれば、将来へ向けて法律を改正するほかはない」と言及し、山田裁判長は判決を読み上げたあと被告人に向けて「判決は14年から11年に短縮されましたが、犯情がよいとか、情状酌量ということではけしてありません。一人の人間の人生を台無しにしたということを、十分に反省するよう、強く望みます」と説諭した。この判決を受けた被害者家族は「9年2カ月15日に及ぶ長期監禁から無事保護されて、3年が過ぎようとしています。娘と私たち家族にとってこの時間の重さを今日の判決で求めることは到底できません。親として被告をこのような形でしか裁くことのできない現状に無念さを感じ、『許せない』という気持ちが高まるばかりです」とコメントした。10日後の12月20日、東京高検は「高裁判決は法令の解釈に重大な誤りがあり、破棄しなければ著しく正義に反する」として上告を決定した。一方、控訴審より担当となった被告人の国選弁護人は判決を受け容れる方針であったが、被告人は「二審判決は、一審の新潟地裁判決と同じように、事実誤認がある。また、二つの罪を合わせて懲役11年という判決も、不当に重いから不服である」とする自筆の上告書を提出し、こちらも上告することになった。2003年6月12日、最高裁判所第一法廷で上告審の弁論が行われ、検察側、弁護側双方が併合罪の解釈について意見陳述を行った。検察は「複数の犯罪行為が一人の人間に対して行われており、処断刑は犯罪行為と犯人の人格とを総合評価すべきもの」とし、懲役11年の高裁判決は軽すぎると主張した。弁護側は「検察側の主張では、恣意的、技術的に刑が加重される危険がある」「法治国家が長年培ってきた罪刑法定主義の原則に立つべき」と主張した。7月10日、判決公判が開かれ、最高裁判所第一法廷の深沢武久裁判長は、二審判決を破棄して一審の懲役14年を支持し、被告人側の控訴を棄却する判決を下した。これにより被告人の刑は懲役14年で確定した。最高裁は併合罪の解釈について次のように結論づけた。懲役14年の刑が確定した被告人は収監されたが、公判中から減少していた体重がさらに減り、歩行に介助が必要な状態となり、医療刑務所に移され治療を受けたと伝えられる。また母親は被告人の収監後に認知症が進み老人介護施設に入所したことから、2003年頃より面会を行っていないという。2005年1月1日、改正刑法が施行され、逮捕監禁致傷の懲役および禁錮の長期上限が10年から15年に引き上げられた。なお、少女の保護から1年10カ月後の2001年12月1日に新潟日報が報じた記事では、被害少女は事件後成人式に出席し、運転免許を取得し、家族と新潟スタジアムへサッカー観戦に赴いたり家族旅行に出かけるなど、日常を取り戻しつつあると伝えられている。少女が保護された当日の午後9時30分より三条署で緊急の記者会見が開かれ、1990年に三条市で行方不明となった少女が柏崎市で発見されたことが公表された。この会見で事態の説明に当たった捜査一課長は、「午後三時ごろ、柏崎市内の病院で男が暴れていると通報があった。一緒にいたのが(三条で行方不明になった)女性だった。女性は名前と生年月日を話した」と発表した。しかしその後、男の家庭への対応が拙かったのではないかと追及されていた保健所所長が、少女発見の経緯についての警察発表が事実と異なると指摘し、改めて少女発見時の状況について注目が向けられた。これについて柏崎署副所長は「『公園近くの家で男が暴れているので警官3人に来てほしい』と柏崎署に通報があり、そのときは警官の都合がつかず出動できなかったが、折り返しの連絡時に出動の意向を伝えた。しかし『男が大人しくなったので必要がなくなった』と言われた」という旨の説明を行った。しかし県健康福祉対策課長は「(出動を)お断りしたことはないと聞いている」と反論。いずれにしても男が暴れていたのは病院ではなく自宅であり、少女の保護を行ったのも警察ではなく県や保健所の職員であったことが明らかとなり、2月15日には県警が出動を断ったことが一斉に報じられた。また、男の母親は初めて保健所を訪れた1996年1月以前に柏崎警察署を訪れ、男の家庭内暴力について相談していたが、「子供の暴力は保健所に相談してくれ」と応対されていたことも発覚した。2月17日昼には県警刑事部長と生活安全部長が釈明会見を行った。なお、記者クラブは県警本部長の出席を求めていたが、本部長は出席しなかった。会見では出動要請を拒否したとされる点について「臨場要請を断ったという認識はないが、結果として迅速な対応ができなかったのは事実。身元不明者がいるから、1人でも警察官を派遣してほしいという要請に関すること。これについては、現場にいた保健所の職員に対し、氏名などを確認するように依頼したことが臨場要請を拒否したと受け止められたと思われるが、迅速に対応できなかったのは大変残念。申し訳ないと思っています」と謝罪。また保護の場所を男の自宅ではなく病院と発表したことについては「病院関係者が第一発見者であるとそのまま発表した場合、これらの関係者にいろいろと大変なご迷惑をかけることになるのではないかなどとおもんぱかって、伏せることとしたためであります。しかし、そういった配慮のため、誤解を与えかねない表現ぶりとなってしまいまして、まことに申し訳ないと思っています」と、こちらについても謝罪した。また、柏崎署を訪れていた男の母親に対する対応については生活安全部長が「相談の際もしっかり受け止めて十分に状況を聞き出しておれば、早急に救出できたのではないかと残念で申し訳なく思っている」と述べた。これに関しては、新潟県精神保健福祉センターの後藤雅博も、柏崎では医療関係者、保健所、市、警察の連携は普段より比較的うまくいっており、今回も被疑者宅に行く前に警察には連絡済みで、警察が訪問に立ち会わなかったのは医療保護入院ではあり得ることであり、(少女発見は予期せぬ出来事であったため)警察を非難する気持ちはない、としている。また、医師とともに保健所と市の職員が同行していることで官民の癒着を疑われたくない(当時はまだ移送制度が施行されてなかった)、保健所への取材攻勢を避けるため警察が情報を一元化して発表したほうが都合がよい、などの考えもあってのことだったと述べている。少女が男に誘拐され行方不明となった際、別の少女に対する強制わいせつ未遂事件の前科を持つ男は捜査対象に入っておらず、結果として事件の長期化を招いたとして問題視された。これは柏崎署が男の犯歴データを県警本部に送信していなかったことが原因であった。2000年2月10日、事件発覚後最初に行われた定例記者会見において県警は犯歴データの登録不備を認め、県警本部長が「一般的にこの種の捜査においては当然、同種事件について捜査することが基本であり、当時も推進したと思われるが、発見できなかったことを重く受け止めている。(前歴者リストの登録漏れを)十分検証し、今後の捜査に生かしていきたい」と述べた。また刑事部長は「いわゆる、犯罪手口システム(前歴者リスト)に、(男が)登録されていなかったのは事実。捜査にはいろんな手法があるので、これが即(監禁の)長期化に結びついたのかは分からないが、一つの原因であろうと思っている」と述べた。また松田美智子の取材によれば、少女が誘拐された翌年の初頭に、従前から女性に対する問題行動を繰り返していた三条署勤務の警察官が少女失踪に関わっているのではないかとして内密に事情聴取が行われていた。同者はアリバイが立証されて本件については不問となった(ただし、別件で諭旨免職処分となった)が、警察内部から容疑者が出たことで捜査員の士気が低下したという。松田は、警察内部における馴れ合い体質・隠蔽体質を認めた上で「良心的な捜査員も数多くいる」と訴える元警察関係者の声を紹介しながら、「警察内部の不祥事が原因で所在不明事案の捜査が緩くなったのだとすれば、関係者の言葉も弁解じみて聞こえる」とこれを批判している。少女の発見当日、新潟県警には当時各地の警察を視察に回っていた警察庁特別監察チームのトップである関東管区警察局長(以下、局長)が訪れており、視察後、局長と県警本部長(以下、本部長)を含む県警幹部たちは新潟県三川村のホテルに1泊する予定であった。ホテルに向かう車中で刑事部長より本部長に対して「三条市で9年2カ月前に行方不明になった少女が発見された」という一報が入り、以後はホテルの宴席上にFAXで続々と報告が寄せられた。この様子を見た局長は本部長に「(県警本部に)帰ったらどうだ」と促したが、本部長は「大丈夫です」と取り合わなかった。食後は局長、本部長、生活安全部長、総務課長、生活安全企画課長が参加し、図書券を景品とした麻雀が行われた。この間も本部長は報告を受け続け、少女の発見・保護状況に関して虚偽発表を行うことの了承もこの場で行った。翌朝、朝食を終えた本部長らは捜査本部設置を指示するなどしてから帰途についたが、すぐに警察本部には戻らず、その帰路に本部長は局長をハクチョウ飛来の名所である水原町の瓢湖へ案内した。それから新潟市内に戻り昼食をとった後、局長は東京へ戻り、本部長は県警本部ではなく県警公舎に13時50分頃到着した。その後、相次いで発覚した県警の不祥事は国会でも取り上げられ、野党からの攻撃対象となったことから、警察庁は2月20日から「検証チーム」を新潟県警に派遣し、幹部および署員らに対する事情聴取を行った。その結果を24日に「緊急調査結果」として発表し、一連の不祥事の事実関係を認定した。翌25日、本部長が会見を開き、「まず、被害者と両親に9年間救出できなかったことを深くおわび申し上げたい」と前置きした上で、という5点について正式に謝罪した。その後の質疑応答で自身の進退について問われると、「最高幹部として責任は痛感しているが、進退については国家公安委員会の判断によるものであるから、私は与えられた任務を尽くしていく」と述べ、辞職の考えがないことを明らかにした。他方、少女発見時に本部長が局長を「麻雀接待」していた事実はすでに田中節夫警察庁長官の知るところとなっており、25日の時点で両名は内々に田中に辞職を申し入れていた。翌26日、本部長は再度会見を開き、「少女の発見・保護時の状況について虚偽の説明を行った」、「懇親会の席上にあった本部長自身が事件発覚の報告がなされた後も帰庁しなかったことで、警察の信用を失墜させた」という2件につき、国家公安委員会から減給100分の20(1カ月)の処分を受けたことを発表。同時に自身の辞職願が2月29日付で受理されたことも合わせて発表した。直後の質疑応答では、少女発見後の行動について「その場でも十分な連絡体制があったし、被害者が保護され、容疑者も入院という措置が取られたということで、十分、指揮が執れると考えたわけだが、後日考えたところではやはり幹部として取るべき行動ではなかった。はなはだ不謹慎だったと大いに恥じている」と語り、県民や県警職員に対して謝罪の言葉を述べた。局長に対しては処分が行われなかったが、これについて同日に会見を開いた田中は「自ら接待事由を報告している」「本部長に帰庁を促している」という点を鑑みたものだと説明したものの、接待を受けたこと自体については「特別監察後に夜に対象者と席を共にしてはいけない。一般的にはありえない。きわめて特異なケースだ」「(警察の)更生の道の先頭に立つべき者がとった行動だけに言語道断だ」と指弾した。最終的に本部長と局長はともに依願退職し、前者に3200万円、後者に3800万円の退職金が支払われることになったが、世論の反発は強く、両名ともにその受け取りを辞退した。また両名への対応が甘いとして批判された田中は、「局長の行為に対する監督責任がある」として国家公安委員会から減給100分の5(1カ月)の処分を受けた。さらに虚偽発表、出動要請拒否、麻雀接待に関わった県警刑事部長、警務部長、生活安全部長ほか、警視4名、警部1名、警部補1名の計9名に減給、本部長訓戒、注意の処分が下された。本事件は同年に起こった西鉄バスジャック事件とともに、引きこもりの社会的認知度を一気に高めた。これ以前から引きこもり問題に取り組んでいた精神科医の斎藤環は、「人が死ぬか誘拐でもされないと、メディアも取り上げず誰も知ろうとしない、政府も動かないのは、日本社会の病理の一つでしょう」と述べた上で、「引きこもりは、初期には犯罪者予備軍と誤解され、識者と呼ばれる方にすら『怠け』『甘え』と批判されました。実情を知らずに印象だけで語る人たちとの戦いが、まず私の仕事でした」と述懐している。医療ジャーナリストの月崎時央は本件について、引きこもりや不登校児、心の病の子供を持つ家庭が、家庭ごと社会からひきこもってしまうという「典型的なケースだった」とした上で、監禁が長期化した背景について次のように論じている。なお、2001年2月9日には、男の母親が精神治療について相談していた病院の院長以下12名が、4年間にわたり無診察で男への投薬を行っていたとして書類送検された。これに対して院長は「主治医の判断は間違っていないと思う。保健所や警察の手に負えず、病院に助けを求められた特殊なケースで誰がどう対処したらいいのか逆に司法の判断を仰ぎたい」と述べたが、この件については12名全員が起訴猶予処分となった。後に院長は、基本的に無診察投薬はすべきではないと前置きした上で「この事件について言えば、最大限の注意を払っての投薬により、無診察ではあったが、本人の激しい興奮状態が落ち着いたから、少女はあの危機的状況下で無事であった。そして、母親と医者との間には信頼関係ができていたからこそ、母親は当院を頼ってきていたし、最終的に入院を委ねられたのだと考えている」と主張した。一方では「小康状態を保ったことがかえって事態を長引かせ、問題を先送りしたのではないか」との批判もあり、月崎時央の取材では「患者を診ない医療行為はおかしい。母親が男の入院を渋った上で薬を懇願するなら、措置鑑定から措置入院という手段の説明と提案が必要ではなかったか。その場をしのぐための安易な対応は結局問題をこじれさせる。場合によっては病院から県に家族の同意が得られないことを伝えて、措置鑑定を要請することがあってもいい」という医師の談話が紹介されている。また、精神医療の現場では無診察での薬の処方が蔓延しており、一度安易に薬を入手できた家族は、以後それに頼り切ってしまうという問題も指摘された。

出典:wikipedia

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