『ニュルンベルクのマイスタージンガー』("Die Meistersinger von Nürnberg")は、19世紀ドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナーが作曲した楽劇。リブレットも作曲者自身による。16世紀中ごろのニュルンベルクを舞台としており、全3幕、15場からなる。上演時間は約4時間20分(第1幕:80分、第2幕:60分、第3幕:120分)。初期のオペラ『恋愛禁制』(1836年完成)を除けば、ワーグナーの作品中唯一の喜劇である。ワーグナーのドレスデン時代である1845年に完成・初演された歌劇『タンホイザー』と対をなす喜劇的作品として着想され、草稿が書かれたが、本格的な台本執筆はウィーンに在住していた1861年であり、翌1862年から作曲、1867年の完成まで20年余りを要した。この間にワーグナーは、『ニーベルングの指環』四部作に着手しており、その第三部に当たる『ジークフリート』の作曲を中断(1857年8月)して『トリスタンとイゾルデ』(1859年)を完成させ、つづいて本作が完成した。1868年6月21日、ミュンヘン・バイエルン宮廷歌劇場でハンス・フォン・ビューローの指揮により初演された。物語は、人間と芸術の価値を輝かしく肯定するとともに、天才が得た霊感を形式の枠の中で鍛え上げる必要性を説いた寓話にもなっている。その豊かで鋭い洞察と暖かな人間性によって、本作品は幅広い人気を保っている一方、当時のワーグナーの思想である「ドイツ精神」の復興とともに反ユダヤ主義が織り込まれており、底に潜む暗い部分として疑問が投げかけられてもいる。なお、マイスタージンガーとは、職人の親方が音楽芸術の分野で作詞、作曲、歌唱を兼ねるもので、日本語では「親方歌手」あるいは「職匠歌手」となり、「名歌手」という訳は誤りである。また、ドイツ語のタイトル "Die Meistersinger" は複数形であり、主人公と見なされるハンス・ザックス一人ではなく「マイスタージンガーたち」を指す。1835年7月、マクデブルクの劇場と契約を結んだワーグナーは歌手集めの旅でニュルンベルクを訪れた。このとき、酒場で歌自慢の指物師の親方が満座の笑いものにされる場面に居合わせた。そしてその直後、些細なきっかけから起こった騒ぎが高じてあわや暴動になるかと思われたが、鉄拳の一撃を合図に潮が引くように静まる様子を目撃した。これらの体験は、本作でベックメッサーが歌いそこねて恥をさらす場面(第3幕第5場)及び群衆による「殴り合いの場」(第2幕第7場)に投影されている。また、『恋愛禁制』(1836年完成)の後、ワーグナーは1838年にジングシュピール風喜歌劇『女の浅知恵に勝る男の知恵(別題:幸福な熊の一家)』を構想するも未完に終わり、以来オペラ・コミックともヴォードヴィルとも異なる喜劇のスタイルを模索していた。1845年4月、歌劇『タンホイザー』を完成させたワーグナーは、夏の保養のためにマリーエンバート(現チェコ領マリアーンスケー・ラーズニェ)に滞在する。自伝『わが生涯』によれば、この地でゲオルク・ゴットフリート・ゲルヴィヌスの『ドイツ国民文学の歴史』(1835年-1842年)を読みふけり、「その短い記事からハンス・ザックスを含むニュルンベルクのマイスタージンガーたちの姿がひときわ鮮やかに眼前に浮かび上がった」とする。ヤーコプ・グリムの『古いドイツのマイスター歌について』(1811年)にも興趣をそそられたワーグナーが、7月16日、「3幕の喜歌劇」として一気に書き上げたのが、第1散文稿(A)である。この時点では「軽い喜劇」であり、ワーグナーの『友人たちへの伝言』(1851年)によれば、当時の構想は「古代アテナイにおいて、悲劇の後に陽気なサテュロス劇が上演されたように、『ヴァルトブルクの歌合戦』(『タンホイザー』のこと)に真に続きうる喜劇」というものだった。しかしこの計画は、1845年夏に着想した歌劇『ローエングリン』(1848年完成)に本格的に取り組んだことにより、立ち消えとなる。さらに、ワーグナーがドレスデン革命に連座して国外亡命の身となったことで、喜劇の構想そのものからも遠ざかった。この後、ワーグナーが1861年に『ニュルンベルクのマイスタージンガー』に再び取り組むまでには十余年の歳月を要した。第1散文稿(A)では、登場人物はザックス、ダフィト、マクダレーネ以外は固有名がついておらず、ヴァルターは「若者」、ベックメッサーは「記録係」などとされていた。ザックスの「ニワトコのモノローグ」(第2幕第3場)と「迷妄のモノローグ」(第3幕第1場)はまだなく、第3幕で若者(ヴァルター)の「偉大な皇帝たちを讃える歌」を読んだザックスは、「美しい詩芸術が終わりを告げ」、自分が「最後の詩人」となる運命を嘆き、再びザックスの真価が認められる日を期して、「城に引きこもり、ウルリヒ・フォン・フッテンやマルティン・ルターの書物を研究する」よう若者に勧めるという内容になっている。記録係(ベックメッサー)がザックスの詩を盗む場面は次の2案が並記されていた。『友人たちへの伝言』では、ザックスが「若き騎士が作った詩を―出所不明と偽って」記録係に渡すという設定になり、陰謀性が現れている。第2草稿以降は、現スコアと同じ筋立てとなるが、ザックスが「求婚レース」に立候補する意志を持っている「証拠」としてベックメッサーがメモを突きつける、という展開は韻文台本からである。また、最終ページに残された「神聖ローマ帝国が煙と消えようとも/ドイツの神聖な芸術は残るであろう」というザックスの最終演説部分は、この箇所のみ鉛筆で書き込まれており、ドイツ書体であることから、第1散文稿を書き上げた後、ワーグナーがラテン書体に切り替えた1848年12月以前の記入と推定される(詳細は#ザックスの最終演説についてを参照のこと。)。『わが生涯』によれば、ワーグナーはチューリヒ時代(1849年 - 1858年)のパトロン、オットー・ヴェーゼンドンク、マティルデ・ヴェーゼンドンク夫妻の招待により、1861年11月7日から11日にかけてヴェネツィアに旅した。アカデミア美術館でティツィアーノの絵画「聖母昇天図(Assunta)」を見たことで、「かつての気力がまた身内に燃え上がるのを感じ―『マイスタージンガー』を仕上げようと心に決めた」とされている。「ラ・スペツィアの幻影」(『ラインの黄金』序奏)や「聖金曜日の奇蹟」(『パルジファル』)など、ワーグナーには作品の端緒を創作神話のように語る傾向があり、この回想についても同様の韜晦である可能性がある。事実、ワーグナーはヴェネツィア旅行に先立つ8月9日-10日にニュルンベルクを訪れて一泊し、10月30日付で音楽出版社主フランツ・ショットに宛てた手紙では、「できるだけ早く各地の劇場にかかるような―大喜歌劇」を一年以内に完成させると提案していた。これらは、ティツィアーノの絵画を見る以前の段階ですでに心づもりができていたことを示している。とはいえ、ヴェネツィア旅行には別の側面もあった。チューリヒ時代にワーグナーはマティルデ・ヴェーゼンドンクと恋愛関係にあり(『トリスタンとイゾルデ』を参照のこと。)、かつて想いを断った相手との再会は、もう一度よりを戻す淡い期待を抱かせる機会だった。しかし、到着早々にヴェーゼンドンク夫妻の仲睦まじい姿を見せつけられたワーグナーは、かなわぬ愛に終止符を打つ決心をする。ワーグナーはマティルデとの蜜月時代に彼女に贈っていた第1散文稿(A)の返却を求め、マティルデは12月25日にパリ滞在中のワーグナーに草稿を送り返した。ティツィアーノの聖母像は、ワーグナーにとって地上での愛の実現を断念し、芸術によるエロスの昇華をめざす転機になったといえる。ヴェネツィアからウィーンに戻ったワーグナーは1861年11月14日-18日に第2散文稿(B)を書き上げた。この間に友人ペーター・コルネリウスの協力を得てオーストリア帝室図書館でヨハン・クリストフ・ヴァーゲンザイル()の『ニュルンベルク年代記』(1697年)から「いにしえの12人のマイスターたち」、「タブラトゥーア」、「誤りと罰則」、「歌唱席」、「マイスターの調べの一覧」(これらについてはマイスタージンガーの項を参照のこと)についての抜き書きを第2散文稿(B)に収めた。また、E.T.A.ホフマンの『樽屋の親方マルティンと徒弟たち』など16世紀ニュルンベルクを題材にした小説や劇作も参考にしている。第3散文稿(C)は第2散文稿(B)を浄書したもので、11月19日にショット社に送られた。12月3日にマインツのショット社で朗読会を開き、草稿を披露したワーグナーはパリに向かった。第2散文稿(B)ではザックスを取り巻く登場人物名はほとんど現行版と異なっており、マイスターたちの固有名はまだ付けられていない。第3散文稿(C)では娘エファ、乳母マクダレーネの名前が現行版どおりとなるが、若い騎士はコンラート、市書記はファイト・ハンスリヒ、金細工師はトーマス・ボークラーとなっている。第2散文稿(B)と第3散文稿(C)では大筋に差はないが、第3散文稿(C)には第1幕のボークラー(後のポークナー)の演説や、ザックスの二つのモノローグが加わり、ザックスが書記ハンスリヒ(同ベックメッサー)のセレナーデにハンマーを打つことで記録係の技を学ぶという理由付けが加わるなど、現行版に近づいている。ただし、第3幕のコンラート(同ヴァルター)は夢に見た内容を歌う現行版とは異なり、眠れぬ夜に気持ちを鎮めるために作曲したことになっている。1861年末からワーグナーはパリのオテル・ヴォルテールに滞在し、翌1862年1月25日に韻文初稿(D)を書き上げる。1月31日に韻文初稿をマティルデ宛に送ったワーグナーは、翌日パリを発った。韻文初稿(D)を元にして完成したのが韻文浄書稿(E)であり、1862年9月29日にショット社に送られた。韻文浄書稿(E)を書き上げた時点では、第1幕冒頭のコラールがなく、発送までの間に書き加えられたものと見られる。1863年春までにショット社から印刷台本初版(F)が出版された。マティルデのことを「完全に諦めた」はずのワーグナーだったが、この後も1863年までマティルデに作曲の進捗状況を逐一報告している。二人は手紙の中で互いに「私のマイスター(mein Meister)」、「わが子よ(mein Kind)」と呼び合っており、ワーグナーは自分とマティルデを作中の登場人物ザックスとエファに重ね合わせていた。しかし、1862年7月26日の手紙ではマティルデの夫オットーが作中でヴァルターを支援するポークナーのモデルであることをほのめかすなど、次第に恋愛感情よりも財政支援を求める気持ちに傾いていったようである。1862年に成立した韻文浄書稿(E)では、ザックスがエファへの恋情を断ち切って諦念の境地に達するという筋書きが新たな要素として加わっており、ここにはマティルデとの恋愛体験を経たワーグナー自身の心境が反映されていると見られる。ワーグナーの自著『わが生涯』によれば、1861年11月11日-13日、ヴェネツィアからウィーンへの帰途、「まだ台本の構想が頭に浮かぶかどうかという時点で、たちまちハ長調の前奏曲の主要部分がきわめて鮮やかに脳裏に浮かんだ」とされる。しかし、前奏曲中の「ダヴィデ王の動機」(「組合の動機」とも)はマイスター旋律「ハインリヒ・ミュクリングの長い調べ」から採られており、この素材はウィーン帰着後のヴァーゲンザイル研究まで待たねばならない。したがってこのワーグナーの回想は、上記「ティツィアーノの聖母像」と同じく自己神話化の一環あるいは「音楽の精神からの喜劇の誕生」を強調する演出の可能性がある。このころ、ワーグナーは『タンホイザー』のパリ上演の失敗、『トリスタンとイゾルデ』初演の度重なる延期などによって、自作が世に受け入れられず、経済的にも追いつめられていた。したがって、ワーグナーがパリからドレスデンの妻ミンナに宛てた手紙(1861年12月8日付)に、「まずは作曲でなく、韻文台本を作成するために、ピアノのない静かな小部屋で足りたのです。」と書き送っているのが真相に近く、直面していた経済的苦境を乗り切るため、一刻も早くショットに新作を提示したい気持ちから、音楽とは切り離して台本の完成を急いだものと見られる。ワーグナーは自著『オペラとドラマ』(1851年)において、詩人は音楽家に従属し、台本を素材として提供するにすぎないとして従来のオペラを批判していた。これに対して「楽劇」では、人間の意識下に流れる「原旋律」を内にはらんだ詩人の「言葉」が作曲家の「音」に受精することによって旋律が産み落とされる、としており、(原)音楽→詩→音楽という循環論的生成プロセスを主張していた。『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の制作過程は、ワーグナー自身の理論から逸脱していたのである。『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の音楽として確認できる最も早いものでは、第3幕「目覚めよ!」のコラールの旋律メモがあり、料理店「タヴェルヌ・アングレーズ」の名の入った紙に記されていることから、パリ滞在中(1861年12月 - 1862年1月末)のものと考えられる。ワーグナーは1862年2月にライン川河畔のヴィースバーデン=ビープリヒを仕事場とし、3月末から本格的に作曲に取りかかった。この地では、もうひとりのマティルデ(・マイアー)をエファに見立てて口説いたこともあった。同年5月には第3幕前奏曲のスケッチが書かれたが、この時点で第1幕第2場のスケッチは終わっておらず、ドラマの流れに沿って通作していくスタイルは採られていない。加えて、作曲の過程において、台本テクストは徹底的に改変された。ワーグナーは印刷台本初版(F)を作業用の底本とし、それに追加や訂正を書き込んでいった。これが「初版書き込み本」(G)である。ただし、底本に当たらずに記憶を頼りに作曲することも多く、すべての変更が初版書き込み本に記録されたわけではなかった。このため、スコアのテクストは初版書き込み本を大きく超えるものとなった。スコアの行数にすると、全3,098行のうち1,100行以上の台詞に手が加えられ、ト書きも全面的に加筆・修正・削除された。音楽に合わせてテクストを差し替えた例としては、第3幕のヴァルターの「栄冠の歌」(懸賞歌)がある。韻文台本の段階では、ヴァルターはザックスの仕事場(第2場・第4場)で「夢解きの歌」を完成させ、祝祭の広場(第5場)でも同じ歌を歌うことになっていた。1862年3月のスケッチはこの設定に拠っている。しかし、1866年9月にワーグナーは新しい旋律を着想し、これに伴い12月24日にテクストを全面的に書き換えた。この時点では、新しい歌を両方の場面で歌わせるつもりでいたが、翌1867年1月には、二つの歌を共通した素材を用いながらも別々のものとした。同時に、ベックメッサーの本選歌のテクストも書き改めている。1863年秋から1866年1月まで『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の作曲は中断された。この間、1864年5月にバイエルン王ルートヴィヒ2世と宿命的な出会いをしたワーグナーは、破産寸前のところを王に救われ、以降は王の求めに応じて『ニーベルングの指環』や『パルジファル』の創作、『トリスタンとイゾルデ』の初演などに追われていた。しかし、フランツ・リストの娘で指揮者ハンス・フォン・ビューローの妻だったコジマとワーグナーの不倫関係が進行し、翌1865年にはルートヴィヒ2世からミュンヘン退去を命じられた。この結果、ルツェルン近郊のトリープシェンに移ってコジマとの同棲生活を始めたことで、再び『ニュルンベルクのマイスタージンガー』に取り組む環境が整った。ワーグナーが本作の作曲を再開したのは1866年1月12日であり、翌1867年2月17日、コジマとの間に生まれた第2子をエファと名付けたワーグナーは、ピアノで「マイスターの歌」を弾いて祝福した。なお、この時点でコジマはビューローの妻であり、ワーグナーとコジマが正式に再婚したのは1870年8月25日である。ルートヴィヒ2世は、周囲に迫られて一度はワーグナーを追放したものの、1866年5月22日、ワーグナーの誕生日に「お忍び」でトリープシェンに現れ、ワーグナーの家の戸口で本作の騎士の名「ヴァルター・フォン・シュトルツィング」と名乗って和解を申し出ている。同年7月には、ワーグナーへの傾倒のあまりニュルンベルクへの遷都を決意するほどであった。コジマはワーグナーの制作過程に深く関わった。1867年1月31日付でルートヴィヒ2世に宛てたコジマの手紙によれば、ワーグナーは第3幕第5場の「ザックスの最終演説」を取りやめ、ヴァルターの詩で締めくくることを考えていたが、コジマはワーグナーと丸一日議論してこれを翻意させたと報告している。また、1867年2月7日に完成した作曲スケッチの末尾には、「聖リヒャルトの日に/とくにコジマのために/作成」と記入されている。作曲中断前の本作がワーグナーの二人のマティルデへの想いをにじませているとすれば、再開後はコジマの影を色濃く映し出しているといえる。1867年10月24日に「手書きスコア」(H)が完成。ワーグナーはクリスマスにミュンヘンに出向き、ルートヴィヒ2世にスコアを献呈した。このスコアは現在、ニュルンベルク市ゲルマン民族博物館に所蔵されている。1868年6月21日、ハンス・フォン・ビューロー指揮、ミュンヘン宮廷歌劇場で初演された。同1868年7月2日、ワーグナーの手書きスコアを基にした「スコア初版」(I)がショット社から出版された。ミュンヘン初演では、第1幕の幕が下りると激しい歓声が上がり、観衆はワーグナーを呼び求めた。第2幕では、場面ごとに観衆の間にセンセーションが巻き起こった。幕が下り、出演者たちが何度かカーテンコールに応えて喝采を浴びた後、歓呼とともに劇場内のすべての視線がワーグナーが座っていたルートヴィヒ2世の貴賓席に向けられた。国王の要請によってワーグナーは貴賓席の手すりに進み出て、無言で感謝の意を表明した。同じ光景が上演終了後、再び繰り返された。初演の翌日、ワーグナーは次のような手紙を書いている。翌1869年はデッサウ、カールスルーエ、ドレスデン、マンハイム、ヴァイマルなど中規模の劇場でしか上演されなかったが、1870年になると、ウィーンやベルリンの宮廷歌劇場で上演された。バイロイト初演は1888年、指揮はハンス・リヒターである。イギリスでは1882年、リヒター指揮によりドゥルリー・レーン劇場で初演された。アメリカでは1886年、アントン・ザイドル指揮によりメトロポリタン歌劇場において初演された。舞台上の楽器:オルガン、夜警の角笛(シュティーアホルン)、ホルン(複数)、ピッチの異なるトランペット(適宜)、中太鼓(複数)16世紀中ごろのニュルンベルクを舞台とし、各幕ごとの構成は次のとおり。ワーグナーは第1幕への前奏曲を「作品の精髄」と呼んでおり、劇中の主要動機が明確な形で要約されている。詳細については#音楽の節を参照のこと。"(以下のあらすじは、主として『ワーグナー事典』(東京書籍)及び「スタンダード・オペラ鑑賞ブック4 『ドイツ・オペラ 下 ワーグナー』」(音楽之友社)に基づいている。)"『ニュルンベルクのマイスタージンガー』はワーグナー作品の中で唯一、神話や伝説でなく歴史に取材したドラマである。ワーグナーは、ヨハン・クリストフ・ヴァーゲンザイルの『ニュルンベルク年代記』をはじめとする数々の文献を読み込みながら、独自のドラマ設定を仕立て上げている。物語の中心となるのは、16世紀のニュルンベルクで史実でも靴屋の親方・マイスタージンガーとして活躍したハンス・ザックス(1494年 - 1576年)である。ザックスは、当時の宗教改革の主導者マルティン・ルターの思想に共鳴し、1523年に『ヴィッテンベルクの鶯(Die Wittenbergisch Nachtigall)』の詩を発表してドイツ中にその名を知られる存在となった。オペラ第3幕第5場でニュルンベルクの民衆が歌うコラール「目覚めよ、朝は近づいた」の歌詞は、ザックスの『ヴィッテンベルクの鶯』から冒頭の一節に基づいている。また、妻に先立たれて独り身となったのはオペラ同様だが、史実のザックスは再婚している。ザックスらマイスタージンガーたちの活動は、17世紀以降衰退し、忘れられていたが、ザックス没後200年の1776年、ゲーテが詩『ハンス・ザックスの詩的生命』を発表したことがザックス復権の嚆矢となった。18世紀ドイツでのロマン主義やナショナリズムの高揚によって、ニュルンベルクはドイツの民族精神揺籃の地として再び注目を集めるようになり、文芸作品にザックスをはじめとするマイスタージンガーたちが扱われるようになった(詳細についてはハンス・ザックスの項を参照のこと)。後述するとおり、本作においてニュルンベルクはワーグナーによって多分に美化・理想化されているが、これは18世紀末にルートヴィヒ・ティークやヴィルヘルム・ヴァッケンローダー()が古都ニュルンベルクを称えたロマン主義的中世憧憬の系譜を継ぐものといえる。なお、ティーク/ヴァッケンローダーの共著『ある修道僧の真情披瀝』では、ニュルンベルクの黄金期を「ドイツが祖国の芸術を誇ることのできた唯一の時代」として回顧し、実在のザックスとほぼ同時代にニュルンベルクで活躍した画家アルブレヒト・デューラー(1471年 - 1528年)を「我らが誇るべき先祖」として称えている。デューラーは、第1幕でエファとマクダレーネの会話でダヴィデ像の画家として言及されており、マルティン・ルター、音楽面でのヨハン・ゼバスティアン・バッハと並んで、この作品に時代的・地域的彩りを添える重要な「隠し味」となっている。本作に名前のあるニュルンベルクのマイスターはハンス・ザックスを含めて13名である。ここでは、ザックスを除く12名について、ワーグナーの設定とヴァーゲンザイル『ニュルンベルク年代記』及びニュルンベルク市の居住記録の比較を示す。なお、劇中でヴァルターが師匠として名を挙げるヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデは、マイスタージンガーたちが彼らの始祖として仰いだ「12人のいにしえのマイスター」のひとりであるとともに、当初ワーグナーが本作と対をなすものとして考えていた『タンホイザー』の登場人物である。本作の筋立ては、ワーグナー独自の考案によるが、18世紀から19世紀初頭にかけての啓蒙時代に生まれた「市民劇」の流れを汲んでいる。市民劇は、フランスで生まれ、ドイツで定着したジャンルで、ゴットホルト・エフライム・レッシング『エミリア・ガロッティ』(1772年)やフリードリヒ・フォン・シラー『たくらみと恋』(1784年)などの市民悲劇やボーマルシェ『フィガロの結婚』(1784年)やハインリヒ・フォン・クライスト『こわれ甕』(1806年)などの市民喜劇がある。E.T.A.ホフマンの『樽屋の親方マルティンと徒弟たち』(1817/18年)では、裕福な手工業者の親方が、美人で評判の一人娘に婿を迎えるという物語で、本作とドラマの骨格が共通している。直接ワーグナーに先行する作品として、ヨハン・ルートヴィヒ・ダインハルトシュタイン(, ウィーン、ブルク劇場の副支配人)の劇詩『ハンス・ザックス』(1827年)がある。この作品は各国語に翻訳され、ドイツでは40以上の劇場で上演されるなど大きな反響を呼んだ。1840年には、ダインハルトシュタインの劇詩をフィリップ・レーガーが脚色、アルベルト・ロルツィング作曲によるオペラ『ハンス・ザックス』がライプツィヒで上演された。ワーグナーは1828年にダインハルトシュタイン劇の上演に接しており、ストーリーのモチーフを一部本作に取り入れている。ロルツィングのオペラは1842年にドレスデンで聴いていた。本作で描かれるニュルンベルクの町は、現実とはかけ離れている。歴史上では当時の自由都市で実権を握る参事会の力はきわめて大きく、歌の祭典で市長や参事会メンバーが登場しないことは考えられない。史実のニュルンベルクでは、圧倒的多数を占める手工業者たちは参事会に代表を送れず、1348/49年に反乱を起こして鎮圧されていた。これ以降、同業組合の結成は禁止され、マイスタージンガー組合は参事会の監視下におかれた。また、ニュルンベルク市では夜業が厳しく禁じられており、第2幕でのザックスの夜なべ仕事やその後の殴り合い騒ぎなどもあり得ない。ハンス・ザックス自身、市参事会と衝突して執筆活動を禁じられたこともあった。ワーグナーは、登場するマイスターたちの名前をヴァーゲンザイルから取り入れている(上節#マイスターたちの名前を参照のこと)が、マイスタージンガーの制度や仕組みについても、ドラマに取り込むに当たって史実に大胆な変更を加えた。例えば、ニュルンベルクのマイスタージンガー組合は、年に一度郊外に繰り出して「歌の会」を催したが、それはヨハネ祭の日ではなく、全市を挙げての行事でもなかった。これらの改変は、劇の進行をすっきりさせる作劇法上の要請によるところが大きいが、その最大の虚構は、マイスタージンガーたちの世界があたかもニュルンベルクそのものであるかのように描いたことである。この結果、楽劇中のニュルンベルクは、政治に代わって芸術が支配するユートピアとして理想化された。本作で描かれたニュルンベルクは、政治的抑圧から「純粋に人間的なるもの」を救うため、『芸術と(による)革命』を志向していたワーグナーにとってのユートピアまたはアルカディア(桃源郷)である。劇中でユートピア実現に向けて決定的な転回点となるのは、第3幕第1場の「迷妄のモノローグ」である。ここでザックスは、「迷妄(Wahn)なくしてはいかなる事業も起こりえない」と達観し、これを反転させて「多少の侠気(Wahn)がなければ/どんな立派な企ても成就するはずがない」とし、理性や常識、節度の埒を超え出たヴァーンこそがユートピアの原動力であると見なす。この部分では、ドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアー(1788年 - 1860年)との関連が顕著である。ショーペンハウアーの著書『意志と表象としての世界』では、「迷妄」は人間を突き動かしてやまない「盲目の意志」の発露であり、「過度の歓喜や苦痛の根底には常に迷妄がある」としており、このショーペンハウアーの考えをワーグナーは受け継いでいる。しかし、ワーグナーはショーペンハウアーのペシミズムには留まっていない。イギリスの法律家・思想家トマス・モア(1478年 - 1535年)の『ユートピア』(1516年)では、ウートポス(どこにもない場所)を構想することは常識の立場からすればアートポス(途方もない不条理)、すなわちヴァーンにほかならないという逆説的な認識を示しており、また、モアと親交のあったネーデルラントの神学者デジデリウス・エラスムス(1466/69年 - 1536年)も、モアに献呈した『痴愚神礼讃』』(1509年)の中で、モアの名前(ラテン語形 Morus)から狂気(痴愚女神) Moria を思いついたとし、狂気にある種の生産性を認めていた。ドイツ語 Wahn は迷妄や狂気あるいは侠気という意味だが、本来 Wonne (歓喜)や Wunsch (希望)などと同じ「至福の希望」を意味する言葉だった。のちに古高ドイツ語の wanwizzi (精神の喪失)に Wahnwitz の綴りが当てられたために両者が混同されるに至った。つまり、ワーグナーは知ってか知らずか、Wahn の古い意味を掘り起こしたことになる。後年、ワーグナーはバイロイトに建てた自分の邸を「ヴァーンフリート荘()」と名付けており、このモノローグがワーグナー自身の心情吐露であることを示唆している。第1幕第3場において、ヴァルターの「資格試験の歌」をベックメッサーは「歌の区切りも、コロラトゥーラも、旋律の片鱗さえもない」と酷評する。これは、ワーグナー自身が現実に浴びた言葉である。マイスタージンガー組合の伝統に挑み、激しく拒絶されるヴァルターには、音楽界の既成の壁に立ち向かったワーグナー自身の姿が投影されている。ワーグナーは、自著『パスティッチョ』(1834年)でコロラトゥーラを「何の意味もない音型」としてイタリアオペラを批判していた。また、ワーグナーの楽劇に対する「旋律の片鱗さえもない」との批判に対し、『未来音楽』(1860年)において、旋律とは「果てしなく続く一本の流れのように作品の隅々まで浸透する無限旋律」であり、「旋律と並んで無旋律の時間が長く続く絶対旋律」(『オペラとドラマ』)ではないと反論していた。一方、ヴァルターにマイスター歌の手ほどきをするザックスもまたワーグナー自身であるといえる。作曲の経過で述べたように、ワーグナーは自分とマティルデ・ヴェーゼンドンクを本作のザックスとエファに見立てていた。劇中でザックスがエファへの思慕を絶って諦念の境地に至る過程には、ワーグナー自身の心境が重ねられている。同時に、「生への盲目的意志」を否定して「諦念」に至る点において、ここでもアルトゥル・ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』からの影響が指摘されている。また、ザックスは第3幕第2場において、「似合いの夫婦から生まれる子供(A - A' - B)」の比喩を使ってマイスター歌のバール形式を説明するが、この論法は、ドラマの誕生を愛で結ばれた男女の生殖行為に喩えたワーグナー(『オペラとドラマ』)の音楽理論をふまえている。こうして、どちらも作曲者ワーグナーをモデルとした両者が第3幕において導き、導かれながらマイスター歌を誕生させる場面は、天才の着想と意志が形式と融合、凝縮されて不朽の芸術を創造するという、ワーグナーにとっての音楽の一つの理想が描かれていると解釈されている。第1幕第3場でヴァルターがベックメッサーに対して怒りを爆発させる場面は、グリム兄弟の反ユダヤ的作品『イバラのなかのユダヤ人』(KHM 110)との類似が見られる。グリム童話では、1羽の小鳥がイバラの茂みに飛び込むのに対して、ヴァルターの歌では自由を象徴するように小鳥が飛び去る。同様に、若者がヴァイオリンを弾きながら絞首台の階段に立つ童話に対して、ヴァルターは歌いながら歌唱席の椅子に立つ。ヴァルターの Grimmbewahrt という言葉には、「怒りに守られて」と「グリムの言うとおり」との二つの意味がかけられており、ベックメッサーの人物像にユダヤ人のイメージを重ね合わせるという、ワーグナーの隠された意図が指摘されている。また、ベックメッサーに当てられている台詞や音楽は、『ニーベルングの指環』でのニーベルング族、アルベリヒとミーメを彷彿とさせる。とくに第3幕第3場でのパントマイムにおいて、2度までも足を引きずり、悲鳴を上げ、忌まわしい記憶や妄想に苛まれる様子は『ラインの黄金』及び『ジークフリート』でのミーメとの関連が深い。『ニーベルングの指環』において、ニーベルング族もまた「異形の者」としてユダヤ人になぞらえられることは、ベックメッサーについても同様の意味を持つことになる。本作に登場する市書記の名前は、1861年の第2 - 第3散文稿では「ファイト・ハンスリヒ」となっていた。ワーグナーがこの名前をヴァーゲンザイルの『ニュルンベルク年代記』から選んだ「ベックメッサー」に変更したのは、1862年の韻文台本からである。当初の「ハンスリヒ」は、当時、絶対音楽派の急先鋒であったウィーンの音楽学者・音楽批評家エドゥアルト・ハンスリック(1825年 - 1904年)への当てこすりにほかならない。二人の出会いは1845年、ワーグナーが『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を着想したマリーエンバートにおいてだった。当時ハンスリックは歌劇『さまよえるオランダ人』の崇拝者としてワーグナーに接し、翌1846年には「ウィーン一般音楽新聞」にワーグナーの『タンホイザー』を取り上げ、「現存する作曲家の中で最も偉大な劇的才能の持ち主」として称賛している。しかし、1854年にハンスリックは主著『音楽美について』において、音楽の本質を「響きつつ運動する形式」と規定し、ワーグナーの『オペラとドラマ』(1851年)の主張を全面的に否定するとともに「楽劇」を「音楽の妖怪」と批判したことで、両者の対立は決定的となった。1861年5月11日、『ローエングリン』のウィーン初演の稽古を見に来たハンスリックはワーグナーに挨拶するが、ワーグナーは冷たくあしらった。この年に書かれた散文草稿に「ハンスリヒ」と書いたのは、積年の意趣返しといえる。ワーグナーのヴェネツィア旅行後に二人は一時的に和解し、1862年11月23日、ウィーンのワーグナーの友人シュタントハルトナー邸において『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の朗読会が開かれたときには、ハンスリックも招かれて出席した。しかし、このとき読まれた韻文台本では名前がベックメッサーに変更されていたにもかかわらず、ハンスリックは自分が笑いものにされていることに気づき、憤然として立ち去ったという。『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のミュンヘン初演を聴いたハンスリックの批評は、「喜劇的なものの表現においてワーグナーの音楽はまったく悲惨である」としつつ、ポークナーの演説やヴァルターの歌、第3幕の五重唱については「灰色の砂漠の中からオアシスのように光を放つものは、このオペラの喜劇的な部分ではなく、すべて荘重な部分に属している」として賞賛しており、私心に惑わされない客観的分析がなされている。これに対して、ワーグナーは翌1869年、自著『音楽におけるユダヤ性』(初版1850年)を改版し、ハンスリックがユダヤ人の出自であることを名指しで攻撃した。史実のハンス・ザックスの詩には「(カトリックの聖職者たちは)たとえドイツが滅ぼうとも、かえって好都合。自分たちの権力が失われることがなければ(と考えている)」という一節がある。これは、トリエント公会議(1545年 - 1563年)に抗して書かれたもので、本作でのザックスの最終演説「神聖ローマ帝国が煙と消えようとも」という表現と一部共通する。しかし、この部分は実際には、ワーグナーがドレスデン時代から所持し、愛読した『コッタ版シラー全集』第2巻に収められているフリードリヒ・フォン・シラーの詩の断片「ドイツの偉大さ」(1801年)によるものと考えられている。シラーの詩との関連箇所は2箇所で、次のとおり。第3幕最後のザックスの演説(現行スコアで3,050行 - 3,089行)の成立過程は大きく3段階ある。最後の現行スコアで書き換えられた部分には、1860年代にフランスに抗してドイツ統一国家を樹立しようというナショナリズムの高揚の反映がある。このころワーグナーは、普墺戦争(1866年)に勝利したプロイセンを「フランス文明を顔色なからしめる新しい力を歴史の内に樹立する可能性」(『ドイツの芸術とドイツの政治』(1867年))と認めており、親プロイセン派のクロートヴィヒ・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルストの首相就任をルートヴィヒ2世に働きかけていた可能性もある。しかし、一方でワーグナーは自著『ドイツ的とはなにか?』(1865年)で、神聖ローマ帝国の幻影に「ドイツの栄光」を託し、強大なドイツ国家の復興を夢見るような国粋主義を否定し、「(ドイツ)民族が救われたところで、ドイツ精神が世界から消滅するようなことがあれば、われわれにとっても世界にとっても悲劇」だと述べていた。このことは、ザックスの演説が特定の政治体制や国家的な枠組みを意図してはおらず、ドイツ語圏が育んだ芸術や文化、風土を愛する宣言であるという解釈に繋がる。したがって、ザックスの最終演説は、ワーグナー自身が抱えていた矛盾の反映である。#作曲の経緯でも述べたとおり、この演説がドラマの本筋とは無関係との判断から、一時的にせよ取りやめようとしていたとすれば、作曲者本人にもその自覚があったと考えられる。後年、ワーグナーによって頂点に達したニュルンベルク賛美、芸術至上主義的崇拝を転換し、ニュルンベルクを国粋主義・国家社会主義のメッカとしたのが20世紀のナチスである。ナチス・ドイツによってニュルンベルクはナチ党党大会の開催地とされ、ユダヤ人排斥のための法律が「ニュルンベルク法」と称された。これに対し、第二次世界大戦で連合国側は徹底的な爆撃で応じ、ニュルンベルクは文字どおりの焦土となった。20-21世紀ドイツの音楽学者ヴェルナー・ブライクによれば、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を特徴づける要素は、「全音階法」、「コラール」、「対位法」の3つである。これらは作品に古めかしい印象を与えることに役立っているが、それぞれについて見れば、必ずしも単純ではない。全音階法は、下記#第1幕への前奏曲の節で述べるとおり、素朴なものではなく、きわめて人工的に処理されている。コラールは、ホモフォニックな書法がコラールを連想させるものとなっているが、実在するルター派教会のコラールは引用されず、すべてワーグナーの創作である。また、対位法は本来、主題の転回や逆行、拡大、縮小といった技法を徹底して用いるものだが、ここではそうした厳格さはない。例えばフーガにしても本格的なものとはいえず、あくまでフーガを想起させるものとして登場するのである。とはいえワーグナーは、本作をバッハの系譜に連なるものとして認識していた。「それでは、これからバッハの応用を弾いてみよう」といって、ワーグナーは第1幕への前奏曲をピアノ連弾で演奏したことがあった。バッハの影響は、フランス風序曲の様式を援用した前奏曲、器楽を挿入したコラール、「コラール幻想曲」の構造に基づく「殴り合い」のフーガ、そして、複数の声部の対位法的な処理に見ることができる。前奏曲は以下の4つの構成部分からなり、前作『トリスタンとイゾルデ』と比べると、一見穏やかな全音階法、古典的なソナタ形式に回帰している。また、この4部分については、ソナタ形式に対応すると同時に、交響曲の4つの楽章にも対応しているという形式面での多重性も指摘されている。この前奏曲で用いられる主要動機のすべては「マイスタージンガーの動機」から派生しており、こうしたライトモティーフ相互の関連性は、この前奏曲の大きな特徴となっている。前奏曲の中心となる「マイスタージンガーの動機」は、呈示部から数々の動機を生み出し、再現部では、自ら生み出した「愛の動機」と「ダヴィデ王の動機」に重ね合わせられる。ただし、このことは一見すると「単純から複雑へ」というプロセスを意味するようで、実際は異なっている。すでに述べたように、冒頭の動機処理はそれ自体がすでに複雑であり、展開部の変容や再現部の動機の重ね合わせの過程で、複雑さはさらに増していく。前奏曲のコーダに至って、「マイスタージンガーの動機」は初めて本来の単純さを獲得する。つまり、この前奏曲の理念は「祖型への回帰」であり、第3幕の大詰めの音楽において、この理念がさらに拡大された形で再現することになる。第1幕への前奏曲の2小節目、ホ音から1オクターブ順次上昇する進行は、ホ―ヘ―ト―イ、ロ―ハ―ニ―ホという二つの音列に分割でき、これらの音程関係は半音―全音―半音で同一である。これは、古代ギリシアの音楽理論に始まる「テトラコルド」(「4本の弦」の意)の概念である。テトラコルドが顕著な例として、第1幕幕開けのコラールがあり、コラールの第1行が完全4度跳躍下行→完全4度順次上行、第2行が完全4度跳躍上行→完全4度順次下行となっており、同一のテトラコルドが反行形で対照をなしている。テトラコルドそのものは音楽の基本的な枠組みであり、本作に限らず一般的に使用される概念である。しかし、本作の場合、テトラコルドは、ダフィトが歌う「花の冠の動機」、ヴァルターが歌う「フォーゲルヴァイデの動機」、ベックメッサーが歌う「セレナーデの動機」のメリスマ、第2幕での群衆の「騒乱の動機」、同「殴り合いの動機」、「徒弟たちの踊りの動機」など作品の至るところに浸透している。ワーグナーが前作『トリスタンとイゾルデ』において、半音階法を徹底的に推し進めたことで和声法の新たな地平を切り開いたように、ここではテトラコルドの偏在が「古い響き、それでいて新しい響き」(第2幕第3場、ザックスの「ニワトコのモノローグ」より)を獲得している。さらに、テトラコルドの枠組みをなしている完全4度を変容させることで、完全4度よりも半音広い増4度、半音狭い減4度の音程にも意味論的解釈が生じている。増4度(三全音)は、古くから「死」など否定的意味合いの表出のために使われてきた音程である。ワーグナーは、「ニワトコのモノローグ」や「迷妄のモノローグ」において、「ニワトコ(Flieder)」の部分に増4度を用いた。これによって、増4度音程が肯定的なニワトコの香りであるとともに迷妄のきっかけという両義性を持つに至っている。また、「迷妄のモノローグ」では、「春の促しの動機」に減4度音程が含まれている。これは反復されて「エファの動機」と関連づけられる。したがって、春の「促し」とエファの「問い」が合わせられ、減4度音程は「応え/答え」を求める意味を表出する。このように、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の音楽は、増減4度を含めた広義のテトラコルドから成り立っており、物語に内在する対立や異質な要素を統合し、ドラマに宥和と和解をもたらすのは、この「パンテトラコルド」による音楽ということができる。『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の筋書きの中心的なモチーフとなっているのがエファとヴァルターの恋愛である。これは、一目惚れから始まり、両者が無条件に陥ってしまう愛という点で、前作『トリスタンとイゾルデ』と同様である。ドイツのワーグナー研究者エゴン・フォス(1838年生)は、「エファとヴァルターの内部にはトリスタンとイゾルデが生きている」と指摘している。第3幕第4場では、『トリスタンとイゾルデ』から「憧憬の動機B」と「マルケの動機」が直接引用される。この引用は、「トリスタンとイゾルデの悲しい末路はよく知っている。ハンス・ザックスは賢いから、マルケ殿の幸福を望まなかったのさ」というザックスの台詞によって、あからさまにされている。しかし、音楽としても必然的な印象を与えるのは、引用に至るまでの過程において、半音階上行音形がしばしば現れ、「移行の技法」が駆使された結果である。また、第2幕第5場から第7場の幕切れまでは、『トリスタンとイゾルデ 』第2幕が下敷きになっているという指摘もある。具体的には、霊妙な夜の雰囲気、木蔭に身を寄せる恋人たち、恋人たちの世界を外から威嚇する角笛などが共通する。また、窓辺に立つマクダレーネは塔の上で見張りをするブランゲーネであり、エファの帰宅を促すマクダレーネの声はブランゲーネの「見張りの歌」と同じく台詞と音楽が乖離している。そして、どちらも彼女たちの悲鳴からカタストロフに突入する。現代のオペラ演出では、時代や場所を他に置き換えることが常識となっているが、この作品については、16世紀ニュルンベルクという舞台は動かせないため、台本を読み替えた新奇な解釈は通用しないとされる。置き換えの試みは、作品の本質を大きく歪めることになり、すべて失敗しているという。また、ヴォルフガング・ワーグナーやゲッツ・フリードリヒなど現代解釈による演出に見られるのが、物語の終わりでのザックスとベックメッサーの和解である。ベックメッサーの擁護・名誉回復をテーマとした論文としては、作曲家エルンスト・ブロッホ(1885年 - 1977年)の『ベックメッサーの懸賞歌の歌詞について』や哲学者テオドール・アドルノ(1903年 - 1969年)による『ワーグナー試論』などがある。一方、このような演出を蛇足とする批判では、幕切れの音楽の中に、民衆がベックメッサーを嘲笑するときの動機(「哄笑の動機」)が変形されて響いていることとの矛盾が指摘されている。ここでは、スタンダード・オペラ鑑賞ブック4 「ドイツ・オペラ 下 ワーグナー」(音楽之友社。筆者:鶴間圭)で特筆されている録音を挙げる。「名作オペラブックス23」の編者ディートマル・ホラントは、最初期の全曲録音として1937年のザルツブルク音楽祭で上演されたアルトゥーロ・トスカニーニ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団による実況録音を挙げ、「卓越した解釈」と評している。一方、1943年のフルトヴェングラー盤については、「ある意味ではトスカニーニのまさに対極をなすもの」としている。スタジオ録音では、1956年ルドルフ・ケンペ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団による録音(モノラル)を「ほとんど室内楽を思わせる透明感があり、トスカニーニに非常に近い」、ステレオ録音では1970年のカラヤン盤を、傑出した合唱の質の高さやスコアの徹底した解釈などから「レコードとしては非常に成功したもの」として、「この両者を越えた録音、あるいはトスカニーニの精密さを今日の録音技術の可能性と結びつけることに成功した録音はない」とする。また、1976年のヨッフム盤を「録音技術上最も成功している」と評価している。
出典:wikipedia
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