


『白蛇伝』(はくじゃでん)は、中国の四大民間説話のひとつ『白蛇伝』を題材にした、日本最初のカラー長編漫画映画(アニメ映画)である。カラー、スタンダード(長編作では唯一)、79分。昭和三十三年度・芸術祭参加作品。文部省選定(少年向・家庭向)映画であった。アニメ映画ではあるが、森繁久彌が初めて東映の映画作品に出演したものである。キャッチコピーは「蛇精の姫、幻術使い、珍獣の数々の乱舞跳梁」。日本初の劇場用長編漫画映画として「桃太郎の海鷲」(1943年,37分)、それに続く「桃太郎 海の神兵」(1945年,74分)があったものの、長編アニメ映画制作のシステムが確立されておらず、スタッフ達は他国のアニメの研究からアニメーターの養成、アニメ用撮影機材の開発などまで着手しつつ、2年がかりで作りあげていった。この映画の制作に携わったスタッフは、その後の日本アニメ界を牽引する役割を担っていった。また宮崎駿のように、この映画を観た経験がアニメ界に入るきっかけの一つとなった人物もいる。演出は、それまで東宝教育映画部で短編アニメを製作していた藪下泰司。製作は東映動画(現・東映アニメーション)。配給は東映。公開日は1958年(昭和33年)10月22日。声の出演者は森繁久彌と宮城まり子。彼らの台詞を劇作家の矢代静一が執筆。他に、人物の動きをトレースしてアニメ化する手法「ライブアクション」のために、水木襄、松島トモ子や、当時東映に入社したばかりの佐久間良子らが起用されている。DVDは2002年(平成14年)7月21日に発売された。許仙は西湖の畔に住む心優しい少年。幼い頃、飼っていた可愛い小さい白蛇を、大人たちに叱られて泣く泣く野原に捨てた。十数年後の嵐の夜、その白蛇が美しい少女の姿に変身する。人間に化けた白娘は、お供の青魚の精・小青と西湖に来て、法術を使い豪華な邸宅を作り出す。成人した許仙が、ある朝、友だちのパンダとミミィと笛を吹いていると、その笛の音に答えるかのように胡弓のきれいな音色が聞こえてきた。許仙は一人の美女を見つける。一方、パンダとミミィがさっきの音色の出所を探していると、妖しい少女に導かれ胡弓を見つけ、持ち帰ることにした。夜、許仙が笛を吹くと、その音に答えるかのように胡弓が鳴り始めた。その後まんじりともせず夜を明かした許仙たちは、この不思議な胡弓の持ち主を探しに行く。小青と出会った許仙は小青に胡弓を返そうとするが「これは貴方のもの」と告げられ、「白娘様がお待ちかねよ」と立派な邸宅に招待される。「白娘というのは昨日のあの美しい人かもしれない」と思った許仙は誘われるがままに邸宅を訪れる。中から現れたのは、許仙が思ったとおりの人だった。あまりの美しさに心を奪われた許仙は、白娘と花畑や庭園で夢うつつなひと時を過ごす。その頃、許仙が白娘と恋に落ちたことを法力で知った高僧・法海は、なんとか許仙を救おうと考えていた。小青とパンダとミミィは二人が結ばれたことを喜び、木彫りの竜で遊んでいると、なんとその竜が小青たちを乗せたまま空へと舞い上がってしまった。やっと落ちた先は宝物殿で、何も知らない小青たちは宝石を二つ許仙と白娘のために持ち帰った。しかしその宝石は国宝で、許仙はそれを盗み出した泥棒として役人に捕まり蘇州へ追放され、強制労働につかされることになってしまう。白娘も愛する許仙を追って蘇州へ向かうが、そこで許仙の身を案じて先回りした法海と遭遇する。白娘は法海に敗れ、逃げていく白娘を見た許仙は、彼女を追ううちに崖から落ち、絶命してしまう。法海は許仙を島のお寺に葬ってあげようとする。一方白娘は、竜王に、自分が妖精でなくなり、妖術が一切使えない人間の身となることを条件に許仙を生き返らせてくれるよう懇願する。白娘の願いを聞き届けた竜王は白娘に命を救う命の花を授ける。白娘は命の花を持って許仙のもとへ向かうが、白娘を化物だと信じる法海は白娘を阻むため法力で追い返してしまう。そこで小青が深海の王・巨大な黒いナマズに頼み、大嵐を起こして島を襲い、許仙を取り戻そうとする。船に乗って島へ命の花を届けようとしていた白娘は、この嵐に巻き込まれしまう。小青たちによって命の花は許仙のもとへ届き、許仙は息を吹き返す。許仙は大荒れの海の中、溺れている白娘を見つけると、たちまち海に飛び込んで白娘を助けた。この様子を見た法海は、白娘が人間へと生まれ変わり、二人の愛が本物だと知って、二人を船で迎えに行く。二人は幸せの国へと旅立っていった。日本発の初のカラー長編アニメ『白蛇伝』が作られるきっかけとなった映画に、『白夫人の妖恋』(1956年、東宝)がある。池部良、山口淑子、八千草薫ら出演したこの実写映画は、中国の説話『白蛇伝』を題材にしていた。この映画は香港で興行的に大成功を収めた。これを受け、『白夫人の妖恋』をアニメ化する企画が、香港の映画界から東映に持ち込まれた。これがきっかけとなり、東映社長(当時)・大川博は、香港の下請けとしてでなく、独自の本格的なアニメ映画をつくることを考え始めた。当時大きな興行収益を上げるアニメはディズニー映画のみだったが、日本においてアニメ映画製作の体勢を整えていけば、将来大きな産業になるのではないかという、鉄道省の役人から東急の専務、そして東映の社長へと叩き上げてきた大川の、経営者としての予測もあった。2時間規模のカラーアニメ映画を目指し、東映の教育映画部が中心となって『白蛇伝』の企画がスタートした。この企画のために集められたスタッフには、赤川次郎の実父である教育映画部の赤川孝一、キャラクター原案と美術を担当する岡部一彦、NHK技研出身で美術担当の橋本潔、演出担当の藪下泰司などがいる。とはいえこの当時の日本には、アニメを制作する会社は影絵動画を含めてもごく少なく、そのいずれもが僅かの社員を抱えるのみの小会社だった。例えば業界最大手だった日動映画ですら、社員20数名の社屋のない会社であり、高校の空き教室を間借りしアニメ製作をしているような状態だった。また、それまでに作られた最大規模のアニメ映画は大戦中の国策映画『桃太郎 海の神兵』(1945年、松竹動画研究所 白黒)で、上映時間は74分だった。アニメーションの専門家と言える人材がいない状況で、2時間規模のカラーアニメをつくろうとするこの試みは、当時の常識から考えて極めて無謀とも言えた。東映は、動画会社の吸収、短編動画の制作、動画スタジオの建設、スタッフ養成など、数年がかりでアニメーション制作の体勢を整えつつ、その集大成として長編アニメ『白蛇伝』を完成させるという大がかりな計画を立てた。1957年(昭和32年)6月末、『白蛇伝』の制作が正式に記者発表された。1956年(昭和31年)、東映は手始めとして、負債を抱えていた日動映画株式会社(1948年設立、設立時名称は日本動画株式会社)を社員ごと買収し、東映動画株式会社へと商号変更させた。この東映動画に『白蛇伝』のために集めたスタッフを送り込み、『白蛇伝』へ向けた慣らしの意味も込め、短編アニメの制作を開始させた。建設中の動画スタジオのために、スタッフの養成も始まった。日動映画を吸収することで、東映はベテランのアニメーター達を手に入れた。その中には、山本早苗(後、戸田早苗)、大工原章、森康二などがいる。しかし長編『白蛇伝』のような大がかりなアニメを制作・量産していくためには、圧倒的に人数が足りない。そこで美術大学などにアニメーターとなる人材を求め採用した。この時に東映動画に入社した新人には、後に『ルパン三世』や『未来少年コナン』の作画監督を務めた大塚康生などがいる。この東映動画一期生達は、日動映画のベテラン達に指導を受け、日本アニメの基礎を担う人材へと育っていく。1957年(昭和32年)には東京・東映大泉撮影所の敷地内に動画スタジオが完成。東映動画は同スタジオに移転した。やがて大泉周辺には、大小のアニメスタジオが集まるようになっていく。『一心太助 天下の一大事』
出典:wikipedia
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