足利 家時(あしかが いえとき)は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府の御家人である。父は足利頼氏、母は上杉重房の娘。彼女は頼氏の側室であったと考えられ、源頼朝の重臣であった足利義兼以来の北条氏の娘を母としない足利氏当主となった(父・頼氏の正室については今までは不明であったが、北条氏の傍流佐介時盛の娘であるとする系譜が発見されている)。足利氏の歴代当主は、代々北条氏一門の女性を正室に迎え、その間に生まれた子が嫡子となり、たとえその子より年長の子(兄)が何人あっても、彼らは皆庶子として扱われ家を継ぐことができないという決まりがあったが、正室(北条時盛の娘)が子を生む前に早世した頼氏の跡は、その庶子であった家時が家督を継いだ。これまでの足利嫡流家歴代当主の諱は足利義氏以来、泰氏が北条泰時からの偏諱、頼氏が北条時頼からの偏諱に通字の「氏」を付けるといったように、「北条氏得宗家当主の偏諱+「氏」」で構成されていたのに対して家時に「氏」が付かないのはこのためであると主張する説があるが、代わりに用いられた「時」の字は北条氏の通字であり、やはり北条氏から偏諱を受けたものであるとも考察されている。一方の「家」の字については正確には不明であるが、頼氏の死後家時の成長まで当主代行を務めていた伯父(頼氏の兄)・斯波家氏からの偏諱と考察する説がある。家時の生没年や没年齢(=享年)については諸説ある。まず、臼井信義の説(1969年)に基づいて記述する。嫡男の貞氏については、元弘元年(1331年)9月5日に59歳で亡くなったとする『尊卑分脉』の記載により文永10年(1273年)生まれと分かるので、2の説を採った場合は子の貞氏が親の家時よりも10年も早く生まれたことになって矛盾する。その他、2の没年月日に1の享年25を採用した場合は家時が永仁元年(1293年)生まれ、3の説を採用した場合は建治元年(1275年、享年35の場合)または弘安8年(1285年、享年25の場合)生まれとなるので、いずれでも矛盾する。また、現存する古文書によって家時の活動期間をおおよそ文永6年(1269年)~弘安6年(1283年)と推定できるので、このことも生没年や生きた年代を特定する根拠となる。そして、当主としての文書発行の年齢を考えた時、文永6年の段階で15歳と仮定すると建長7年(1255年)生まれとなるので、享年35とした場合は正応2年(1289年)死去となる。正応2年は将軍・惟康親王が廃されて次の久明親王が鎌倉へ迎えられた年であり、臼井は家時の死(自殺)をこれに関連したものと推測された。その後の小谷俊彦の説(1977年)では、弘安7年(1284年)7月26日(広橋兼仲の日記『勘仲記』による、後述参照)から史料上での貞氏の初見である永仁2年(1294年)までに家時の死およびそれに伴う当主交代があったと推定された。その間、弘安9年(1286年)3月2日に足利氏の執事・高師氏(高氏、法名:心仏)の奉書が発給されており、その他の執事奉書とは違って足利氏当主の袖判がないが、これは足利氏当主が年少でまだ自身の花押を有していなかったからであると考えられる。従って、家時の没年月日は弘安7年7月26日から同9年3月2日の間に推定することができ、その間弘安8年(1285年)に起きた霜月騒動に連座して亡くなったと推測される。以上のような小谷説はその後、足利家準菩提寺の滝山寺(三河国額田郡)に残る「滝山寺縁起」の、正安3年(1301年)に貞氏が亡父の17年忌法要に際して滝山寺へ額田郡内の所領を寄進して如法堂を建立したとする記録によってその正確性が証明された。これが、「滝山寺縁起」を信憑性の高いものと認定し、その記載により弘安7年6月25日(1284年8月7日)に25歳で亡くなったとする、5の説(新行紀一による)である。これについては、『勘仲記』同年7月26日条の段階で橘知顕が伊予守に補任されていることが確認でき、これは前任者の家時がこの時までに亡くなったからであるとのことで、前述の臼井による正応2年(1289年)死去説は否定された。新行の弘安7年死去説は、のちの前田治幸論文(2010年)等でも採用されて、最新の説となっている。尚、従来までは2の文保元年(1317年)死去説が通説であったが、2の没年月日は『蠧簡集残編 六』所収「足利系図」(4と同史料)における家時の孫(貞氏の子)・高義のそれにほぼ一致しており混同したものとみられる。家時の活動の初見は文永3年(1266年)4月24日に被官倉持忠行に袖判下文を与えたことである(田中説に従えばこの時7歳程度であったことになる)。文永6年(1269年)氏寺である足利鑁阿寺に寺規を定めるなど同寺の興隆に力を注いでいる。寺規を定めるといった行為は家督交替の直後に行われることが多いことから、1266~1269年の間に伯父の家氏が亡くなり、それに伴って家時が名実ともに足利家当主となったとされる。文永10年(1273年)、14歳の時に常盤時茂の娘との間に嫡男(足利貞氏)を儲ける。同年高野山金剛三昧院の僧法禅と所領を巡って訴訟となって争ったが、弘安2年(1279年)に敗訴している。この為か、幕府に対して批判的になっていったといわれる。その一方で、この裁判の過程で作成された建治2年(1276年)に幕府が作成した裁許状案の文中に「足利式部大夫家時」とあり、当時17歳であった家時が既に式部大夫(従五位下式部丞)であった事が注目される。仮に17歳で叙爵されたとしても、同時期の武家では北条分家の有力者赤橋義宗と同年齢で叙爵を受けていたことになる(これより早いのは北条時宗・宗政兄弟のみ)。更に弘安5年(1282年)11月25日には23歳で伊予守に補任されているが、武家の国守補任においては15歳で相模守となった時宗を例外とすれば最も若かった。しかも、武家での伊予守補任は源義経以来で家時の後も鎌倉時代を通じて北条一門の甘縄顕実のみで、当時の元寇に際して有力武家である足利氏の協力が必要と言う背景があったとしても、幕府からは破格の厚遇を受けていたとする指摘もある。後述するが、弘安7年(1284年)6月25日に死去したとされる。死因は自害。この頃、鎌倉幕府内では執権・時宗の公文所執事(内管領)であった平頼綱と御家人の実力者であり幕府の重臣であった安達泰盛の争いが激化し、時宗没後の弘安8年(1285年)11月には霜月騒動と呼ばれる武力衝突が起こり、泰盛は敗死し、以後頼綱の専制政治が始まる。足利氏はこの泰盛に接近し、霜月騒動では一族吉良氏の足利上総三郎(吉良満氏か)が泰盛に与同している。家時もこれに連座して自害したとの説もあったが、前年(弘安7年、1284年)の7月26日に橘知顕が伊予守に補任されている(『勘仲記』同日条)のは、それまでに前任者の家時が亡くなり闕官となっていたものが補われたものとみるべきであり、前掲「滝山寺縁起」温室番帳によってその1ヶ月前となる6月25日に亡くなったと考えられている。家時の死の背景について、後世の歴史学者である本郷和人は泰盛の強力な与党であった北条一門佐介時国(義理の外叔父)の失脚に連座・関連して自害したのではないかとする説を提示している。これとは別に、同じく後世の歴史学者である田中大喜は、家時は将軍惟康親王に近侍して執権北条時宗と結びつけた側近的存在であり、元寇を受けて強まった「源氏将軍」を待望する空気の高揚を嫌い、北条時宗に殉死することで得宗家への忠節を示し、これにより鎌倉幕府最末期まで足利氏が(排除されることなく)北条得宗家に重用される一因になったとする説を提示している。墓所は鎌倉の功臣山報国寺で、家時は開基とされるが、報国寺の開基は南北朝期の上杉重兼(宅間上杉家祖)である。家時と関係の深い上杉氏が供養したのであろう。足利氏には、先祖に当たる平安時代の源義家が書き残したという、「"自分は七代の子孫に生まれ変わって天下を取る"」という内容の置文が存在し、義家の七代の子孫にあたる家時は、自分の代では達成できないため、八幡大菩薩に三代後の子孫に天下を取らせよと祈願し、願文を残して自害し、三代の子孫(つまり孫)にあたる足利尊氏・直義兄弟はこれを実見し、今川貞世(了俊)もこれを見たと、貞世の著作である『難太平記』には記されている。尊氏と直義は後に鎌倉幕府を滅ぼして、後醍醐天皇の建武政権樹立に多大な貢献をしたが、最後の得宗北条高時の子北条時行が中先代の乱を起こして鎌倉を占拠したのに対し、天皇に無断で鎌倉に下って乱を平定したのを機に、建武政権から離反して再び武家政権を樹立する運動を開始している。家時の願文が尊氏挙兵の動機とも考えられている。源義家の置文が実在した可能性は低い。そもそも源義家の置文が傍流である足利氏に継承されたという点で疑問があるし、嫡流と言える義家四代後の子孫源頼朝は、征夷大将軍となって鎌倉幕府を開いている。義家がこのような置文を残したのが事実であったとすると、義家が七代目に生まれ変わる前に、四代目で既に天下取りは成就済という事になる。そのため、源義家の置文には偽作説も唱えられている。しかしながら家時が執事高師氏に遣わした書状を、師氏の孫で尊氏の執事となった高師直の従兄弟である高師秋が所持しており、直義がこれを見て感激し、師秋には直義が直筆の案文を送って正文は自分の下に留め置いた、という文書が残っている。『難太平記』のいう置文は、実際にはこの文書を指している可能性があるが、詳細は不明である。そのため、置文の実際の作者は義家では無く、家時自身だと推測されている。
出典:wikipedia
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