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ザ・ブッシュワッカーズ

ザ・ブッシュワッカーズ(The Bushwhackers)は、プロレスラーのブッチ・ミラーとルーク・ウィリアムスによって結成されたプロレスのタッグチームである。1980年代まではNWA圏を主戦場に、両者ともニュージーランド出身であることから初期はザ・キウイズ(The Kiwis)、後にザ・シープハーダーズ(The Sheepherders)のチーム名を用い、狂乱ファイトを主体とするヒールのポジションで活動。1988年末からのWWF登場を機にザ・ブッシュワッカーズと改名し、コミカルなベビーフェイスに転じて前座戦線を沸かせた。コンビ結成はNWAニュージーランド(後のオールスター・プロレスリング)時代の1970年代初頭に遡る。当時、ブッチ・ミラーはザ・ブルート、ルーク・ウィリアムスはスウィート・ウィリアムと名乗っていた。以後、オーストラリアや東南アジアを経て、スチュ・ハートの主宰するカナダ・アルバータ州カルガリーのスタンピード・レスリングに進出。ミラーはリングネームをニック・カーターと改名し、チーム名もニュージーランド出身であることをアピールするために、ザ・キウイズ("The Kiwis")と名付けられた。1974年1月にはカルガリー版のインターナショナル・タッグ王座を獲得、トーキョー・ジョー&グレート・サキ(デビル紫)の日本人チームとも同王座を争った。同年9月には揃って国際プロレスに参戦、9月16日に館山にてラッシャー木村&グレート草津のIWA世界タッグ王座に挑戦している。国際プロレスでは、スーパースター・ビリー・グラハムやバロン・フォン・ラシクと組んでの6人タッグマッチにも出場し、彼らの露払い役も務めた。1979年5月にはそれぞれボブ・ミラー、スウィート・ウィリアムスのリングネームで全日本プロレスに来日。空位となっていたアジアタッグ王座の王者チーム決定戦でグレート小鹿&大熊元司の極道コンビと対戦したが敗退している。同年よりチーム名をザ・シープハーダーズ("The Sheepherders")に改め、太平洋岸北西部のPNW(パシフィック・ノースウエスト・レスリング)に進出。翌1980年にかけて、ロン・スター&アドリアン・アドニス、スタン・スタージャック&ダッチ・サベージ、ロディ・パイパー&リック・マーテルなどのチームを破り、NWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座を通算3回獲得した。以降もヒールのタッグチームとして各地を転戦、プエルトリコのWWCではアブドーラ・ザ・ブッチャーとも共闘している。1982年から1983年にかけてはミラーが一時的にニュージーランドに帰国したため、ウィリアムスは同じ南半球オーストラリア出身のジョナサン・ボイドを新パートナーに活動。ミラーがアメリカに戻ってからはチームを再結成し、それぞれのリングネームもブッチ・ミラーとルーク・ウィリアムスで定着。迷彩ズボンにタンクトップ、ボロボロのアーミーキャップという入場コスチュームもこの時期に確立された。1984年3月4日にはサンアントニオでスティーブ・カーンとスタン・レーンのファビュラス・ワンズからSCW世界タッグ王座を奪取。1985年はプエルトリコを主戦場に、ジ・インベーダーズ(ホセ・ゴンザレス&ロベルト・ソト)とWWC北米タッグ王座を争った。1986年は3月16日にビル・ワットのUWFにてテッド・デビアス&スティーブ・ウィリアムスからUWF世界タッグ王座を奪取し、10月7日にはフロリダでファビュラス・ワンズを破りNWA USタッグ王座を獲得。翌1987年1月10日にはテネシー州メンフィスのCWAにてバッド・カンパニー(ポール・ダイヤモンド&パット・タナカ)を下しCWAインターナショナル・タッグ王座にも戴冠。日本では「タッグ泥棒」なる異名を付けられた。1987年2月には新日本プロレスに来日し、IWGPタッグ王座の決定リーグ戦に出場。国際、全日本、新日本と、タッグチームとして昭和の3団体への登場を果たした。同年下期からは、ジム・クロケット・ジュニアの運営するNWAミッドアトランティック地区に参戦、7月31日にマイアミ・オレンジボウルにて行われた『グレート・アメリカン・バッシュ』にもNWAフロリダ・タッグ王者チームとして出場した。1988年4月に開催されたタッグチーム・トーナメント " の第3回大会にも出場したが、2回戦でボビー・イートンとスタン・レーンのミッドナイト・エクスプレスに敗退している。1988年末、チーム名をブッチ&ルークのザ・ブッシュワッカーズ("The Bushwhackers")に変更し、従兄弟同士という設定でWWFに登場。同年12月30日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにおいて、ニコライ・ボルコフとボリス・ズーコフのザ・ボルシェビクスを破りデビュー戦を飾った。ラフファイト主体のヒールだったシープハーダーズ時代とは異なり、コミック・リリーフを担当するベビーフェイスのベテラン・チームとして売り出され、ジャックとレイモンドのファビュラス・ルージョー・ブラザーズ、ホンキー・トンク・マンとグレッグ・バレンタインのリズム&ブルース、サトーとタナカのオリエント・エクスプレスなど、主にBクラスのチームを抗争相手にミッドカード戦線で活動、そのコミカルなキャラクターで子供たちの人気を集めた。目を剥いて口を歪曲させたユーモラスな表情に、腕を頭上まで高く振り上げながらリングへ行進していく入場シーンがトレードマークとなり、彼らのフィギュアもこれを模したポーズで製作されている。1990年12月には、当時WWFと提携していたSWSに来日した。WWFではタイトル戦線に絡むことはなく、大きな活躍の舞台は与えられなかったものの、1991年8月の『サマースラム'91』ではアンドレ・ザ・ジャイアントをセコンドに迎え、ナチュラル・ディザスターズ(アースクエイク&タイフーン)と対戦している。以降、WWFには1996年まで長期間に渡って在籍。レッスルマニアなどのビッグイベントではオープニング・アクトのダーク・マッチに出場して会場の「温め役」を担い、同じく会場人気の高かったハクソー・ジム・ドゥガンとトリオを組むことも多かった。WWF退団後もブッシュワッカーズの名義でインディー団体を転戦し、1999年10月にミシシッピ州で行われたリユニオン・イベント " では、アイアン・シークとニコライ・ボルコフの往年の反米コンビと対戦。2001年4月1日には『レッスルマニアX-Seven』のギミック・バトルロイヤルに出場し、久々のWWE登場を果たした。チームを解散し引退してからは、ブッチ・ミラーはニュージーランドに帰国し、近年は首都ウェリントンのプロレス団体 " のコミッショナーを務めつつ、レスリング・ウェブサイト "NZPWI" のコラムニストとしても活動。ルーク・ウィリアムスは、かつて主戦場としていたプエルトリコに居住し、近年はIWAプエルトリコのブッカーを担当する一方、TNA、ROH、カナダ・ノバスコシア州のUCWなど、各地のインディー団体にスポット参戦している。2015年、チームとしてWWE殿堂に迎えられた。3月28日にカリフォルニア州サンノゼのSAPセンター・アット・サンノゼにて行われた殿堂入り式典では、かつてNWAフロリダ地区で彼らのマネージャーを務めていたジョニー・エースことジョン・ロウリネイティスがインダクターを担当した。

出典:wikipedia

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