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鬼竜川光雄

鬼竜川 光雄(きりゅうがわ みつお、本名:今川 光雄(いまがわ みつお)、1923年12月2日-2003年10月22日)は、1940年代から1950年代にかけて活躍した青森県三戸郡倉石村(※現役当時。現・同郡五戸町)出身の大相撲力士である。時津風部屋(入門時は粂川部屋)に所属していた。得意手は右四つ、下手投げ。最高位は西前頭6枚目(1959年5月場所)。現役時代の体格は177cm、73kg。1938年暮れに上京し、同郷の8代粂川、大関・鏡岩が率いる粂川部屋へ入門(ちなみに、鬼竜山雷八(7代粂川)とは縁戚関係にあった)。1939年1月場所にて、15歳で初土俵を踏んだ。序ノ口に付いた時より「鬼竜川」の四股名で相撲を取ったが、2場所だけ「川」を「山」に変えて、「鬼竜山」と名乗っていた事もある。1942年、横綱・双葉山が「双葉山道場」を開いた事に伴い粂川部屋の全力士が同道場に移籍して、同部屋は閉鎖された。そのため、同年より所属も「双葉山道場」に変更となった(双葉山の引退、年寄・時津風襲名後は、「時津風部屋」へと所属が変わっている)。体重80kgに満たない小兵であったが、美男力士として人気を博した。腕っ節が強く、それを生かした下手投げを得意とした。序ノ口から約8年をかけて新入幕と順調に出世したが、幕内2場所目の1948年5月場所(当時の四股名は「鬼竜山」)で鼻骨骨折と内臓の病により休場を余儀なくされると、その後遺症からか一時幕下まで番付を落としてしまった。しかしそれらの不運を跳ね除けて頑張り、1954年3月場所では6年ぶりの入幕を果たしている。1958年からは幕内に定着し、1959年3月場所と翌5月場所では、前頭1桁台で相撲を取るまでに出世を遂げた。この時既に35歳となっており、その後も1960年9月場所まで関取の地位を保つなど、永く活躍した。現役晩年には流石に体力・気力も衰え、幕下25枚目まで陥落して初日から休場した1961年1月場所を以って、37歳で引退した。序ノ口に付いてから約21年、現役力士として務めた場所数は、計72場所であった。引退後は年寄・勝ノ浦を襲名し、時津風部屋付きの親方として後輩達を指導。1988年12月に停年を迎えるまで、日本相撲協会に在籍した。2003年10月22日、大腸癌のため東京都墨田区内の病院で逝去。享年79。  

出典:wikipedia

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