加治田城(かじたじょう)は、美濃国(現在の岐阜県加茂郡富加町加治田)にあった日本の城。別名、却敵城・加治田山城・古城。美濃国と飛騨国(現:下呂市金山町)の道をつなぐ重要な街道で中濃に位置し、西濃(岐阜城)・東濃(苗木城)・奥美濃(郡上八幡城)の中間位置としての要所であった。濃尾平野の北に位置する。加治田城は、築城時期は不明であるが、戦国時代の永禄年間(1558年 - 1570年)には、美濃佐藤氏の居城であった。佐藤忠能・忠康父子が築城したとも伝えられている。佐藤氏は初め美濃斎藤氏に従っていたが、のちに尾張国の織田氏に内応。そのため永禄8年(1565年)に、堂洞合戦や関・加治田合戦において斎藤氏に攻め込まれるが、織田氏の支援も得ていずれも撃退している。しかし、関・加治田合戦において佐藤忠康が戦死したため、織田信長の命により斎藤道三の末子・斎藤利治が城主となった。天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変において利治が死去すると、斎藤利堯が跡を継ぎ織田信孝の家老となった。しかし、同年7月には東美濃での勢力拡大を狙う森長可との間で加治田・兼山合戦が起こり、奮闘し城を死守。しかし、利堯の動向により(1582年~1583年)にかけて領土は森氏が統合した。その後、東美濃全域並びに中濃の一部にまで版図を拡大した森氏は、領内に多すぎる城の保全の煩雑さを考慮し加治田城を廃城にした。廃城後、城下町は宿場町として栄えたといわれている(昭和初期まで)。一の丸、二の丸、三の丸、四の丸まであり、石積み(石垣)、土塁、竪堀、横掘、切岸、虎口が残る。城域が梨割山から津保川、川浦川辺りまであった(衣丸や捨掘、馬場、出丸、御殿、武家屋敷も含む)。東公民館辺りが城主屋敷跡。絹丸(衣丸)の神社の横道より山に登る道があり、上まで行くと見晴らしがいい岩がある。昔はそこまで馬車で兵糧米を運び、そこから城へ人間が担いで運んでいた。岩は狼煙台としても使われていた。三徳岩は今でもあり、旗を立てていた穴が空いている。東海環状自動車道で通過するトンネルの真上が加治田城跡になり、向側のトンネルは長尾丸山(堂洞城長尾丸)の真下を通り、そこは佐藤忠能の娘・八重緑が串刺しにされた場所である。金華山、御嶽山、伊吹山、名古屋の駅ビルが一望できる。現在でも城下町の面影が残る。富加町の龍福寺・郷土資料館・役場に城の資料が保管されている。古城山(海抜270m)では尾根に沿って至る所に曲輪や土塁・堀・石積(石垣)・虎口が設けられており、急斜な山を中心に北は津保川、南は川浦川の天然の堀(川)に囲まれている。山と川の間である南の平地には飛騨国(国府)からの重要な街道があり、街道に沿って町場(上町・中町・下町)、町場の北には、上之屋敷、殿屋敷(屋敷城)、新沢屋敷、東には小山(現天神山)に三徳砦で堅固な櫓、西の砦は旧加治田小学校辺り、さらに西には衣丸と捨堀、郷が洞、米取岩(場)やのろし場、この他にも、清水滝口・東の清水口・捨堀口・鳥帽子岩・霊雅山・小屋洞・田洞・石拾い・木戸外・馬場があり、龍福寺や清水寺も麓にあった。北の山では急斜面な岩場が多く、麓は津保川が流れて「北の難所」と言われており、登るのは困難である。加治田山(現梨割山)全域で城の道が繋がっており、至る所に曲輪や砦があり、山全体が城でもあった。景観が中濃全域、北濃、西濃、東濃の一部、遠くは尾張(現名古屋駅(JRセントラルタワーズ))まで遠望でき、中濃の真中の場にあった(支城の毛利山城(牛ヶ鼻砦)、一柳城(大洞城)も視認できる)。城下町も街道の賑わいがたえず重要な城であった。山は湧水が幾つかの場所で湧き出ており、本丸や山頂からは城下町や城域までが一望でき、敵の行動がよく分かり、地形より、守りやすく、攻め難い城であり難攻不落。「加治田城跡、現在城山加治田城跡(海抜270m)と呼ばれるこの山城は、戦国時代は却敵城(きゃくてきじょう)とも呼ばれていました。桶狭間の戦いで今川氏を破った織田信長にとって…(中略)…城主を継いだ斉藤新五は信長の家臣として各地の戦闘に参加し、天正10年(1582年)本能寺の変で戦死するまで、その一生を信長の天下統一に捧げました。その後の加治田城は天正10年(1582年)の加治田・兼山合戦を斎藤玄蕃を大将としてしのぎましたが、玄蕃の死後に兼山城主森長可(ながよし)の領地となり廃城になったといわれています。」(「平成十二年十一月 富加町史を一部改変 富加町教育委員会」より)
出典:wikipedia
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