1974年に中央競馬でデビュー。関西新人賞を受賞するなど早くから頭角を現し、1980年には全国リーディングジョッキー(年間最多勝利騎手)となる。以後1985年、1986年と三度その座に就いた。短距離路線整備の黎明期にマイルGI競走で3勝を挙げたニホンピロウイナー、中央競馬史上初の牝馬三冠馬メジロラモーヌ、「アグネス一族」と称された母仔三代にわたる4頭のクラシック優勝馬など数々の活躍馬の手綱をとり、2000年には史上5人目の五大クラシック完全制覇を達成。2001年には史上3人目、関西所属騎手としては史上初の通算2000勝を達成した。2003年に騎手引退。JRA通算成績は14940戦2111勝、うちGI競走22勝を含む重賞134勝。通算勝利数は引退時点でJRA史上第2位の記録であった。2014年、JRA騎手顕彰者に選出。2005年より栗東トレーニングセンターで調教師として開業。1955年、公営・長居競馬場(大阪府大阪市)所属の調教師・河内信治の次男として生まれる。幼少のころ長居が閉鎖されて信治は活動の場を春木競馬場に移し、以後洋も同場で厩舎作業の手伝いをしながら育つ。中学2年生の頃からは調教騎乗も担当し、馬の調教を終えてから学校へ行くことが日課となった。河内の親類は全国各地で競馬に携わっており、夏休みに浦和競馬場を訪れた際には南関東競馬で騎手になることも勧められたという。河内の祖父・幸四郎はかつて調教師として京都競馬場に厩舎を構え、後に河内の師となる武田作十郎と親交があった。そうした縁から信治も武田の厩舎に入りきらない馬を預かっており、武田が馬の様子を見に厩舎を訪れた際に河内と兄・幸治の姿に目をとめ、ひとりを自身のもとに引き受けることを提案。幸治は地方競馬の騎手免許試験を受けていたことから河内が行くことになり、中学卒業後、騎手候補生として武田作十郎厩舎に入門し、年3回の講義を受ける短期講習生として騎手免許取得を目指した。その後、当時関西の有力騎手のひとりであった武邦彦が武田厩舎へ移籍し、河内の兄弟子格となる。後に河内は「すぐそばで付きっきりで武さんを見ていられたから、色んな面で勉強になった。他の人からは羨ましがられたね」と語っている。体重が重かったこともあり、騎手免許試験には2年連続で落第し、免許取得は19歳となった1974年のことであった。同年3日、中京競馬第2競走でデビューを迎えると、ホースメンレディで初騎乗・初勝利を挙げる。当年新人ながら関西7位(全国18位)の26勝を挙げ、関西放送記者クラブ賞(関西新人賞)および優秀騎手賞を受賞。翌年4月にはロッコーイチで小倉大賞典を制し、重賞初勝利を挙げた。以後順調に成績を上げていき、6年目の1979年にはアグネスレディーで優駿牝馬(オークス)を制し、八大競走初制覇を果たす。同馬は新馬戦時点ではベテランの久保敏文が騎乗していたが、新馬戦2着を経て河内に手綱が回ってきた馬であった。当時珍しいベテランから若手への乗り替わりは、新馬戦での敗戦に馬主の渡辺孝男が不満を抱いたためともされる。後にアグネスレディーの子孫は河内に数々のタイトルをもたらすこともあり、河内は「久保さんが失敗しなければ、今の僕はなかったかも」と述べている。さらにこの年11月にはハシハーミットで菊花賞も制した。翌1980年には年間72勝を挙げ、25歳にして全国リーディングジョッキーとなる。1980年代に入ってからは、河内と4歳下の田原成貴が関西騎手界を牽引した。性格、騎乗ともに冷静かつ堅実であった河内に対し、田原は破天荒、派手さを売りとしており、対照的な両者は巷間にライバルとして捉えられた。1983、1984年には田原が全国リーディングの座に就き、1985、1986年にはそれぞれ118勝、117勝を挙げた河内がこれを奪還している。後年河内は作家・藤本義一との対談において「ライバルとかは考えないですか」と問われ、「ライバルというのとは違うかもしれませんが、刺激を受けるのは田原(成貴)ですね。年齢は彼の方がしたですけど、ある時代同じように生きてきた時代がありましたからね」と答え、また田原は著書の中で「騎手として伸び盛りの時期に仮想敵に据えたのが河内さんで良かったと思う。あの人がいなければ、今の田原成貴はなかっただろう」と述べている。この間にもカツラノハイセイコによる天皇賞・春(1981年)、ヒカリデュールによる有馬記念(1982年)、ロンググレイスによるエリザベス女王杯(1983年)と、毎年のように大競走を制した。なかでも気分屋で乗り難しかったカツラノハイセイコでは多くを学んだといい、自身の「師匠みたいな馬」だとしている。1984年、日本中央競馬会は競走格付けのためグレード制を導入、さらに距離別体系の明確化を図り路線整備を行う。そうして新たに敷かれた「短距離路線」において、最初のスターホースとして現れたのが、河内が手綱をとったニホンピロウイナーであった。通算26戦16勝、うち河内とのコンビでは15戦11勝、GI競走3勝を含む重賞7勝という抜群の成績を挙げた同馬について、河内は「マイル戦に強い僕をアピールするには、うってつけの馬だった」と評している。また、1986年から手綱をとったメジロラモーヌでは、桜花賞、オークス、エリザベス女王杯を全勝し、史上初の「牝馬三冠」を達成。この頃から河内には「牝馬の河内」という異名が付されるようになった。ニホンピロウイナーとメジロラモーヌの2頭は、この時期の河内の名を特に上げた存在であった。1988年にはアラホウトクで桜花賞を、サッカーボーイでマイルチャンピオンシップを制する。また、公営・笠松競馬から中央入りし、当時勃興しつつあった競馬ブームの中核となったオグリキャップでも重賞6勝を挙げた。同馬とのコンビは同年のジャパンカップ(2着)が最後となりGI優勝はなかったが、笠松時代に主戦騎手を務めていた安藤勝己は、『優駿』1990年6月号に掲載されたインタビューの中で「河内さんが乗っていた頃が、オグリキャップのいい面が出ていたと思う」と評している。当年6月4日には、33歳3カ月という史上最年少記録(当時)での通算1000勝を達成。また、自身が1986年に記録した年間重賞勝利記録を12から13へ更新した。1990年にはアグネスレディーの娘・アグネスフローラで桜花賞に優勝。また同年、自身初めての国外騎乗(マレーシア)を経験し、翌1991年には日本人として初めてアメリカ競馬の祭典・ブリーダーズカップに騎乗、後に日本で種牡馬となるアジュディケーティングでスプリントに臨み、 4着という成績を残した。国内においては1991年から1992年にかけて、それぞれ牝馬のダイイチルビーとニシノフラワーで4つのGI競走を制覇。1994年にはレガシーワールドでジャパンカップを制した。1997年には、1993年の柴田政人以来2人目の年間制裁点なしという成績を残し、特別模範騎手賞と騎手として3人目となるJRA賞特別賞を授与される。翌1998年にはメジロブライトで天皇賞(春)を制したのち、12月にはミッドナイトベットで香港G1(国際G2)の香港国際カップに優勝、日本国外での重賞勝利も挙げた。こうした活躍の一方で、1990年代以降は弟弟子の武豊がトップジョッキーの地位を占め、河内は関西の2、3番手が定位置となっていく。豊は河内以上の勢いで勝ち星を量産し、1994年には河内の史上最年少記録を大幅に更新する26歳4カ月で通算1000勝を達成。1996年には河内が保持した年間最多重賞勝利記録も16まで更新した。2000年、アグネスフローラの仔・アグネスフライトと共に東京優駿(日本ダービー)に臨んだ河内は、豊が騎乗する皐月賞優勝馬・エアシャカールとの競り合いをハナ差制し、デビュー27年目にしてダービージョッキーの称号を得た。入線後、河内は彼としては珍しくガッツポーズをみせ、ウイニングランの最中にはスタンドの観衆から「河内」コールが送られた。ダービー初騎乗から17戦目でのダービー優勝は柴田政人(19戦)に次ぐ史上2位の騎乗回数、45歳3カ月7日での優勝は史上4位の年長記録であった。河内はインタビューにおいて「勝ったと分かった瞬間は全身の力が抜けました。ダービーはデビューしたときからずっと憧れてきたレース。本当に嬉しい。幸せです」と語った。また、アグネスレディーからフローラ、フライトへと続いた母仔三代によるクラシック制覇は、中央競馬史上初の記録であった。さらに2001年、河内はアグネスフライトの弟・アグネスタキオンで皐月賞を制し、史上5人目のクラシック完全制覇を果たした。同馬は河内が自身の騎手人生において最も強烈な印象を感じたという馬であったが、故障により同競走を最後に引退。同馬とのコンビが「アグネス一族」による最後のGI制覇となった。後に河内は騎手引退に際し、「三代にわたって僕を支えてくれた一族には感謝のしようもない」と語った。また、同年7月29日には、増沢末夫、岡部幸雄に次ぐ史上3人目、関西所属騎手として初のJRA通算2000勝を達成した。2002年末にはユートピアで全日本2歳優駿に優勝。またラジオNIKKEI杯2歳ステークスに勝ったザッツザプレンティといった騎乗馬もあったが、翌2003年2月13日に河内の調教師免許試験合格が発表され、騎手を引退することになる。22日には京都記念でアグネスフライトと最後の重賞競走に臨み、6着。翌23日が最終騎乗日となり、第3、4、6、10競走を制し通算勝利数を2111まで伸ばす。この間、ファンからは「調教師になっても乗ってくれ」、「どこも悪くないのにやめるな」といった声援も飛んだ。続く第11競走、最終競走をそれぞれ2着として、全騎乗を終了。競走後に行われた引退式では馬車に乗って観客の前をパレードし、他場で騎乗していた豊からのビデオメッセージや、同僚騎手たちからの胴上げで送られた。JRAにおける通算成績は14940戦2111勝。勝利数はこの時点で史上2位の記録であった。アグネスフローラ、フライト、タキオンを管理した長浜博之のもとで調教師としての研修を行い、2005年に栗東トレーニングセンターで厩舎を開業。2007年4月、往年の名騎手を集め行われた第1回ジョッキーマスターズに出場し、優勝を果たす。翌2008年に管理馬マルカシェンクが関屋記念を制し、調教師としての重賞初勝利を挙げた。職人的、玄人受けした騎手とされ、その騎乗技術は騎手仲間からも高く評価された。若手騎手に「うまい騎手は誰か」を尋ねると必ず河内の名が挙がったとされ、弟弟子の武豊も若手のころ、自身が抑えきれなかった馬をいとも簡単に乗りこなす河内の姿を見て考えるところが多かったといい、後年トップジョッキーとなってから「兄弟子に河内さんがいたことが大きかった。あの人がいなかったら天狗になっていたと思う」と述べている。アナウンサーの杉本清によれば、武邦彦は「とにかく俺がとりたいポジションに必ず河内がいる」と話していたといい、杉本は「このひと言がすべてを表している」と述べている。また、地方競馬から中央へ移籍した安藤勝己は、中央で騎乗する際に河内がどういったコースを取るかを参考にしながら騎乗していたという。ダイイチルビーの調教師・伊藤雄二は「変な、無駄な動きを、彼は一切しない。だからこそ最後に馬も伸びてくる」と論じている。また田原成貴は、その騎乗フォームを評して「日本一の美しさ」とし、「彼のモンキー姿勢、肩、臀部、膝で出来る逆三角形の形、角度は芸術品です。その形は折り合いの難しい馬に騎乗した時でも崩れが非常に少ないです。それに腰から膝にかけての角度、膝から足にかけての角度、どれをとっても素晴らしいの一言です」と賞賛している。比較的差し・追い込みを得意とする騎手ともみられていた。河内自身の言によれば、先輩の邦彦が先行型の競馬を得意としていたことから、「同じことをしていても超えられるはずはないと」後方からの競馬に活路を求めたのだという。また河内はメジロラモーヌ、ダイイチルビー、ニシノフラワーといった「切れ」の鋭いタイプの牝馬を好んでおり、「切れる脚を存分に活かすには、最後までためないと、その切れが生きない。それに牝馬というのは繊細なところがあるし、一線級の牝馬になればなおさらそうした傾向があって、その繊細な気性を逆なでしたら手が付けられなくなる。そうした難しさのある牝馬の良さを生かせたからこそ『牝馬の河内』のニックネームをもらったわけで、『牝馬の河内』と呼ばれたことに、それなりの自負はある」と述べている。また、特別模範騎手賞を受賞しているように、フェアプレーに努めた騎手であった。河内は引退に際し自身の騎手生活を総評し、「最後まで、人に納得してもらえる騎乗を心掛けたつもり。この人が乗って負けたらしょうがない、という単純なものでなく、こういう競馬をしてくれても負けたんだから、しょうがないか、と納得してもらえる騎乗。それに近いものはできたように思う」と語っている。※括弧内は河内騎乗時の優勝競走。太字は八大・三冠・GI競走。書籍雑誌・ムック特集記事
出典:wikipedia
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