ヨアヒム・ミュンヒェベルク(Joachim Müncheberg、1918年12月31日 - 1943年 3月23日)は、第二次世界大戦時のドイツ空軍のエース・パイロットである。エース・パイロットとは空中戦で5機以上の敵機を撃墜した軍人パイロットを呼び表す呼称である。ミュンヒェベルクは500回以上の作戦飛行で135機を撃墜し、東部戦線での33機を含む戦果の大部分は西部戦線で挙げられたものであった。西部戦線での102機の戦果の中には46機のスーパーマリン スピットファイア戦闘機が含まれていた。ミュンヒェベルクは(Dramburg)近郊のフリードリヒドルフ(Friedrichsdorf)で生まれた。少年の頃から空を飛ぶことと機械類に非常に興味を持ち、軍隊に入る前には運動の分野でも才能を発揮した。1936年にドイツ陸軍に入隊し、1938年に空軍へ転籍した。その後第234戦闘航空団に配属された。1939年10月にミュンヒェベルクは(JG 26)/第III飛行隊に配属され、11月7日にのH・R・バーウリィ(H.R. Barwley)操縦のブリストル ブレニム Mk. I爆撃機(L1325)を初めて撃墜した。フランス侵攻作戦中にミュンヒェベルクは1940年5月31日の1日で4機の戦果を含む8機の連合国軍機を撃墜した。バトル・オブ・ブリテンの初期にミュンヒェベルクはJG 26/第III飛行隊長のアドルフ・ガーランドの僚機を務め、8月末にはJG 26/第7飛行中隊の飛行中隊長に昇進し、9月14日に20機目の戦果を挙げると同日に騎士鉄十字章を授与された。この功績によりミュンヒェベルクは国防軍最高司令部が発表する軍事情勢報道の「国防軍軍報」("に採り上げられた(全5回の内初めて)。ミュンヒェベルクはバトル・オブ・ブリテン期間中に合計14機を撃墜した。1941年2月からミュンヒェベルクの飛行中隊は地中海戦線に配備されたメッサーシュミット Bf109機を装備した最初の部隊となった。シシリー島を拠点としたこの飛行中隊は1名のパイロットも失うことなくおよそ52機の戦果を挙げ、その部隊規模を考慮すると成功を収めたといえた。この戦果の内約半数はミュンヒェベルク自身のものであった。バルカン半島侵攻作戦支援のユーゴスラビア上空での作戦任務では4月6日にユーゴスラビア軍のホーカー フューリー複葉機を撃墜し、地上にいる別の1機を破壊したと申告した(実際は2機とも機であった)。2月16日にミュンヒェベルクは、第261飛行隊のジェームズ・マクラクラン(James Maclachlan)中尉のホーカー ハリケーン機を撃墜し、マクラクランは重傷を負いつつ脱出し腕を失ったが1943年中に戦闘任務に復帰した。2月26日には第261飛行隊所属の7機撃墜記録を持つマルタのエースパイロットF/O FF Taylorを撃墜し、テイラーは戦死した。1941年5月に騎士鉄十字章に柏葉とイタリアのを授与されたミュンヒェベルクはこの時点で43機を撃墜していた。1941年半ばの2カ月間はリビヤでのドイツアフリカ軍団への支援任務に就き、更に5機を撃墜した。8月にJG 26/第7飛行中隊はフランスに戻り、ミュンヒェベルクは1942年6月までに更に35機(内34機はスピットファイア機)を撃墜した。4月29日にミュンヒェベルクに撃墜され戦死したのはポーランド第1戦闘航空団(1st Polish Fighter Wing)の航空団長でポーランド人エースパイロットのだった可能性がある。9月19日にミュンヒェベルクは大尉に昇進し、JG 26/第II飛行隊の飛行隊長に就任した。1942年7月にミュンヒェベルクは東部戦線に配属され、に赴任した。9月5日に100機目を撃墜し、103機目を撃墜した後に柏葉付騎士鉄十字章に剣を授与された。ミュンヒェベルクは東部戦線戦域上空で33機のソ連軍機を撃墜し、その間自身は2度撃墜された。1942年10月1日にミュンヒェベルク少佐は、北アフリカとチュニジアに展開するの戦闘航空団司令に任命された。この戦域で挙げた24機の戦果の最初として11月9日に英第92飛行隊のスピットファイア機を撃墜した。12月10日にミュンヒェベルクは英第112飛行隊のH・C・シェヴァー(HC Shaver)中尉とR・R・スミス(RR Smith)中尉のキティホーク機との戦闘の後で乗機のBf 109-G2を不時着させたが負傷はしなかった。1943年の春にミュンヒェベルクは英米機を相手に100機を撃墜した2人目のドイツ軍パイロットとなった。1943年3月23日にミュンヒェベルクはチュニジア上空で135機目の戦果となるアメリカ陸軍航空軍の所属のスウィートマン(Sweetman)大尉操縦のスピットファイア機に機関砲の近接射撃を浴びせた後、敵機の爆発に巻き込まれた。何とか脱出し重傷を負ってパラシュートで着地したところを捜索隊が素早くミュンヒェベルクを収容したが野戦病院に向かう途上で死亡した。1962年11月30日にミュンヒェベルクの遺族(とハンス・ヨアヒム・マルセイユの遺族)に1,500DMの1回だけの名誉軍人年金がイタリア国防相ジュリオ・アンドレオッティから支払われた。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。