ヘウムノ()は、ヴィスワ川に面したポーランド北部の町。人口は2万人で、クルマーラントの中心を成す。かつてはトルン県に属したが、1999年の行政区分再編でクヤヴィ=ポモージェ県に組み込まれた。ヘウムノは古スラヴ語で「丘」を表すchełm(現在のポーランド語ではwzgórze)が語源とされる。英語のhillなどもこの同根語である。ドイツ語名はクルムだが、1772年から1807年と1815年から1920年にかけてはCulm、第二次大戦中のナチス占領時はKulmが公式表記とされた。1065年にポーランド王ボレスワフ2世がモギルノのベネディクト修道会に宛てた手紙がヘウムノの初出とされる。1226年にはマゾフシェ公コンラト1世がドイツ騎士団にクルマーラントの領有を請うた。1233年にクルム法という都市権を取得し、1251年に改定、これは後に国内の200以上の町で導入された。ドイツ騎士団のもとハンザ同盟で栄えたが、十三年戦争後の1466年にポーランドに編入されヘウムノ県の県都となった。ポーランド分割によって1772年にプロイセン王国領となり、1807年から1815年にかけワルシャワ公国に支配されたもののナポレオン諸戦争の終結により再びプロイセンが統治した。歴史の大部分でこの街ではドイツ人とポーランド人が共存してきた。1900年ごろの比率はドイツ人が3分の1、ポーランド人が3分の2であった。第一次世界大戦後にポーランドに併合され、第二次世界大戦までの間に経済発展を遂げた。第二次大戦開戦直後の1939年、この地を手中に収める過程でナチス・ドイツは5000人以上のポーランド人を虐殺した。残りのポーランド人もドイツの「生存圏」思想のもとポーランド総督府に追い出された。Polska Żyje、Rota、Grunwald、Szare Szeregiといったポーランド地下政府のレジスタンス組織もこの地で暗躍した。ドイツ軍は大戦末期の1945年1月25日に撤収したが、その際焦土作戦のもと病院、ターミナル駅、醸造所などに火が放たれた。中世の町並みや建造物がよく残されており、とりわけ下記の建造物が観光スポットとして知られる。
出典:wikipedia
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