林﨑 遼(はやしざき りょう、1988年6月12日 - )は、兵庫県姫路市出身の元プロ野球選手(内野手)。中学生時代は投手としてプレーし、全国大会での優勝経験がある。東洋大姫路高校では1年生の春にレギュラーを獲得。3年生の時、夏の甲子園・全国大会では全3試合に3番・遊撃手として先発出場し、12打数6安打、2本塁打、5打点、打率.500の成績で、準々決勝の駒澤大学苫小牧戦では、田中将大から2点本塁打を含む3安打を放った。東洋大学3年生の時、東都大学野球・春季リーグで11試合に出場し43打数14安打、1本塁打、12打点、打率.326の成績で、二塁手のベストナインに選ばれた。7月に行われた第37回日米大学野球選手権大会の日本代表メンバーに選ばれ、全5試合に出場したが13打数無安打だった。4年生時の春季リーグでは12試合に出場し44打数13安打、1本塁打、4打点、打率.295の成績で遊撃手のベストナインに選ばれた。7,8月に開催された第5回世界大学野球選手権大会の日本代表メンバーに選ばれたが、右肘痛の為に辞退した。東都大学リーグ通算成績は91試合に出場、285打数69安打、8本塁打、打率.242。2010年のプロ野球ドラフト会議で、埼玉西武ライオンズに5巡目で指名。契約金3,500万円、年俸1,000万円(金額は推定)という条件で入団した。背番号は00。ちなみに、この会議での指名を経て日本ハムに入団した乾真大は、高校・大学時代のチームメイトだった。には、7月19日の対福岡ソフトバンクホークス戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)の8回表に代打で一軍デビュー。翌20日の同カードでは、「9番・二塁手」としてスタメンに起用された。しかし、一軍公式戦への出場はこの2試合のみで、3打数無安打に終わった。その一方で、イースタン・リーグ公式戦には67試合に出場。打率.236、2本塁打、21打点という成績を残した。には、一軍公式戦5試合に出場。代走で1得点を記録したが、打席に立つ機会はなかった。イースタン・リーグ公式戦では、チーム最多の101試合に出場。打率.258、5本塁打、35打点を記録したほか、内野の全ポジションを守った。なお、シーズン終了後には、背番号を45に変更することが球団から発表された。は、「2番・二塁手」としてスタメンで出場した6月21日の対オリックス・バファローズ戦(西武ドーム)で一軍初安打を放つと、7月4日の同カード(京セラドーム大阪)では、中前への適時打で一軍初打点を挙げた。レギュラーシーズンでは、一軍公式戦で自己最多の31試合に出場。シーズン終了後の12月24日には、自身と同じ年齢の一般女性と結婚した。は、4月17日の対千葉ロッテマリーンズ戦(西武ドーム)で、シーズン初の一軍公式戦出場。「9番・遊撃手」としてスタメンで起用されたが、1回表の守備で打球を捕ろうと飛び込んだ際に左肩を痛めたため、1打席も立たずに交代した。その後の診断で脱臼が判明したが、夏場に一軍へ復帰すると、レギュラーシーズン通算で17試合に出場。打席数(38)、安打数(10)、得点(5)、犠打数(2)で自己最多記録を残したほか、2本の二塁打を放った。シーズン終了後の10月に左肩の手術を受けたため、患部のリハビリへ専念することを目的に、同月29日に球団から支配下選手契約の解除を通告。11月11日には、育成選手として契約したことや、背番号を120に変更することが球団から発表された。は、6月1日付で支配下登録選手に復帰し、背番号を45に変更。イースタン・リーグ公式戦では、93試合の出場で、打率.271、1本塁打、16打点という成績を残した。しかし、復帰後は一軍公式戦への出場機会がなく、10月2日に球団から戦力外通告を受けた。2015年11月10日に、12球団合同トライアウト(草薙球場)へ参加。7人の投手に対して、6打数2安打(1二塁打)1四球という結果を残した。しかし、他球団への移籍に至らなかったことから、現役を引退。自身と同時に西武から戦力外を通告された梅田尚通・前川恭兵と共に、株式会社トラバース(かつてのチームメイトだったG.G.佐藤の実父が経営する測量会社)へ入社した。
出典:wikipedia
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