転向(てんこう)とは今までの方向、方針、進路、職業、好みなどから変えること。また思想や政治的な主張や立場の変更、特に弾圧により共産主義や社会主義の立場を放棄すること。ここでは主に後者について述べる。類似する概念として、近世に行われたキリシタンに対する仏教・神道への改宗・棄教の強要があげられる。棄教したキリシタンのことを転びキリシタンと呼ぶ。戦前には、特別高等警察や憲兵、検察などによって硬軟あらゆる手段を使って「主義者」の「過激」思想を放棄させようとするのが国家の思想政策、思想行政であった。その際に、組織からの離脱を心理的に容易にさせるため、「これは変節ではなく、『正しい路線に転じ向かう』のだ」という論法がもちいられた。これが転向の起源である。戦後、思想・良心の自由が保障されるようになってからは「日和った」、「転んだ」などと軽蔑される傾向がある。ロシア革命やドイツ革命で帝政国家が倒されると、社会主義思想が高揚し、1922年に日本共産党が非合法のうちに結成された。しかし、政府は普通選挙の実施と引き換えに治安維持法(1925年)を制定してこれらの動きに対抗した。第1回普通選挙の後、三・一五事件(1928年)、四・一六事件(1929年)と共産主義者らの一斉検挙がおこなわれた。1928年の三・一五事件で検挙された水野成夫ら日本共産党労働者派は獄中転向第一号とされ、1933年6月には日本共産党委員長の佐野学は鍋山貞親とともに獄中から転向声明を出した。どちらも京都学連事件でも指揮をとり、後に思想犯保護観察所をつくる東京地方裁判所検事の平田勲が関わっていた。共通点としてソ連の指導を受けて共産主義・社会主義運動をおこなうのは誤りであり、今後は天皇を尊重した共産主義・社会主義運動をおこなうという内容であった。この声明は世間や獄中にあった運動家に大きな衝撃を与え、大量転向の動きを加速させた。拷問による転向もあったが、警察官や思想検事に「故郷の両親は泣いているぞ」などと情に訴えられる精神的な方法で説得された者もおり、転向した学生は大学当局や文部省から復学をすすめられ、社会復帰のために司法省に保護されて内務省や特高警察官から就職も斡旋されるなど様々な好条件で懐柔された。しかし、日本共産党などの活動は大衆との結びつきが薄く、インテリ層を中心としたものであったため、活動が大衆の生活や要求と遊離していることに悩み、運動から離れた者も多かった。転向しなかった194名が拷問で殺され、1503人が獄中で病死したとされている。昭和前期に治安維持法違反容疑で検挙された者は7万人を超えるといわれるが、多くの者が転向の誓約書を書いた。最後まで主義を貫いたのは日本共産党でも徳田球一・宮本顕治・袴田里見などごく少数(第二次世界大戦終結後まで残り、法廃止で釈放された者は“人民戦士”と称えられ、党幹部になった)であり、ほとんどの者が共産主義を放棄し、転向した(江田三郎も転向組である。圧迫に耐えかねた偽装転向、仮装転向と称されるものもあった)。当時の日本で主に国家社会主義への転向者が多かった背景には、統制経済政策に代表されるような全体主義という点では、ソ連型社会主義も国家総動員体制も共通項が存在したためといえる。また、転向したものの中には満洲国に理想の新天地を求めて大陸に渡ったものも多い(満鉄調査部)。もとプロレタリア作家の山田清三郎は満洲で文学運動の一翼を担い、大間知篤三は満州建国大学の教授となった。戦後には、佐野や鍋山、平林たい子らのように反共主義の立場を維持したものもいたが、中野重治や佐多稲子らのように過去を反省してふたたび日本社会党や日本共産党に入り、社会進歩の運動に参加した者も多い。逆に、福田正義などのように転向していた過去を隠していたとして批判をうけたものもいる。とくに、文学の分野では転向問題をテーマにした作品が多くかかれ、村山知義の『白夜』、中野重治の『村の家』などが知られ、島木健作の小説『生活の探求』(1937年)は当時、ベストセラーになるほどであった。この中では、農民運動に参加し、検挙されてから実際の運動から離脱して文学の道に向かった島木と、文学者としてプロレタリア文学運動への弾圧によって転向した村山・中野とは位相の差があるのだが、当時はひとしなみに転向文学としてあつかわれた。近代日本思想史上に広くみられた現象として転向をとらえることもある。例えば、幕末に攘夷を叫んでいた倒幕側の指導者が政権に就くと、一転して欧化政策を取るようになった。思想家でよく知られる例では、加藤弘之が啓蒙主義の天賦人権論から国権主義的な社会進化論に主張を変えたことや、三国干渉に衝撃を受けた徳富蘇峰が平民主義から国家主義に転じたことなどがある。また、1960年の安保闘争や平和運動で活躍した社会学者の清水幾太郎が『日本よ国家たれ』(1980年)で日本の核武装化を主張し、人々を驚かせたこともあった。日本共産党員・社会主義者であったが脱退し反共主義の立場に転じた人物には、第二次大戦前は田中清玄、水野成夫、赤松克麿、赤尾敏、戦後は西部邁、藤岡信勝、渡邉恒雄、佐藤勝巳らが転向の事例として挙げられている。明確な反共主義者ではなくとも、長谷川幸洋、末延吉正、猪瀬直樹、長谷川慶太郎など、学生運動や共産党から離れ保守寄りになったという人物は多い。雨宮処凛のように、民族派から革新側に「逆転向」するケースもあるが、日本では右派の運動家から左派に転向する者は(戦後の一時期を除き)比較的少数で例外的な存在である。そのような指摘がある一方で、転向が古今東西から広くみられる現象であることは確かである。古代ローマでは共和派が帝政派に変わることがあった。古くは革命家から反革命に転ずる者がいる。例えば、ナポレオン・ボナパルトはその典型である。ナポレオンは元々はフランス革命に参加したジャコバン党の熱烈な支持者であり、1791年に入党している。しかし、テルミドールの反動で逮捕された後、帝政派に転向し、世界に名を轟かせる皇帝となった。16世紀には、宗教改革を行ったマルティン・ルターが、反カトリックの観点から当初は反ユダヤ主義を批判し、ユダヤ人に同情していた。しかし、ユダヤ人のキリスト教への改宗がうまくいかなかったため、ユダヤ人に失望し、一転して強固な反ユダヤ主義に転じ、著書『ユダヤ人と彼らの嘘について』で、ユダヤ人の迫害や奴隷化を主張した。20世紀ではファシズムを創立したベニート・ムッソリーニは、イタリア社会党のサンディカリスト出身で、当初は共和主義や社会主義の傾向の強いファシスト・マニフェストを掲げた。ナチスも、長いナイフの夜によりヒトラー独裁体制が徹底する前には、オットー・シュトラッサー、ヨーゼフ・ゲッベルスら社会主義傾向の強いナチス左派が党内に存在していた。現代ではネオコンもトロツキストから転向したとされており、それ以前の世代でもバリー・ゴールドウォーターやロナルド・レーガンが民主党から共和党に転向したとされている。このように転向はグローバルに見られる現象といえる。
出典:wikipedia
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