モルダヴィア自治ソビエト社会主義共和国、(、)は1924年10月12日にウクライナ・ソビエト社会主義共和国(ウクライナSSR)に設置された自治共和国。短くモルダヴィアASSR、或いはモルドバASSRともいう。おおよそ現在沿ドニエストル共和国全域とウクライナの一部が領土であった。ロシア内戦の間、モルダヴィアASSRの領域は白軍、赤軍、コサック、ウクライナ人民兵、多数の山賊などの手を12回に渡って行き来した。1920年のボリシェヴィキ勢力の勝利の後、ウクライナSSRの領土になった。自治共和国の設立はグリゴリー・コトフスキー(Grigore Kotovski)を初め多くの活動家に署名された書簡によって始められた。署名者は多くがベッサラビア出身で、全員がボリシェヴィキの運動家だった。自治共和国の建国は困難な問題になった。ソビエト外交の人民委員ゲオルギー・チチェーリンは設立が時期尚早であり、“ルーマニア人の狂信的愛国主義の拡大”を左右すると考えていた。一方、コトフスキーは新しい共和国は隣接したベッサラビアに共産主義思想を広め、ルーマニアやバルカン半島に革命をもたらすチャンスもあると考えていた。1924年3月7日、モルドバ人の自治州をウクライナSSR内に設置することが慎重に決められた。民族に基づいた自治共和国を作ることは当時のソ連の一般的な方針であり、モルダヴィアASSRも同じであった。また、ソ連はモルダヴィアASSRの建国がベッサラビアへの領有主張を補強することを望んだ。ソビエト連邦においてモルダヴィアASSRはベッサラビアを手に入れ、ルーマニアに革命を起こす第一歩であった。この目的は1924年のオデッサ・イズベスチヤで明らかにされた。この中でロシアの政治家は「全ての抑圧されたベッサラビアのモルドバ人は自由と人権の光を広める灯台のような共和国の未来を受け入れるであろう。」と語っている。 また、モスクワで発行された本には「モルドバの経済的、文化的発展が始まり、ブルジョワ支配のルーマニアはベッサラビアの維持は出来ないだろう。」と述べられている。この地域は労働力の条件に恵まれたため速やかに工業化され、他のソビエト共和国からの移住が顕著であった。これらの移住者の多くはウクライナ人とロシア人であった。特に1928年には14300人の工業労働者の内、モルドバ人は600人だけであった。1925年にはモルダヴィアASSRは飢饉を乗り切った。1927年12月、タイム誌が報じたところによるとティラスポリとその他のウクライナSSRの南部都市でいくらかの農民と工場労働者の間に反ソビエトの反乱が起こった。モスクワから兵がこの地に送られ、この反乱を鎮圧した結果4000人が死亡したとされる。当時、クレムリンの公式発表でこの反乱は完全に否定された。モルダヴィアASSRでの集団農場化はウクライナよりも早いペースで進み、1931年の夏に完了したと報道された。2000家族あまりが国外追放でカザフ・ソビエト社会主義共和国に送られた。1932年から1933年にかけての、ウクライナではホロドモールとして知られる飢饉では何万人もの農民が飢餓で死んだとされている。飢饉の間、銃殺される可能性にもかかわらず数千人の住人がドニエストル川を越えて逃げることを試みた。これらの中で最も有名な事件は1932年2月23日のオラネスチ(Olăneşti)村の事件であり、40人あまりが射殺された。これは生存者によって欧州の新聞各社に報じられることになった。ソビエト側はこれを「ルーマニア人の宣伝活動によって打倒されたクラーク(富農)」の脱走として報じた。現代の言語学者はモルドバ語とルーマニア語の間で、主にアクセントと語彙に小さな違いがあるということに同意しているが、モルダヴィアASSRの中ではモルドバ語がルーマニア語と大いに違うという見解が促進された。また、ベッサラビアのモルドバ人は「ルーマニアの帝国主義者に抑圧されている」と主張し、ルーマニアに対する民族統一主義を促進した。ルーマニア(ルーマニアブルジョワ文化)の影響から距離を置きソビエト・モルダヴィア(モルドバ共産主義文化)の言語を保つ努力の一部として、ルーマニアで公式に使われているラテン文字と対照的に、言葉を書くために改良されたキリル文字が使われた。言語学者レオニード・マダン(Leonid Madan)はトランスニストリアとベッサラビアのモルドバ方言に基づき、ロシア語からの借用語とロシア語を基礎にした翻訳借用語を使った文語体系を確立する仕事を課された。1932年、全ソ連で言葉をラテン文字に移す動きがあり、ラテン文字とルーマニア語の書き言葉はモルドバ人学校や公的使用にも導入された。マダンの本は図書館から外され、破棄された。しかしながらこの運動は短い間に終わり、1940年代後半にはソ連で言語をキリル文字に移す新しい流行が始まった。1937年、ソ連の大粛清の間、モルダヴィアASSRの多くの知識人は、ブルジョワ、ナショナリスト、トロツキストとして人民の敵として告発され、元の立場から排除され、抑圧され、多くの人間が処刑された。1938年、キリル文字は再びモルドバ語の公式な文字と宣言され、ラテン文字は禁止された。しかしながら書き言葉はマダンの作った物に完全に戻らず、ルーマニア語との近さが維持された。1956年以降マダンの影響は教科書から完全に取り除かれた。この政策は1989年まで有効なものとして残っていた。キリル文字はモルドバの分離独立地域、沿ドニエストル共和国ではいまだ使われており、いまだに言語をそのルーツに戻すと主張している。1940年6月26日、ソ連政府はモスクワ駐在ルーマニア大使に最後通牒を突きつけ、ルーマニアに直ちにベッサラビアと北ブコビナの割譲を要求した。一方、イタリアとドイツは安定したルーマニアを望んでおり、その油田への接続をカロル2世に強く迫っていた。脅迫の下、フランスやイギリスからの援助がなかったため、ルーマニアはソ連に対しこれらの土地を割譲した。6月28日、ソ連軍はドニエストル川を渡り、ベッサラビアと北ブコビナ、ヘルツァ(Hertza)を占領した。ウクライナ人が最大の民族集団であった北ブコビナ、ホティン(Hotin)、アッカーマン(Akkerman)、イズマイールなどの地域と同様、ヘルツァなどルーマニア人が多数派であり陸で接続された地域はウクライナに併合された。ベッサラビアの黒海岸と、ドナウ川正面のウクライナへの移動はソ連が黒海を安定支配することを確実にした。1940年8月2日、ソビエト連邦はモルダビア・ソビエト社会主義共和国(モルドバSSR)を設置、モルダヴィアASSRは事実上解散した。モルドバSSRはベッサラビアの最西部にモルダヴィアASSRを加えたの6つの地域が範囲になった。モルダヴィアASSRはウクライナのオデッサ、ポジーリャとして管理されていた領域から作られた。このときこの領域はウクライナSSRのおおよそ人口と領土の2%を占めていた。当初、この州は4つの地域をもち、全ての地域でモルドバ人が多数派であった。1924年10月8日、この州は自治共和国の立場に変更され、バルタ のようにモルドバ人が少数派の地域の幾つかも領域に含むようになった。たとえばバルタには2.52%しかモルドバ人が住んでいなかった。公式な首都は“一時占領されたキシニョフ市”とされ、この間、モルダヴィアASSRの首都はバルタに設置され、1929年にはティラスポリに移された。この状態はモルダヴィアASSRが1940年に建国されたモルドバSSRに統合されるまで続いた。モルダヴァASSRはウクライナ人46%とモルドバ人32%で、人口は545,500人であった。面積は8,677kmであり、ドニエストル川東岸の11地域を含んでいた。ソ連の1926年の統計によると、人口は572,339人であった。また、人種順に見ると次のような値であった。多くの領土があてがわれたにもかかわらず、モルダヴィアASSRの領域外のウクライナに85,000人のモルドバ人が存在していた。モルドバ共産独裁研究委員会は1917年から1991年の共産党時代を研究、分析している。
出典:wikipedia
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